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第二十回 祟りは一足早く




 こうせんはくが眠りに就いた直後、


「賊軍め! 怨霊おんりょうとなった我を倒せるか!」


 という叫びが響き、全員が起きた。まだ真夜中である。


 李白が眠い目をこすり、ため息をついた。


「いかん、ちょうじゅんどのがまた悪夢を見たか。起こさねば」


 そのとき、寝室から張巡が飛び出した。髪を振り乱し、陌刀はくとうを手にしている。


「おのれ賊兵、よくも我が城を蹂躙じゅうりんしてくれたな。死ね!」


 張巡は、狭い廊下で刀を振り回した。李白は逃げながら誘導し、びょうの外に出る。


「どうなってるんですか、これは」


 雷先らいせんが李白に訊いた。


「張巡どのは今、悪夢にさいなまれている。なんとかして正気に戻さねば」


 そういって李白は剣を鋼先に渡し、


「ちょうどいい、習った技を試してみろ」


 と言って鋼先の尻を蹴った。


「こっちはくたくたなのに、ひでえな」


 鋼先はぼやきながら、酔剣すいけんを繰り出して張巡と打ち合う。が、三合さんごうほどで軽くふっとばされてしまった。張巡が叫ぶ。


他愛たあいもないな、雑兵ぞうひょう!」


「師匠、無理だ無理。代わってよ」


「いや、この張巡どのは強すぎるな。どうやら本当に怨霊になったつもりらしい」


 李白は、皆に逃げろと合図した。全員で駆け出すが、張巡は執拗しつように追ってくる。


 李秀りしゅうが急に足を速めて、


「ちょっと考えがあるの。何とか時間を稼いでて」


 と走り去った。萍鶴へいかく


「やってみるわ」


 と、振り向きざまにぼくを放つ。


 しかし張巡は手を伸ばして雷先の襟首えりくびをつかみ、飛墨の楯にした。雷先の頬に「停」の文字が現れ、凍ったように制止してしまう。


「あっ、兄貴」


「ほほう、これが飛墨顕字象ひぼくけんじしょうか。おもしろいな」


 李白が目を細めた。そして萍鶴に歩み寄る。


「ちょっと私にやらせてくれんか」


 李白が手を出したので、萍鶴は筆を抱き


「他の人に触れさせると、えいの力は落ちてしまうの」


 と断る。李白はにやりと笑い、


「じゃあこれなら大丈夫だな」


 と、萍鶴の手首を取って、彼女の手ごと輝影を振った。


 墨は張巡には当たらなかったが、彼の近くの壁に文字を現す。


『出門不顧後 報国死何難』


 張巡は、飛墨で書かれた詩に目を留めた。そして声に出して読む。


「……出陣したら振り向くな、国に報いるため死は怖れず。これは、俺のことか」


 李白は首を振り、


「そうではないが、昔、幽州ゆうしゅうへ行ったときに作った詩の一文だ。貴殿の心境に重なるかと思ってな」


 張巡は、繰り返し詩を読み、涙を流す。


 萍鶴が感心して李白を見た。


「力ではなく、言葉で人の心を止める。……こういう飛墨は、思いつかなかったわ」


 李白は笑い、片目をつむってみせる。


 しかし張巡は目をき、肩を震わせ始めた。


「そうだ、死んだら終わるとは限らぬ。怨霊となった俺は、誰にも倒せぬぞ!」


 張巡は豪快に刀を振り、壁を詩ごと叩き斬った。雷先は止まったまま投げ出され、地面に転がる。


「ううむ、あおるつもりはなかったんだが」


「危ない、どいてください」


 うなる李白を萍鶴が押し退け、筆を振るって連続で飛墨を放った。


「食らわぬぞ!」


 張巡は、水車のように勢いよく刀を回し、墨滴ぼくてきをすべてを撥ね飛ばした。


「こりゃやばい。ここでやられたら、相当かっこ悪いぜ」


 鋼先が辟易へきえきして剣を構えた。李白は雷先の棒を拾い、二人で張巡に撃ちかかる。師弟揃った酔剣と酔棍すいこんで不断に攻めたが、張巡も猛烈に反撃し、激しい攻防となった。打ち下ろされる刀は一撃ごとに勢いを増し、李白も鋼先もかわすのが精一杯で、ずるずると後退させられる。


