「賊軍め!
という叫びが響き、全員が起きた。まだ真夜中である。
李白が眠い目をこすり、ため息をついた。
「いかん、
そのとき、寝室から張巡が飛び出した。髪を振り乱し、
「おのれ賊兵、よくも我が城を
張巡は、狭い廊下で刀を振り回した。李白は逃げながら誘導し、
「どうなってるんですか、これは」
「張巡どのは今、悪夢に
そういって李白は剣を鋼先に渡し、
「ちょうどいい、習った技を試してみろ」
と言って鋼先の尻を蹴った。
「こっちはくたくたなのに、ひでえな」
鋼先はぼやきながら、
「
「師匠、無理だ無理。代わってよ」
「いや、この張巡どのは強すぎるな。どうやら本当に怨霊になったつもりらしい」
李白は、皆に逃げろと合図した。全員で駆け出すが、張巡は
「ちょっと考えがあるの。何とか時間を稼いでて」
と走り去った。
「やってみるわ」
と、振り向きざまに
しかし張巡は手を伸ばして雷先の
「あっ、兄貴」
「ほほう、これが
李白が目を細めた。そして萍鶴に歩み寄る。
「ちょっと私にやらせてくれんか」
李白が手を出したので、萍鶴は筆を抱き
「他の人に触れさせると、
と断る。李白はにやりと笑い、
「じゃあこれなら大丈夫だな」
と、萍鶴の手首を取って、彼女の手ごと輝影を振った。
墨は張巡には当たらなかったが、彼の近くの壁に文字を現す。
『出門不顧後 報国死何難』
張巡は、飛墨で書かれた詩に目を留めた。そして声に出して読む。
「……出陣したら振り向くな、国に報いるため死は怖れず。これは、俺のことか」
李白は首を振り、
「そうではないが、昔、
張巡は、繰り返し詩を読み、涙を流す。
萍鶴が感心して李白を見た。
「力ではなく、言葉で人の心を止める。……こういう飛墨は、思いつかなかったわ」
李白は笑い、片目をつむってみせる。
しかし張巡は目を
「そうだ、死んだら終わるとは限らぬ。怨霊となった俺は、誰にも倒せぬぞ!」
張巡は豪快に刀を振り、壁を詩ごと叩き斬った。雷先は止まったまま投げ出され、地面に転がる。
「ううむ、
「危ない、どいてください」
うなる李白を萍鶴が押し退け、筆を振るって連続で飛墨を放った。
「食らわぬぞ!」
張巡は、水車のように勢いよく刀を回し、
「こりゃやばい。ここでやられたら、相当かっこ悪いぜ」
鋼先が
「
張巡は、頭上で刀を振り回して
すさまじい気合いに驚き、二人が硬直した。張巡はそれに肉迫し、今にも刀が振り下ろされるというとき、
「はい、お待ちどおっ!」
突然李秀の声がしたかと思うと、三人に大量の水がかけられた。
「はっ!」
ずぶ濡れになった張巡は、驚いて立ち止まる。刀を取り落とし、辺りを見回した。
「お、俺は、また夢を?」
「間に合って良かった。目を覚ますには、これが一番よね」
大きなタライをかかげて、李秀がいたずらっぽく笑った。
「もうだめかと思ったぜ。ああ、疲れた」
濡れた髪を振りながら、鋼先ががっくりと膝を折る。
「どうも、夢の内容が進んでいたようだな。張巡どの、話してもらえないか」
李白が心配そうな目を向ける。張巡は、黙って
雷先も飛墨を消されて元に戻り、皆は廟に帰った。まだ夜も明けていないが、卓を囲んで張巡の話を聞く。
「賊軍が城を攻め落とした。俺は無念の中、
「夢で斬り捨てられちゃたまらねえよ」
鋼先が言った。雷先が
「悪夢がここまでひどくなるとは思わなかった。君たちにも迷惑をかけて、申し訳ない」
「悪夢は、いつから見ていたんですか?」
李秀が尋ねる。張巡は、指を折って日を数えた。
「九日前になる。……そうだ、
「だと思ったぜ」
鋼先が頷く。そして
「すぐに
「ちょっと、待ってくれないか」
張巡が手で制した。
「ただの悪夢だと思っていた。だが、さっきの李白どのの詩、あれは」
李白が頷き、
「北の幽州へ行ったときのものだ。貴殿なら分かるだろう、
「やはり、
張巡は拳を固めて卓を叩いた。茶碗がいくつか倒れる。
「安禄山が叛乱するなら、あの夢はきっと本当になる。俺は
皆は、張巡を見ながら固まってしまった。
