目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第十七回 火難水難




 李秀りしゅうへいかくは、何も言わぬまま丘を下り、がいえいざんの方へ歩き出した。


 やがて日が暮れたので、小ぎれいな宿に入って休む。


 収星陣しゅうせいじんの女子二人はいつも一緒の部屋になっていたので、ここに来てようやく普段の調子が戻ってきた。


「疲れたね。ここの宿、浴室が広いみたい。今日は一緒に入ろうか」


「ええ」


 二人は浴室で大きなタライに湯を入れ、ゆっくりと身体を洗う。涼しい夕方で、気持ちもだいぶ楽になってきた。


「秦典枢たちのことは残念だけど、吹っ切って行くしかないね」


 李秀が、ずっと思ってきたことを言うと、萍鶴も


「そうね。私たちが、彼らと争いにならなかっただけでも幸いだわ」


 と継いだ。


 李秀はタライの中でぐるりとあおけになると、脚を伸ばし、思い出したように言った。


「そうだよね、らいせんが口をすべらせて、危うく敵になるところだったんだもん」


「みんな、無事だといいわね」


 萍鶴が、洗い髪を手ぬぐいで結い上げ、うなじにかけ湯をしながら言った。


 それを聞いて、李秀は明るく笑う。


「森が直ったんだもん、誰かがしゅうせいしたんだよ。だから大丈夫!」


 李秀がグッと親指を立てたので、萍鶴はほほ笑みを返した。




 やがて寝る時刻になったのだが、隣の部屋がやたらとうるさい。


 李秀が、機嫌悪く飛び出した。


「気になってしょうがない。ちょっと注意してくるね」


 萍鶴は止めようとしたが、間に合わなかった。


 隣の部屋には、いい歳の男が二人、酒を飲んでいた。


「すみません、隣部屋の者ですけど。少し静かにしてくれません?」


 李秀はがんこう鋭く言ったが、男たちは笑ってまねきする。


「おお、せいのいい少年だ! お前も飲め」


「は? 少年じゃないわよ!」


「いいから座れよ。おおい女将おかみ、酒を追加だ!」




 その後、様子を見に行った萍鶴も捕まり、二こく(三〇分)ほど経った頃には、四人でかなりの量を飲んでいた。


 そのうちに男の一人、韋橋いきょうという者が、さめざめと泣き出す。


 きじの丸焼きにかじり付いていた李秀が、すいがんを向けた。


「なによ、いきなり泣いたりしてえ」


 韋橋は、鼻をすすりながら答える。


「俺たちが、なぜここで飲んでいるか知ってるか。俺とこっちのかいさんかいは、今日出会ったばかりで、旧知でもなんでもない」


「そうなの?」


 萍鶴が不思議そうに言った。かなり飲んでいるのに、彼女は全く変化がない。


 解山開が、泣きながらうなずいた。


「俺は火事で、家も家族も失った。行く当てが無くて旅をしていたら、こいつに会ったんだ」


 韋橋も大きく頷き、


「俺は大雨のせいでてっぽうみずが起きて、家と家族をなくした。それでこの街に来た」


きょうぐうが似ていたので、話が合ったのね」


 萍鶴が納得する。


「なるほろ。萍鶴ちゃんは、あたまいいねえ」


 李秀はべろべろになっている。


 急に韋橋が、目を光らせて言った。


「行き場の無くなった俺たちは、山賊にでもなってやろうって話をしていたんだ。ちょうどこの辺りには、はっこうざんしんてんすうってのがいると聞いている」


 萍鶴ははっとしながらも、落ち着いた声で言った。


「……秦典枢は、官軍と戦ってぼっしたわ。つい昨日のことよ」


「なんだって!」


 二人の男は、大声で叫ぶ。


