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第五十二回 黒旋舞




 満月に照らされながら、安禄山あんろくざん不機嫌ふきげん李秀りしゅうをにらんだ。見てはいるが、視力は無い。


「月見でもしに来たのか。此処ここちんの宮殿だぞ」


 李秀は、ばれていないと分かると、わざとしおらしい声を出した。


「す、すみません陛下。あまりにも美しい月でしたので、ついさそわれて。失礼いたします」


 すると安禄山は、驚きながら笑う。


「なんと、その声は。いつ洛陽らくように来たのだ」


「は、はい?」


相変あいかわらず冗談が過ぎるぞ。さ、朕の部屋でゆっくり飲もうではないか。楊貴妃ようきひ


「……!」


 楊貴妃と呼ばれた李秀は、わなわなと震えながら、双戟そうげきを取る。


「どうしたのだ、楊貴妃?」


「誰が楊貴妃よっ!」


 李秀は縦横じゅうおう斬撃ざんげきを繰り出し、安禄山をおそった。安禄山は殺気を読み取り、正確にそれをかわす。そしてさっと李秀の足を払い、転倒させた。李秀はすぐに立ち上がったが、安禄山の速さに、内心恐怖した。


(今の、もの凄い速さだった。足払いだから軽かったけど、あの速度であの体重が乗った打撃が来たら、あたしなんか吹っ飛んじゃう)


 その怖れを感じ取ったかのように、安禄山はなだめる手つきを見せる。


「……そうか、楊貴妃ではなかったか。しかし、人違いになぜそこまで怒るのかな? 本当に良く似た声をしている。ふふふ」


 安禄山は、含みを持って笑っていた。李秀は答えず、立ち上がってまた双戟を構える。安禄山は手で制して言った。


「いいか、むすめ。お前が何者なのか、朕には分かった。だから無礼は問わぬ。今のうちにせろ」


だまれ安禄山! あんたなんか、今ここで収星しゅうせいしてやるわ!」


 李秀の叫びを聞いて、安禄山の口調が豹変ひょうへんする。


「……ほう、するとお前も、羅公遠らこうえんの仲間か。李秀、とかいう奴だな。ははは、我が臣下しんかの収星、ご苦労であった」


 安禄山が、笑ったままの白目で、李秀をにらむ。李秀は思わず退いた。


 安禄山が続ける。


「互いに利用し合っていたが、ここらで潮時だな。いずれお前たちも処刑するつもりだった。行くぞ」


 安禄山が、袖の長い黄袍こうほう(皇帝の衣服)を脱ぎ捨てた。下には黒い胡服こふく(袖の短い服)を着ている。


 李秀は、じりじり移動した。明るい満月がぎゃっこうにならないように。しかし、李秀のわずかな足音を聴いて、安禄山がおそいかかって来た。


 安禄山は、山のような巨体を高速に回転させながら、手刀しゅとうりを放つ。李秀は跳躍しながらけ、屋根の上を走る。すると安禄山は動きを止め、にやりと笑った。


せつ使だった頃、強い敵軍が来るたび、わざとへつらってしゅちょうたちを呼び、宴席をもうけた。我が部族に伝わる『せん』、朕は歓待かんたいのときにこれをろうした。彼らが、この巨体の旋回せんかいに驚いているとき、すかさず近付いてけんきゃくを打ち込み、命を奪う。――部下たちは、いつしかこれを『こくせん』と呼ぶようになったよ」


 再び、回転しながら安禄山が突っ込んできた。李秀は、なんとか受けられるのだが、打撃の重さに耐えられない。打数が増えるうち、李秀はどんどん後退し、ついに屋根のへりに追い詰められた。


