やがて日が暮れたので、小ぎれいな宿に入って休む。
「疲れたね。ここの宿、浴室が広いみたい。今日は一緒に入ろうか」
「ええ」
二人は浴室で大きなタライに湯を入れ、ゆっくりと身体を洗う。涼しい夕方で、気持ちもだいぶ楽になってきた。
「秦典枢たちのことは残念だけど、吹っ切って行くしかないね」
李秀が、ずっと思ってきたことを言うと、萍鶴も
「そうね。私たちが、彼らと争いにならなかっただけでも幸いだわ」
と継いだ。
李秀はタライの中でぐるりと
「そうだよね、
「みんな、無事だといいわね」
萍鶴が、洗い髪を手ぬぐいで結い上げ、うなじにかけ湯をしながら言った。
それを聞いて、李秀は明るく笑う。
「森が直ったんだもん、誰かが
李秀がグッと親指を立てたので、萍鶴はほほ笑みを返した。
やがて寝る時刻になったのだが、隣の部屋がやたらとうるさい。
李秀が、機嫌悪く飛び出した。
「気になってしょうがない。ちょっと注意してくるね」
萍鶴は止めようとしたが、間に合わなかった。
隣の部屋には、いい歳の男が二人、酒を飲んでいた。
「すみません、隣部屋の者ですけど。少し静かにしてくれません?」
李秀は
「おお、
「は? 少年じゃないわよ!」
「いいから座れよ。おおい
その後、様子を見に行った萍鶴も捕まり、二
そのうちに男の一人、
「なによ、いきなり泣いたりしてえ」
韋橋は、鼻をすすりながら答える。
「俺たちが、なぜここで飲んでいるか知ってるか。俺とこっちの
「そうなの?」
萍鶴が不思議そうに言った。かなり飲んでいるのに、彼女は全く変化がない。
解山開が、泣きながら
「俺は火事で、家も家族も失った。行く当てが無くて旅をしていたら、こいつに会ったんだ」
韋橋も大きく頷き、
「俺は大雨のせいで
「
萍鶴が納得する。
「なるほろ。萍鶴ちゃんは、あたまいいねえ」
李秀はべろべろになっている。
急に韋橋が、目を光らせて言った。
「行き場の無くなった俺たちは、山賊にでもなってやろうって話をしていたんだ。ちょうどこの辺りには、
萍鶴ははっとしながらも、落ち着いた声で言った。
「……秦典枢は、官軍と戦って
「なんだって!」
二人の男は、大声で叫ぶ。
「畜生、俺たちはどこまで運が無いんだ。山賊にすらなれないのか」
泣き崩れる韋橋の背を、解山開が叩く。
「いや、こうなったら、俺たち二人で
足元をふらつかせながら、李秀が立ち上がった。
「そんな物騒なこと、あたしたちも混ぜなさい!」
「李秀、飲み過ぎよ。お
萍鶴がなだめて、李秀を部屋に連れ帰る。各々はそれぞれ眠り、
翌朝、李秀と萍鶴は宿を出た。
歩き出しはしたものの、いまいち李秀の足取りが悪い。
「あんなに飲むからよ」
萍鶴が冷ややかに言った。
「うー……。あのお酒がいけないのよ。とんでもない安酒だわ」
「あそこの河で、休みましょうか。私も少し、気分が良くないし」
「そうねえ……」
二人は、近くの河岸までやってきた。
李秀は水を飲んで、ようやく調子が戻る。そのとき、後ろから声をかけられた。
「おう、昨日の嬢ちゃんたち。本当に来てくれるのか」
「金持ちの屋敷が近くにある。早速行こうぜ」
振り返ると、昨日会った韋橋と解山開が、軽装の鎧を着て立っている。
冗談にも取れるが、李秀と萍鶴は、彼らから
「様子がおかしいわね」
「そうだね。こんなに目付き悪くなかったよ」
韋橋が、
「宿を出たら、
解山開も同じ表情で言う。
「そしたらそいつらが、俺たちの中に入ってね。本当に力が
韋橋が、鎧の胸板を叩く。
「夕べは勢いで山賊になるなんて言ったが、本当はそんな度胸も無かった。でも、今なら何でもできそうな気がする」
解山開が、立派な弓を見せた。
「ほら、だからちょっと
李秀と萍鶴は、無言で頷き合って武器を構えた。
「おお、嬢ちゃんも、大層なのを持ってるな」
