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第四部 哀衰編     第四十七回 空井戸の戦い



 こうせんが去った後、しゅぶんえいに言った。


総輪そうりんは?」


「……危ない状態だ」


 それを聞いて、朱差偉は笑う。


「では、私がりんの総輪になります。閻黒輪頭えんこくりんとうも重傷で、黒輪員こくりんいんは戦意を失っている。今こそ鉄車輪てつしゃりんを改変し、」


 いきなり呉文榮が、朱差偉の喉笛のどぶえをつかんだ。


「ごぼっ!」


「やかましいぞ三下さんした!」


 そのまま、朱差偉の首の骨をゴキリとる。そして投げ捨てる。


「もう、たくさんだ」


 呉文榮は唐流嶬とうりゅうぎを抱えると、寝室に運んだ。




 じょたちに唐流嶬の世話を頼み、呉文榮は月光楼げっこうろうを出た。


「長く暮らした街ではあったが、今は去るときだな。安禄山の軍は、ここを通るかも知れぬ」


 そう言って、店じまいをしていた市場からきじの肉とこんさいを買い、森の中にある沢へやって来た。


 開けた場所で行李こうりを下ろし、小さな鉄製の箱を取り出す。中に入っている五徳ごとくと香辛料の袋を出すと、沢の水で中を軽く洗う。これで簡易な鍋になるのだ。


 匕首あいくちで根菜を切ったあと、穴を掘っていつものように釜戸かまどを作る。枯れ草と柴を拾ってきて点火し、鍋を置いた。沢の水を入れて沸かし、味噌とタレを入れて煮汁を作る。呉文榮は濃い味が好みなので、更に岩塩を入れた。


 煮汁の味見をして、根菜と雉肉を入れる。途中で香辛料を加え、肉に火が通ったところで火を止めた。


 腹が減っていたので、熱さに構わず一気に食べ終えた。しばらくは身体が温まっていたが、十一月上旬の夜は冷え込む。後片付けをしながら、呉文榮は身震いした。


「やあ呉文榮。あっ、鍋だったのか。間に合わなかった」


 突然、どうふくが後ろに現れた。呉文榮はくわえていた雉の骨をプッと吐き出し、身構える。


「どうしたんだよ。師匠の事は終わったんだろう? れいを聞きに来ただけなのに」


 呉文榮は構えをくずさない。


「確かに、師匠の僵尸きょうしほうむった。だが、礼とは何だ」


 童子服は、笑顔を浮かべる。


「君があの僵尸に勝つには、魔星の力が必要だった。それを教えたのは僕だよ」


「ほう。そうだったな。感謝する。これでいいか」


「心がこもってないなぁ。君のがんかなえたんだ、僕のお願いも聞いてくれよ」


ことわる」


 呉文榮があっさり答えると、童子服は苦笑した。


「じゃあ、聞き流していいよ。――まだ魔星は残っている。こうせんたちのなんは続くよ。君に、かれに加われとはいわない。その代わり、君は君で魔星を見つけて、しゅうせいみちびいて欲しいんだ」


「賀鋼先のきょうぐうびんに思う。だが拙者せっしゃはもう、魔星に関わりたくない。その気持ちの方が強い」


 すると、童子服はため息をついた。


「そうかい。でも、関わりたくないのは彼等も同じなんだよ。さっさと収星を終わらせて、普段の暮らしに戻りたい。君は因縁いんねんが片付いた。だが、彼等はまだなんだ」


「……それは、そうだが」


 呉文榮の表情が苦渋くじゅうゆがんだ。


「もうそう、悪かったね。僕は彼等を死なせたくないんだよ」


 そう言って、童子服はくるりと背を向けて去って行く。


 それを見送った後、呉文榮は星を見上げ、ひとりごちた。


「仕方ない、寺へ帰ってみるか。今ならてんせいに勝てるかも知れぬ」




 ◇




 あんろくざんほうの報せを聞くと、魯乗ろじょう李秀りしゅうが、顔色を変えた。


「ついに動いたか。奴の野心と魔星の凶気きょうきが合わさる。おそらく、未曾有みぞう大乱たいらんとなろう」


 魯乗はきっぱりと言う。鋼先たちははんしんはんだったが、李秀もくちえする。


唐王朝とうおうちょうは、長いあいだ平和だったわ。みやこにも軍はあるけど、誰も実戦を経験してない。それに比べて、安禄山は常に国境付近こっきょうふきんで戦いを続けてきたわ。兵の質から、もう違う」


 鋼先は、分かった、とうなずいてから訊いた。


「安禄山軍はちくの勢いでせまり、多くの民衆が戦乱に巻き込まれる。そういうことだな。――さて、俺たちとしては、安禄山を収星するしかやれることはないが、奴の進路は分かるか?」