「畜生、俺たちはどこまで運が無いんだ。山賊にすらなれないのか」


 泣き崩れる韋橋の背を、解山開が叩く。


「いや、こうなったら、俺たち二人ではたげしよう。明日になったら、この辺りの金持ちを襲ってやる」


 足元をふらつかせながら、李秀が立ち上がった。


「そんな物騒なこと、あたしたちも混ぜなさい!」


「李秀、飲み過ぎよ。おいとましましょう」


 萍鶴がなだめて、李秀を部屋に連れ帰る。各々はそれぞれ眠り、喧噪けんそうな夜は終わった。




 翌朝、李秀と萍鶴は宿を出た。


 歩き出しはしたものの、いまいち李秀の足取りが悪い。


「あんなに飲むからよ」


 萍鶴が冷ややかに言った。


「うー……。あのお酒がいけないのよ。とんでもない安酒だわ」


「あそこの河で、休みましょうか。私も少し、気分が良くないし」


「そうねえ……」


 二人は、近くの河岸までやってきた。


 李秀は水を飲んで、ようやく調子が戻る。そのとき、後ろから声をかけられた。


「おう、昨日の嬢ちゃんたち。本当に来てくれるのか」


「金持ちの屋敷が近くにある。早速行こうぜ」


 振り返ると、昨日会った韋橋と解山開が、軽装の鎧を着て立っている。


 冗談にも取れるが、李秀と萍鶴は、彼らからおんな殺気を感じた。


「様子がおかしいわね」


「そうだね。こんなに目付き悪くなかったよ」


 韋橋が、こくはくな笑いをした。


「宿を出たら、武将姿ぶしょうすがたの奴が二人現れてね。暴れたいなら力を貸すって言ったのさ」


 解山開も同じ表情で言う。


「そしたらそいつらが、俺たちの中に入ってね。本当に力がいてきたんだ」


 韋橋が、鎧の胸板を叩く。


「夕べは勢いで山賊になるなんて言ったが、本当はそんな度胸も無かった。でも、今なら何でもできそうな気がする」


 解山開が、立派な弓を見せた。


「ほら、だからちょっとふんぱつして、鎧と武器を揃えてきたのさ」


 李秀と萍鶴は、無言で頷き合って武器を構えた。


「おお、嬢ちゃんも、大層なのを持ってるな」


「ねえおじさん、やっぱり止めときなよ」


「その力は、危険なの。すぐに済むから、じっとしていて」


 萍鶴は、韋橋に向かって筆を振るい、ぼくを撃った。


 しかし、韋橋は手にしていた槍を一振り、墨をはじき消す。そして言った。


「なんだ、やろうってのかい。邪魔をするなら、容赦はしないぜ」


 ぱっと李秀が飛び出して、韋橋に打ちかかった。しかし解山開が割り入って、こうとうげきを受け止める。


「手分けしよう、萍鶴」


「ええ」


 李秀は武器をまじえながら、左へ流れて走っていく。萍鶴は逆に右へ走った。




 韋橋はつられて走ったが、やがて萍鶴の前に回り込む。


「それ! 風邪ひく前に帰りな!」


 韋橋は槍を河中かちゅうに突っ込むと、勢いよく引き抜いた。それに伴って大量の水が舞い上がり、豪雨となって萍鶴に降り注いで来た。


「いけない」


 萍鶴は慌てた。飛墨顕字象ひぼくけんじしょうは、水に弱い。墨がぼかされると文字が現しにくくなる。


 萍鶴はとっさに、腰に付けたたけづつを投げつけた。しかし韋橋は身をかがめてかわす。そのすきを突いて、萍鶴は飛墨を撃った。しかし韋橋が降らせた雨がかき消し、墨は届かない。


「雨をかわせば、どうかしら」


 萍鶴は、雨の届いていない後方へ二発、飛墨を撃った。一弾目は岩壁に当たり、上方向への矢印を現した。そして二弾目はその矢印に当たると、大きく放物線を描いて雨を越え、韋橋に落ちていく。