「そら、拳ばかりではないぞ」


 安禄山はそう言って、腰にあったおのを投げつける。


「うわっ!」


 李秀は間一髪かんいっぱつ、体をらしてかわしたが、もう一本投げられてよろめき、転落してしまった。


「きゃああああっ!」


「ふん。押しつぶしてやる」


 安禄山が狙いを定めて飛び降りようとしたとき、背後から声がした。


「待て、安禄山。わしが相手じゃ」


 安禄山は振り返る。そして笑った。


「羅公遠、無理をするな。まだいくらも回復していまい」


 確かに、魯乗ろじょうはいつもの頭巾姿ずきんすがたになってはいるが、何の力も出ない。


「そうじゃがな、仲間を見殺しにはできん。百威ひゃくい、行けっ!」


 魯乗のふところから、矢のように百威が飛び出した。安禄山は、翼の風圧を感じてける。


 百威は、魯乗をたすけようと必死に攻撃を繰り返した。目まぐるしく小回りし、鳥というよりも羽虫のように、安禄山を襲う。しかし、


「なかなかやるな。おもしろい、相手になってやる」


 そう言って、安禄山は胡旋舞を始める。鋭いけんきやくが連続で打ち込まれてくる。百威は、何度か翼を打たれてバランスを崩し、飛行速度が落ちてきた。


 魯乗が、後方に声をかける。


へいかく、百威をけてぼくを打てるか?」


 屋根の上に現れた萍鶴が、うなずいて飛墨を放つ。しかし、安禄山はこれも躱す。


 魯乗はうなった。


「目が見えない故、かんく。かえって厄介やっかいになりおった。ここは、奴を疲れさせて時間をかせぐしかないのう」


 しかし、萍鶴は目を鋭くして言った。


「いえ。やはり今、あなたが倒して」


 そして、魯乗の足下に飛墨を打った。屋根瓦やねがわらに、「回復」の文字が現れる。


がんしんけいさんが使った手よ。それを踏んで、魯乗」


「ほっ」


 今の魯乗は、飛墨が当たるだけでも消えてしまうほど薄いが、文字を踏むと、驚いたことに、こんぱくの隅々にまで力がみなぎってきた。まとっている外套がいとうが、ばっとふくらむほどである。


「これは! そうか萍鶴、うまい考えじゃ!」


 安禄山が魯乗のはくに気付き、百威を払い除ける。


「何が起きた? おい羅公遠、みょう真似まねをするな」


 そう言って、安禄山はせんしながら迫ってきた。だが魯乗は、頭巾の鼻の辺りを親指でこすると、ちょいちょいと手でまねいて挑発ちょうはつする。巨大な独楽こまのように突進してきた安禄山を、軽快な跳躍で躱した。安禄山は、再び襲い掛かりながら言う。


「力が出たから何だと言うのだ。貴様の幻術は、どのみちかぬわ!」


 突っ込んできた安禄山を、魯乗はまた跳躍で躱し、両手を舞わせて念力を発現する。


「安禄山、これでも食らえ!」


 突然、宮殿の屋根瓦が無数にがれ、安禄山目がけて飛んだ。


「うぬっ」


 安禄山はさらに高速で身体を回転させ、その遠心力で瓦をはじき返す。魯乗はひょいひょいと跳びながら、安禄山の頭上にせまった。そして彼のかんむりに手を置き、共に回転する。