「ねえおじさん、やっぱり止めときなよ」
「その力は、危険なの。すぐに済むから、じっとしていて」
萍鶴は、韋橋に向かって筆を振るい、
しかし、韋橋は手にしていた槍を一振り、墨を
「なんだ、やろうってのかい。邪魔をするなら、容赦はしないぜ」
ぱっと李秀が飛び出して、韋橋に打ちかかった。しかし解山開が割り入って、
「手分けしよう、萍鶴」
「ええ」
李秀は武器を
韋橋はつられて走ったが、やがて萍鶴の前に回り込む。
「それ! 風邪ひく前に帰りな!」
韋橋は槍を
「いけない」
萍鶴は慌てた。
萍鶴はとっさに、腰に付けた
「雨をかわせば、どうかしら」
萍鶴は、雨の届いていない後方へ二発、飛墨を撃った。一弾目は岩壁に当たり、上方向への矢印を現した。そして二弾目はその矢印に当たると、大きく放物線を描いて雨を越え、韋橋に落ちていく。
「ふんっ!」
しかし韋橋は槍を一閃し、これを受けた。墨は槍の飾り布に当たり、「
韋橋は驚き、大きく後退する。そして槍を横一文字に構えた。
「筆が武器とは妙だと思ったが、そういう技か。怖ろしいな。もう手加減はしないぞ」
そう言うなり、雨がやんだ。しかし同時に萍鶴は、全身から大量の汗をかき始める。暑くもないのに、とめどなく汗が流れた。腰に付けた
韋橋が静かに言った。
「残酷な技ですまない。お前を脱水する」
萍鶴は、
◇
李秀は熱さに顔をしかめた。
解山開が、立て続けに矢を射ってくる。その矢は空中で火が灯り、
「えいっ」
ちょうど解山開が弓を引き絞る瞬間を狙い、李秀は右の戟を投げつけた。解山開はとっさに弓で受けたが、衝撃で弓が折れる。
「ちっ。じゃあ次の手だ」
解山開は、懐から革袋を取り出して李秀に投げつけた。李秀が戟で払うと、液体が飛び出して身体にかかる。
「匂いを
「これ……、油?」
解山開は、笑いながら鋼刀を抜いた。抜くと同時に、
「女を焼くのは気が引けるが、こんな技しか無いんだ。悪く思うな」
解山開が刀を振る。炎が尾を引いて舞い、竜のように飛んできた。
「危ない!」
李秀は驚きながら炎を避ける。解山開がさらに刀を振る。
「あっ」
李秀は、草に足を取られて倒れた。そのまま、
李秀の身体は小さい。解山開の視点からは、彼女の姿がよく見えなくなった。
「これならどうだ!」
解山開は、地面すれすれの高さで、大きく刀を横に払った。草を焼きながら、炎竜が大きな輪となって襲いかかる。
「きゃあああっ!」
李秀のいる一帯が、猛火に包まれた。
◇
身体が
韋橋が、槍を
「苦しいだろうな。今、楽にしてやる」
そのとき、何かが飛んできた。韋橋が驚いてかがむと、萍鶴は手を伸ばしてそれをつかむ。
それは、先ほど投げた竹筒だった。「大旋回」と書かれている。
「予備の
萍鶴は竹筒を開けた。中の墨が蒸発しないうちに筆に
韋橋は体勢を直そうとしたが、間に合わなかった。萍鶴は走り抜けながら、韋橋の頬に「
韋橋は、身体の動きを止めた。そしてばったりと倒れる。彼の身体から、光る
「お見事、私の負けだ。逃げはしない。早く身体を
◇
解山開が刀を
「甘いわね」
解山開が振り向くと、李秀が炎を割って突っ込んできた。そして戟を鋭く振るう。
「ぬうっ」
首筋を打たれて、解山開は気絶した。
「あたしは
李秀は、倒れた解山開に戟を突きつける。まもなく、神将が抜け出て来、
「あっ!」
李秀は、河で
「萍鶴……! まさか、死んじゃったの?」
そのとき萍鶴は、干涸らびた指で李秀の頬に触れた。
「生きているわ、李秀。……でも私、もう少し水に
ほっとした李秀は、抱えていた手を放した。萍鶴はゆっくりと流れの中に沈む。
「良かった。萍鶴、あとで収星お願いね。そしたら、早くみんなを捜そう!」
李秀が大きな声でそう言うと、萍鶴は水中から右手を出して、グッと親指を立てた。