「ふんっ!」


 しかし韋橋は槍を一閃し、これを受けた。墨は槍の飾り布に当たり、「ぼく」の文字が現れる。次の瞬間、布は弾けるように飛んで落ちた。


 韋橋は驚き、大きく後退する。そして槍を横一文字に構えた。


「筆が武器とは妙だと思ったが、そういう技か。怖ろしいな。もう手加減はしないぞ」


 そう言うなり、雨がやんだ。しかし同時に萍鶴は、全身から大量の汗をかき始める。暑くもないのに、とめどなく汗が流れた。腰に付けたすみつぼからも、蒸気が上がっている。


 韋橋が静かに言った。


「残酷な技ですまない。お前を脱水する」


 萍鶴は、目眩めまいがした。




 ◇




 李秀は熱さに顔をしかめた。


 解山開が、立て続けに矢を射ってくる。その矢は空中で火が灯り、せんとなって李秀を襲う。李秀は逃げながら戟で打ち落としているが、いくつか飛び火を受けている。


「えいっ」


 ちょうど解山開が弓を引き絞る瞬間を狙い、李秀は右の戟を投げつけた。解山開はとっさに弓で受けたが、衝撃で弓が折れる。


「ちっ。じゃあ次の手だ」


 解山開は、懐から革袋を取り出して李秀に投げつけた。李秀が戟で払うと、液体が飛び出して身体にかかる。


「匂いをいでみな」


「これ……、油?」


 解山開は、笑いながら鋼刀を抜いた。抜くと同時に、とうしんに炎が灯る。


「女を焼くのは気が引けるが、こんな技しか無いんだ。悪く思うな」


 解山開が刀を振る。炎が尾を引いて舞い、竜のように飛んできた。


「危ない!」


 李秀は驚きながら炎を避ける。解山開がさらに刀を振る。えんりゅうはその度に舞い上がり、李秀に向かってくる。


「あっ」


 李秀は、草に足を取られて倒れた。そのまま、くさを転がりながら逃げる。


 李秀の身体は小さい。解山開の視点からは、彼女の姿がよく見えなくなった。


「これならどうだ!」


 解山開は、地面すれすれの高さで、大きく刀を横に払った。草を焼きながら、炎竜が大きな輪となって襲いかかる。


「きゃあああっ!」


 李秀のいる一帯が、猛火に包まれた。




 ◇




 身体がらび始めた。萍鶴は片膝を着く。


 韋橋が、槍を手短てみじかに持って言った。


「苦しいだろうな。今、楽にしてやる」


 そのとき、何かが飛んできた。韋橋が驚いてかがむと、萍鶴は手を伸ばしてそれをつかむ。


 それは、先ほど投げた竹筒だった。「大旋回」と書かれている。


「予備のすみづつよ。飛墨で、ここから遠ざけておいたの」


 萍鶴は竹筒を開けた。中の墨が蒸発しないうちに筆にひたしながら、走る。


 韋橋は体勢を直そうとしたが、間に合わなかった。萍鶴は走り抜けながら、韋橋の頬に「調ちょうぶく」と飛墨を撃った。


 韋橋は、身体の動きを止めた。そしてばったりと倒れる。彼の身体から、光るじんしょうが抜け出た。


「お見事、私の負けだ。逃げはしない。早く身体をうるおしなさい」


 せいがそう言ったので、萍鶴は頷き、ふらふらと河に飛び込んだ。




 ◇




 解山開が刀をさやに収めた。李秀の姿が、燃え落ちるように崩れる。解山開は後ろを振り向いて歩き出した。


「甘いわね」


 解山開が振り向くと、李秀が炎を割って突っ込んできた。そして戟を鋭く振るう。


「ぬうっ」


 首筋を打たれて、解山開は気絶した。


「あたしは湿しっに逃げたのよ。だから油も草でき取れた。火は、そこのあしが燃えただけ。さあ、その人から出てきなさい」


 李秀は、倒れた解山開に戟を突きつける。まもなく、神将が抜け出て来、おごそかに一礼した。


 もうせいれんけつな様子なのを見定めると、李秀は彼を残して萍鶴をさがし始める。


「あっ!」


 李秀は、河でりゅうぼくのように流されている萍鶴を発見した。急いで飛び込み、彼女を抱え上げる。


「萍鶴……! まさか、死んじゃったの?」


 そのとき萍鶴は、干涸らびた指で李秀の頬に触れた。


「生きているわ、李秀。……でも私、もう少し水にかっていないとだめみたい」


 ほっとした李秀は、抱えていた手を放した。萍鶴はゆっくりと流れの中に沈む。


「良かった。萍鶴、あとで収星お願いね。そしたら、早くみんなを捜そう!」


 李秀が大きな声でそう言うと、萍鶴は水中から右手を出して、グッと親指を立てた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?