ちょうあんを一気に目指す。その前の大きな要所ようしょとして、洛陽らくように入るじゃろうな」


 魯乗の見立ては確信に満ちていた。李秀も頷く。


 鋼先が訊いた。


「だが、俺たちが安禄山に接触するには、それなりの段取りが要る。どこかにツテがあるといいんだが」


 すると李秀が膝を叩いて言う。


平原郡へいげんぐん太守たいしゅが、ゆうそなえているって聞いたことがある。りょうざんからは近いよ」


「よし。訪ねてみるか」


 鋼先は立ち上がった。




 ◇




 平原への旅が決まり、一同は手早く準備を進めた。


 夜になってみんなが寝静まった頃、鋼先は魯乗に報告をする。


「唐流嶬が、そう言ったのか?」


「ああ。俺の中のてんかいせいは、半分だけだと。魯乗から見ても、そう感じるか?」


 鋼先は真剣な目で聞いた。魯乗はいろいろと角度を変えながら彼を見たが、力なく首を振る。


「すまんな、やはりわしの法力はまだ弱い。以前も見たが、細かいところまではわからぬ」


 落胆する魯乗に、鋼先は手を振ってねぎらう。


「いいんだ、気にしないでくれ。唐流嶬のハッタリかもしれないし」


「英貞どのに聞いた方がよいかの?」


「そうだな。……あ、いや。それは止そう」


 魯乗の提案に、鋼先は顔を曇らせる。


「天界は、最初から何かを隠していた。俺はそれに気付かない振りをすると決めている。やばそうな質問はしたくない」


「……確かに。本当に半分にしたのなら、その意図を伝えないのは妙じゃな」


 魯乗は改めて鋼先を見つめようとしたが、鋼先は首を振って拒否した。


「気付かない振りを続けるぜ。油断させておいて、いつか先手を取ってやる。


 それよりも今は、地上のまとがわんさか増えそうだ。まずはそっちを片付けないとな」




 ◇




竜虎山りゅうこざんの道士たちだな? 噂は聞いてるぜ。まあ休んでくれ」


 平原太守・がんしんけいは、鋼先たちが来るのを待っていたかのように笑った。


 鋼先が驚いて言う。


「俺たちを知っているのか?」


 顔真卿は頷き、


「筆ですごい術を使うらしいじゃないか。俺も書道はかじってるんでな、気になってたのさ」


 それを聞いて、鋼先たちはへいかくを見る。萍鶴は、顔真卿に向かって礼をした。


「筆の術は、私が使います。かいけいおうの子孫で、おうへいかくと申します」


 顔真卿は、大声で楽しそうに笑った。


書聖しょせい王羲之か、恐れ入った。俺も顔回がんかいこうの弟子)の子孫で血統けっとうは誇りだが、まぁそんなことはどうでもいい」


 そう言って、収星陣しゅうせいじん中庭なかにわに連れ出す。広い中庭のあずまやで、一人の男が待っていた。


 顔真卿が紹介する。


「これは俺の従兄いとこがんこうけい。君たちのことを教えてくれた。実はちょっと前に、はくどのが彼を訪れたんだ」


「そうか、李師父りしふから俺たちのことを聞いたのか。――あれ? 師父め、あの時は忘れたなんて言ったくせに。やっぱり芝居だったんだな」


 鋼先たちは、苦笑しながら納得する。


 顔真卿も笑い、腕くらいの長さの棒を取り出した。だがよく見ると、先端せんたんに筆のが付いている。


「こいつが俺の筆、『ろうりょう』だ」


「ずいぶん長いのう」


 魯乗が言うと、顔真卿は頷いて続ける。


いているのは、こうせい


「なにっ?」


 収星陣は驚く。


「そして能力は」


 顔真卿は、ビタリと萍鶴を指さした。


「あんたの術と同じだ」


「なんだと?」


 さらに驚く様を見て、顔真卿はまたも大きな声で笑う。


 顔杲卿が、ため息をついて言った。


「騒々しくてすまん。こいつ、萍鶴君へいかくくんじゅつくらべをしたいと言って聞かなくてな」


「私の、飛墨顕字象ひぼくけんじしょうと?」


「そうだ。俺の『墨痕来ぼっこんらい』と勝負して、勝ったら収星させてやるよ」


 目をギラギラさせ、顔真卿は笑った。




 ◇




 亭から歩いて、裏庭に出る。ここにも大きな亭があった。顔真卿はそれを指さす。


「もう使っていないが、ここは井戸だった。ご覧の通り大きく、そして深い。ここで勝負だ」


「確かに、普通より大きいわね」


 萍鶴が近付いてのぞき込んだ。直径が通常の五倍くらいあり、囲いの付いた池のようにも見える。


「一度に大勢で水をめるように、大きく掘った。まさか、こんなことに使うとは思わなかったがね」


 そう言うなり、顔真卿は萍鶴を井戸の中に突き落とした。


「あっ!」


 全員が叫ぶ。


 らいせんが駆け寄ろうとしたが、顔真卿がさえぎった。


「心配するな、水はれている。互いに術を尽くし、先に脱出した方が勝ちだ」


 そして顔真卿は笑いながら井戸に飛び込む。


 顔杲卿が苦笑しながら、皆を制した。




 急に突き落とされた萍鶴は、落下しながら何度か壁面へきめんを蹴り、底に降りた。


 えいを取って、上を見上げる。やがて、顔真卿がちょうひつ・朧瞭を手に、ひらりと降りてきた。


 萍鶴が言う。


「強引な人だわ。とにかく、ここを出れば勝ちなのね」


 萍鶴は少し眉をひそめながら、輝影を腰の墨壺すみつぼひたす。


 顔真卿も、朧瞭を左手に持った墨壺に入れた。


「戦い方は自由だが、まあ怪我をせん程度にするか」


「何でもいいわ。早く終わらせたい」


 萍鶴は無表情に答える。顔真卿は、にやにや笑いながらひゅっと墨を放った。井戸の底面に「しゃしゅつ」と文字が現れ、彼はそこを踏んで真っ直ぐに飛び上がる。そこで、萍鶴はすかさず彼の足首をつかみ、一緒に上昇した。