「幻術がダメなら、直接雷撃ちょくせつらいげきじゃ!」


「なにっ」


 ドオンと銅鑼どらのような音が響き、魯乗と安禄山が稲光いなびかる。安禄山の回転が止み、岩のようにごろりと倒れた。体からは煙が立ち上っている。


 魯乗はふわりと屋根に立つと、遠巻きに見ていた百威を手招きした。


「大丈夫か。今、こやつを収星するからな」


 しかし、萍鶴が叫ぶ。


「魯乗、危ない!」


 安禄山は、よろめきながら立ち上がった。口と鼻からも、焦げ臭い煙を吐いている。


「忘れたのか、貴様は前にもこの技で勝ったとしんし、敗れた。ぬるいわ。てんさつせい蛮能ばんのうをとくと知れ」


 安禄山は、魯乗を両手につかんで高々とかかげた。そのまま屋根下に落とそうと、大きくかえる。


 だが、魯乗は外套を脱ぎ捨て、手をのがれる。黄色い魂魄を月の光にさらし、声を発した。


「しぶといのう。やはりお主を倒すには、奥の手を使うしかないな」


 そう言ったたん、屋根の一面に黒い雲がき出した。


 萍鶴は幻術かと思ったが、安禄山も異変を感じている。


「何だ、何かいるぞ、この中に」


 安禄山は外套を捨て、両手で雲をいた。


「受けてみよ。奥義、らいてんこう!」


 突如とつじょ、雲の中から怖ろしい顔をした龍が現れ、安禄山にえ立てた。


「何だ。何の声だ」


「巻け!」


 魯乗が言うと、龍は安禄山に巻き付いて力を込めた。


「ぐおああっ!」


 ものすごい力でめ付けられ、安禄山は血反吐ちへどを吐き、気を失う。


 そして龍と雲は、すぐに消えた。


 魯乗の魂魄が少しじょうはつし、ひとまわり小さくなった。魂魄は外套の中に戻り、安禄山のそばに立つ。


 萍鶴と百威も来た。


「今のは何だったの、魯乗」


 萍鶴が訊ねる。魯乗は、弱々しい声で答えた。


「四雷天罡。きょうれつな念力の術だが、まだ未完成じゃ。しかも」


 外套が、形を失ってくたりと落ちる。


「今のわしでは、魂魄そのものが減る。すまん萍鶴、後を頼む」


 それきり、魯乗の声はしなくなった。


 萍鶴は素早く安禄山に飛墨をうち、「収星」と現す。すると、安禄山の身体から、黒光こくこうと共に巨体のじんしょうが抜け出て来た。神将は萍鶴と百威をひとにらみすると、大きな声で笑った。


「うわははは! この俺を倒したか、見事だ。安禄山め、皇帝にまでなるとは思わなかったが、それなりに楽しかったぜ。では兄弟に会いに行くとしようか。さらばだ!」


 そう言って、天殺星は南の空へ飛んで行った。


 そのとき、李秀が屋根の上に上がって来る。


「やったね、見てたよ。……でも、収星したからって、こいつが改心するとは思えない。あたしがとどめを刺してやるわ」


 李秀の非情なかおを見て、萍鶴が心配する。


「李秀、落ち着いて」


 しかしそのとき、宮殿の下に松明たいまつともった。


「宮殿の屋根に誰かいるぞ! 近衛兵このえへい、集まれ!」


 萍鶴が李秀の肩をつかむ。


「今は魯乗を守らないと。行きましょう」


「……残念ね」


 李秀はそう言って、魯乗の魂魄を外套でそっとくるむ。そして急いで屋根を下りていった。




 ◇




 足場から落ちたこうせんは、執拗しつように追ってくる厳荘げんそうから逃げた。


 宮殿の裏手うらてに木がみっしゅうした林があり、そこに入ったことでようやく厳荘の動きがにぶる。


「くそ、木が邪魔で剣が振れぬ」


「兄貴、今だ」


「よし」


 雷先は、棒を捨てて厳荘につかみかかった。み合いになって剣が落ちたので、鋼先はすかさず拾って厳荘を刺す。


「ううっ!」


 厳荘の身体が大きく震え、中からてんこうせいが抜け出てきた。鋼先が素早く収星すると、雷先が厳荘の首筋くびすじに手刀を当てて気絶させた。そして、草のつるで縛って身動きを封じ、林を出る。