ややあって、李白が立ち上がる。
「仕方ないな。鋼先、その剣は収めるんだ」
そう言って鋼先に目配せし、制する手つきをする。
鋼先が頷いたとき、しかし、李白が素早く追魔剣を奪った。
「すまんな」
李白は剣を
「ううっ!」
張巡は大きく震え、身体を
張巡は気を失い、倒れてしまった。李白はため息をつく。
「張巡どのを連れてきたのは私だ。強引だが、これで終わりにしよう」
そう言って、今度は自分の腕に追魔剣を刺す。光と共に、
「楽しかったぞ、天傷星。元気でな」
李白は歯を見せて笑うと、倒れ込んで眠った。
鋼先たちは
翌朝になると、ちょっとした異変が起きていた。
張巡と李白は、昨日までのことを憶えていないという。
ぎこちない様子で座り、皆で朝食を取る。
スープを飲みながら、張巡が笑って言った。
「世話になったようだが、憶えていなくてすまない。なんだかとても良く眠れたよ」
「は、はあ」
「ほう、良い夢でも見ましたかな」
李白が笑顔で訊く。張巡は頷き、
「どこかの城壁に登り、青く澄んだ空を見上げている夢でした。とても
「はは、それはうらやましい。私もそんな夢を見て、詩に
そんな他愛もない話をして、朝食は終わる。その後、張巡が、荷物をまとめながら言った。
「俺は
李白も
「私もまた旅に出ることにする。達者でな」
二人は大きな街道まで行くというので、鋼先たちもそこまで見送ることにした。魔星のことや酔剣のことも話せないので、いくらか寂しくはあったが、余計なことは言うまい、と目で合図し合う。
「では道中お気を付けて。さようなら!」
鋼先が礼をすると、二人は手を振って去って行った。暑くはあるが、空が青く、風が強く吹いている。
鋼先たちは、
◇
「あれで、良かったのかな。ちょっと味気ない別れ方になったが」
亥衛山の方を振り向いて、李白は首を
張巡が、目を閉じて笑みを浮かべる。
「いいんです。俺たちのことが、彼らの負担になってはいけない」
「急に、忘れた芝居をしようなんて言い出すから
李白は胸に手を当てて息をついた。張巡が謝る。
「すみません。でも、彼らには感謝していますよ」
「そうか。ところで張巡どの、さっきの夢の話は本当かね。悪夢は見なくなったか?」
張巡は、ぴたりと立ち止まる。
「どうした、張巡どの?」
張巡は、雲一つ無い青空を見渡しながら言った。
「はい。確かに、気持ちのいい夢でした。天損星もいなくなったし、もううなされることもないでしょう。ただ、今気がついたことがあります」
「ふむ」
「……今朝の夢、私は雎陽の城壁にいました。そこで空を見ていました。そして、兵士に言ったのです。『
「そ、それは」
だが李白は、その先の言葉を、言おうとしない。その代わりに、一通の手紙を取り出してほほ笑んだ。
「我々に水をぶっかけた娘がいたろう」
「ええ、李秀でしたね。あの
「あの娘が、こっそり手紙をくれていた。見てみろ」
張巡が手にとって開いた。
『李白様、張巡様、道中お気をつけて。張巡様とお手合わせできたのは良い稽古になりました。ご記憶に無いのが残念です。そして李白様、若き頃の
読み終えた張巡がほほ笑む。
「どうしても伝えたくて、急いで書いた字だな。良い娘だ。郭将軍の弟子とは驚いたが」
李白もにっこりして
「ああいう連中に囲まれているなら、鋼先も安心だろう。無事に旅を終えられることを祈るよ」
張巡は、力強く頷く。
「そうですね。彼らのような明るさを、私も持って行くとします」
それを聞いた李白は、笑顔で張巡の背中を叩いた。
◇
鋼先たちは、亥衛山の中腹に登った。魯乗か百威が来ないか、調べている。
雷先が、遠くに見える煙を指さした。
「何だろう、あの煙。ずいぶん目立つな」
すると李秀が、頷きながら教えた。
「ああ、あれはね、辺境から
「天気がいいから、ここでも見えたんだな」
鋼先が納得した。
発見者の雷先も頷く。
「なるほど。平穏のしるしってことか」
そう言って、再び山に目を戻す。しかし、魯乗も百威も、現れそうな気配は無かった。