シャア!」


 張巡は、頭上で刀を振り回してえた。


 すさまじい気合いに驚き、二人が硬直した。張巡はそれに肉迫し、今にも刀が振り下ろされるというとき、


「はい、お待ちどおっ!」


 突然李秀の声がしたかと思うと、三人に大量の水がかけられた。


「はっ!」


 ずぶ濡れになった張巡は、驚いて立ち止まる。刀を取り落とし、辺りを見回した。


「お、俺は、また夢を?」


「間に合って良かった。目を覚ますには、これが一番よね」


 大きなタライをかかげて、李秀がいたずらっぽく笑った。


「もうだめかと思ったぜ。ああ、疲れた」


 濡れた髪を振りながら、鋼先ががっくりと膝を折る。


「どうも、夢の内容が進んでいたようだな。張巡どの、話してもらえないか」


 李白が心配そうな目を向ける。張巡は、黙ってうなずいた。




 雷先も飛墨を消されて元に戻り、皆は廟に帰った。まだ夜も明けていないが、卓を囲んで張巡の話を聞く。


「賊軍が城を攻め落とした。俺は無念の中、自刃じじんした。しかし、『張元帥ちょうげんすい』という怨霊となって立ち上がり、城に入ってきた賊兵どもを斬り捨てようと、城内を駆け回っていた」