 しばらく歩くと、屋根を下りてきた李秀たちと出会った。


「どうした、みんな揃って」


 雷先が聞くと、李秀は外套を見せる。


「屋根の上で安禄山と闘ったのよ。魯乗がやっつけたけど、力を使い果たしたの」


 そして、天殺星を収星したが、安禄山がまだ生きていることを話す。


 鋼先が頷いた。


「こっちも、厳荘が目を覚ませばはいされるな。逃げるべきだが、まだ魔星が残ってる。あと一日、粘ってみよう」


 収星陣は、手配を警戒しながら夜を明かす。翌朝、賀兄弟がきょうだいと李秀はまた組になり、医師の振りをして、収星を開始した。


 中書令ちゅうしょれい張通儒ちょうつうじゅから地醜星ちしゅうせい中書侍郎ちゅうしょじろうこうしょうからかいせい皇太子こうたいし安慶緒あんけいしょからせい


 この三人を収星した後、安禄山お付きの宦官かんがんである、ちょのところへ向かう。


 鋼先が、李豬児の資料を見て少し驚いた。


「ほう、表向きは安禄山の世話係だが、裏では情報網をまとめていたのか。しかし、最近は安禄山への不満がいろいらしいな」


 らいせんと李秀が頷く。そして夜を待ち、部屋で眠りについた李豬児からけいせいを収星すると、足早あしばやに去った。


 すぐ近くに安禄山の寝所しんじょがある。彼は屋根の上から救出され、そこで眠っていた。しかしえいがいて、中はうかがえない。三人はやむなく、宮殿の出口へ向かった。




 ◇




 負傷した安禄山は、寝所で横たわり、夢を見ていた。


 夢の中なので、目が見える。


 彼は怒って、むちを振り上げていた。宦官の李豬児を激しく鞭打ち、彼が逃げると、そばにいた厳荘にも怒りがき、彼をも鞭打つ。厳荘は忌忌いまいましい顔で逃げて行った。


 後をつけていくと、厳荘は李豬児に会っている。


「厳荘様も打たれたのですか。最近の陛下は、怒ると見境みさかいがない」


 厳荘は、頬ににじんだ血をぬぐった。


「ひどいものだ、もうまともに話もできない。ぎょうせい戦争せんそうも放り投げ、失敗があれば鞭だ」


「私も、ちょっとした間違いで打たれ、いつも気を失います」


「そうか。このままだと、お前も私も、陛下に打ち殺されるな」


「冗談じゃない。俺は陛下のまぐれで去勢きょせいされ、運良く死ななかったから宦官にされて、本当にひどい人生だ。もうこれ以上、あの男のそばにいられるか!」


 李豬児はぶとい声で泣き出した。厳荘は、優しく肩を叩いて言う。


「心配するな、私にさくがある。――お前には、一番やりがいのある役目を用意した」


 安禄山はそれを見てかんが走り、寝所に戻った。


 寝床ではあいしょうだんが待っており、なまめかしい肌をすり寄せて来る。


「陛下、早く私めを安心させてくださいませ。どうか、我が子の慶恩けいおんを、新たな皇太子として、お世継よつぎに」


 安禄山は、段氏に触れながらため息をつく。


「もうちょっと待て。げん皇太子の慶緒けいしょ警戒けいかいしている。奴に何か失態しったいがあれば、それを口実こうじつはいしてやるからな」


「きっとですよ、陛下」


 段氏の声を聞いているうちに、安禄山は意識が遠のいた。


 どれくらいか、った。夢の中でさらに眠っていたのか、場面が違う。


 李豬児がいた。笑っている。その手には、鋭い刀が握られていた。


「くたばれっ」


 李豬児が勢いよく斬りつけた。刀は安禄山の腹をき、臓物ぞうもつあふれ出る。李豬児の後ろで、厳荘と安慶緒が笑っていた。


「うぬ、ぞくめ!」


 安禄山はうめく。力が出ず、床に横たわった。割けた腹から、止めどなく血が流れていく。




 夢はそこで終わり、安禄山は目を覚ました。


 そして、突然気付き、叫び出す。


「いない! 天殺星がいない! おお、俺はこれからどうすれば!」


 その声を聞きつけて、宦官が駆けつけて来た。


「陛下、いかがなさいましたか。李豬児が参りました」


「おお李豬児、さがせ! 天殺星を取り戻せ!」


 李豬児は、意味が分からず半笑はんわらいになる。


「いったい何のことで。それは夢のお話ですか?」


 安禄山は、笑われたと知って激怒し、立てかけていた鞭を取って李豬児を打ちえた。


「夢? そんなもの、憶えとらぬわ! 口答くちごたえするな!」


「痛い! どうかご勘弁を! まだ先日の鞭傷むちきずえておりませぬ!」


「それがどうした! ほらひざまずけ! いつくばれ!」


「あああ! ひ、ひどすぎます! もう嫌だ! げうぅっ!」


 李豬児は泣いて許しをうたが、鞭打つ音はその悲鳴よりも大きく、さらに勢いを増すばかりであった。

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