「ハハハ、好い反応だな!」


 顔真卿は墨を飛ばし、萍鶴の頬に「落下」の文字を現す。上昇は止まり、二人は落ちた。顔真卿は墨を飛ばして「射出」をつぶす。


 着地して、顔真卿が笑った。


「言い忘れたが、魔星は一つじゃないぜ」


「えっ?」


 萍鶴は、落下をぬぐいながら驚いた。顔真卿は、ニタリと笑う。


「俺にも憑いてる。てんけいせいだ」


 そう言って、顔真卿は連続で墨を飛ばした。萍鶴はとっさにしゃがむ。墨は弾丸だんがんのように井戸の壁を穿うがった。


「まさか、あなたたち……!」


 萍鶴がにらむ。顔真卿は、おどけた笑いで墨壺に浸した。


「そうだ。杲兄こうけいにもてんろうせいが憑いてる。上が心配だろう、急ぎなおじょうちゃん」


「くっ」


 萍鶴は飛墨を打ったが、顔真卿はふところから掛軸かけじくを広げてそれを受ける。「昏倒こんとう」の行書文字ぎょうしょもじれいに現れた。


 顔真卿は、それを眺めて首を振る。


ゆうな王羲之も良いがね、これからは雄勁ゆうけいな我が『顔法がんぽう』の時代だよ」


 顔真卿は、井戸の底面に墨を打った。力強い楷書かいしょで「噴水ふんすい」と現れる。たんに地面が割れ、勢い良く水がき出した。


「知ってるだろうが、この術には三つ弱点がある。一つは水」


 萍鶴は顔真卿に飛墨を打ったが、水にはばまれてかき消される。やがて底面がれたため文字は消え、噴水は止まったが、壁面もすでに水浸みずびたしだった。


「いけない。墨が乗らないと、壁も登れないわ」


 萍鶴が困惑こんわくしていると、顔真卿が言った。


「もう一つは、飛ばせる距離が短いこと。だが、俺はそれをおぎなえるぜ」


 そう言って、長いの先端を持ち、まだ濡れていない高い壁面に墨を打つ。


「根」の文字が現れ、壁面を破って樹の根が降りてきた。


 顔真卿はそれをつかんでよじ登る。途中で上の壁面に墨を打ち、また根を生やした。


「まずいわ」


 萍鶴も根をつかみ、追い登る。


「急げ急げ。俺を落とさなきゃ、先に出るのは無理だぜ」


 顔真卿はするすると登って行った。だが萍鶴は腕力が足りず、速くは登れない。


「じゃあな」


 顔真卿は、出口の近くに墨を打って、根を生やす。


 萍鶴は、その一瞬を狙って飛墨を打った。根に「腐」の文字が現れる。顔真卿がつかんだ途端、根はちぎれた。


「う、おおおっ!」


 顔真卿は支えを失って、落下した。萍鶴は飛墨で新たに根を生やし、それを伝って出口に手をかけた。


「まだまだ。今度は、天慧星の力を使わせてもらうぜ」


 顔真卿は壁面に跳躍し、生やした根を踏んで次々と跳び登る。


「それ、卑怯ひきょうじゃない」


 萍鶴がしかめ面をする。


「そして三つめの弱点。


 それは、術者の心が反映すること。お前は優しすぎるんだよ。


 ヒャハハハハ!」


 顔真卿が、高笑いしながら長筆を振った。


 萍鶴の頬に、墨が付く。


「……私の、負けね」


 しかし、萍鶴はなぜか浮き上がり、井戸の外に飛び出した。


「え、どうして?」


 萍鶴は辺りを見回した。


 亭の向こうで皆が宴会をしている。彼女に気付いて、鋼先がくりを食べながら歩いて来た。


「お、勝ったのか萍鶴。怪我けがはないか?」


 萍鶴は首を振り、


「平気よ。それより、あなたたちは? 顔杲卿さんにも魔星が」


 と慌てる。


 鋼先は不思議そうに言った。


「ああ、いたぜ。だからみんなで飲んでるところだ」


 指さす方を見ると、皆にじって軍装姿ぐんそうすがたの天牢星がだんしょうしている。萍鶴は、ぐらりとよろけた。


「どういうこと?」


 すると、井戸の底から笑い声が聞こえる。


「勝ちはゆずるよ。どうだ、同じ能力と戦った感想は。いい経験になっただろう?」


「もう! 何よ、人騒がせね」


 萍鶴は苦笑して、ばたにへたり込んだ。

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