「夢で斬り捨てられちゃたまらねえよ」


 鋼先が言った。雷先がたしなめるように小突く。張巡はびを言って、話を続けた。


「悪夢がここまでひどくなるとは思わなかった。君たちにも迷惑をかけて、申し訳ない」


「悪夢は、いつから見ていたんですか?」


 李秀が尋ねる。張巡は、指を折って日を数えた。


「九日前になる。……そうだ、天損星てんそんせいが入った日だ」


「だと思ったぜ」


 鋼先が頷く。そしてついけんを抜いた。


「すぐに収星しゅうせいしてやるよ。これで安心して眠れるだろう」


「ちょっと、待ってくれないか」


 張巡が手で制した。


「ただの悪夢だと思っていた。だが、さっきの李白どのの詩、あれは」


 李白が頷き、


「北の幽州へ行ったときのものだ。貴殿なら分かるだろう、范陽はんよう一帯の危険さが」


「やはり、安禄山あんろくざんか」


 張巡は拳を固めて卓を叩いた。茶碗がいくつか倒れる。


「安禄山が叛乱するなら、あの夢はきっと本当になる。俺は雎陽城すいようじょうを死守しなくては。そのために、天損星の力を借りたい。収星は、待ってほしい」


 皆は、張巡を見ながら固まってしまった。


 ややあって、李白が立ち上がる。


「仕方ないな。鋼先、その剣は収めるんだ」


 そう言って鋼先に目配せし、制する手つきをする。


 鋼先が頷いたとき、しかし、李白が素早く追魔剣を奪った。


「すまんな」


 李白は剣をひるがえし、張巡の脇腹わきばらを突いた。


「ううっ!」


 張巡は大きく震え、身体をらせる。そして強い光が走り、天損星が抜け出てきた。


 張巡は気を失い、倒れてしまった。李白はため息をつく。


「張巡どのを連れてきたのは私だ。強引だが、これで終わりにしよう」


 そう言って、今度は自分の腕に追魔剣を刺す。光と共に、天傷星てんしょうせいが抜け出てきた。


「楽しかったぞ、天傷星。元気でな」


 李白は歯を見せて笑うと、倒れ込んで眠った。


 鋼先たちは呆気あっけにとられて見ていたが、慌てて魔星を朔月鏡さくげつきょうに導いた。




 翌朝になると、ちょっとした異変が起きていた。


 張巡と李白は、昨日までのことを憶えていないという。


 ぎこちない様子で座り、皆で朝食を取る。


 スープを飲みながら、張巡が笑って言った。


「世話になったようだが、憶えていなくてすまない。なんだかとても良く眠れたよ」


「は、はあ」


 収星陣しゅうせいじんは、食べる手を止めて張巡を見た。


「ほう、良い夢でも見ましたかな」


 李白が笑顔で訊く。張巡は頷き、


「どこかの城壁に登り、青く澄んだ空を見上げている夢でした。とても清清すがすがしかった」


「はは、それはうらやましい。私もそんな夢を見て、詩にんでみたい」


 そんな他愛もない話をして、朝食は終わる。その後、張巡が、荷物をまとめながら言った。


「俺は真源しんげんに帰って、仕事をしなければ。みんなも、機会があったら遊びに来てくれ」


 李白も旅装りょそうを整え、挨拶あいさつをする。


「私もまた旅に出ることにする。達者でな」


 二人は大きな街道まで行くというので、鋼先たちもそこまで見送ることにした。魔星のことや酔剣のことも話せないので、いくらか寂しくはあったが、余計なことは言うまい、と目で合図し合う。


「では道中お気を付けて。さようなら!」


 鋼先が礼をすると、二人は手を振って去って行った。暑くはあるが、空が青く、風が強く吹いている。


 鋼先たちは、魯乗ろじょう百威ひゃくいを待つために、また亥衛山がいえいざんに戻っていった。




 ◇




「あれで、良かったのかな。ちょっと味気ない別れ方になったが」


 亥衛山の方を振り向いて、李白は首をひねっていた。


 張巡が、目を閉じて笑みを浮かべる。


「いいんです。俺たちのことが、彼らの負担になってはいけない」


「急に、忘れた芝居をしようなんて言い出すからきもが冷えたぞ。ばれたら恥をかくところだった」


 李白は胸に手を当てて息をついた。張巡が謝る。


「すみません。でも、彼らには感謝していますよ」


「そうか。ところで張巡どの、さっきの夢の話は本当かね。悪夢は見なくなったか?」


 張巡は、ぴたりと立ち止まる。


「どうした、張巡どの?」


 張巡は、雲一つ無い青空を見渡しながら言った。


「はい。確かに、気持ちのいい夢でした。天損星もいなくなったし、もううなされることもないでしょう。ただ、今気がついたことがあります」


「ふむ」


「……今朝の夢、私は雎陽の城壁にいました。そこで空を見ていました。そして、兵士に言ったのです。『狼煙のろしは見えない。こちらも上げるな』と」


「そ、それは」


 だが李白は、その先の言葉を、言おうとしない。その代わりに、一通の手紙を取り出してほほ笑んだ。


「我々に水をぶっかけた娘がいたろう」


「ええ、李秀でしたね。あの双戟そうげきはなかなかだった」


「あの娘が、こっそり手紙をくれていた。見てみろ」


 張巡が手にとって開いた。


『李白様、張巡様、道中お気をつけて。張巡様とお手合わせできたのは良い稽古になりました。ご記憶に無いのが残念です。そして李白様、若き頃のかく将軍を助けていただいたことを、私からも御礼申し上げます。私の双戟は、郭将軍から師事しじを受けたものです。わけあってこうせんたちの前では口にできませんでした』


 読み終えた張巡がほほ笑む。


「どうしても伝えたくて、急いで書いた字だな。良い娘だ。郭将軍の弟子とは驚いたが」


 李白もにっこりして


「ああいう連中に囲まれているなら、鋼先も安心だろう。無事に旅を終えられることを祈るよ」


 張巡は、力強く頷く。


「そうですね。彼らのような明るさを、私も持って行くとします」


 それを聞いた李白は、笑顔で張巡の背中を叩いた。




 ◇




 鋼先たちは、亥衛山の中腹に登った。魯乗か百威が来ないか、調べている。


 雷先が、遠くに見える煙を指さした。


「何だろう、あの煙。ずいぶん目立つな」


 すると李秀が、頷きながら教えた。


「ああ、あれはね、辺境からみやこへ伝達している狼煙よ。『特に異常はありません』っていう合図なの。毎朝送られているはずよ」


「天気がいいから、ここでも見えたんだな」


 鋼先が納得した。


 発見者の雷先も頷く。


「なるほど。平穏のしるしってことか」


 そう言って、再び山に目を戻す。しかし、魯乗も百威も、現れそうな気配は無かった。

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