百威は安禄山を攻撃すると見せて、急に向きを変えて扉の外に出た。そして鋼先たちを捜して飛ぶ。やがて、一人で歩いているフォルトゥナを見つけた。彼女の通ってきた方向を逆へ行くと、倉庫で服を見ている鋼先たちがいた。
「見ろ、百威だ。入れてやろう」
雷先が気付き、入口から手招きしたので、百威は慌ただしく羽ばたきながら入る。魯乗の危機をなんとか知らせようと騒いだが、うまく伝わらない。
「百威、何かあったんだな。魯乗はどうした?」
「鋼先、この慌てようは尋常じゃない。急いで安禄山の部屋へ行こう」
雷先が飛び出そうとしたが、百威はそれを遮って入口で羽ばたいた。そして萍鶴の腰元へ飛び、彼女の筆をくちばしで突く。
萍鶴が、小首を傾げて筆を取った。
「……百威、こうしろということ?」
萍鶴は、百威の小さな額に「人語」と飛墨を打った。百威は、傍らの机に降りて呼吸を整える。
「……そうだ、萍鶴。察しがいいぞ」
とても渋い声で、百威は人の言葉を話した。鋼先たちが目を丸くして驚いている。百威は続けた。
「驚くのは後だ。聞いてくれ、魯乗の旦那が危ない。安禄山の部屋から助け出したいが、慎重にやらねばならぬ」
「一体、何があった?」
そう聞いた鋼先に、百威は頷いて答える。
「安禄山は、旦那の仇敵だったんだ。安禄山がそれに気付いてしまったので、旦那は逃げようと幻術を使った。だが、奴は目が見えないらしく、幻術が効かなかった。それで力を使い果たし、旦那は動けなくなっている」
「なんだって」
「しかし、慌てて行くのもまずい。時間を稼げれば、旦那は自力で逃げ出せる。俺はそれを助けるから、お前たちは、先に逃げろ。ここにいるのは危ない」
百威が言うのを聞いて、鋼先は顎に手を当てて考えた。そして言う。
「普通に考えれば、百威の言うとおりだ。だが、安禄山はただの暴漢じゃない。慎重で、忍耐力がある。魯乗を見破っても、すぐには手は下すまい。だから、取引ができるかもしれない」
「おい、相手は今や皇帝だぞ。相変わらず大胆だな」
雷先が青ざめて言うと、鋼先は背を見せながら言った。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、って状況だな。だがそれは、今の安禄山も同じなはずだ。さあ、行くぜ」
鋼先たちは、揃って安禄山に目通りした。魯乗の姿は無い。安禄山は、何事も無かったかのように座っていた。
「陛下、医師の衣装は準備しました。長兄はどちらにおりますか」
鋼先が礼をして言うと、安禄山は目を閉じたまま笑った。
「ふふ、もうお互い、皮を被るのは止そう。……お前たちが竜虎山の収星陣であることは、最初から分かっていた。朕にも情報網はある」
「……恐れ入りました」
鋼先はさらに礼をする。安禄山は、構わぬ、と手で示す。
「お前たちに朕の配下を調査させたが、実際には魔星を取り除かせるためだ。どうせ勘付いていただろう、賀港?」
安禄山は、鋼先の本名を呼んだ。鋼先は、丹念に身元が探られているのが解り、さすがに震える。
安禄山は、笑って続けた。
「……魔星を持った者の働きは目覚ましいが、野心が勝るようになればやがて害をなす。まだ唐を滅ぼしてはおらぬが、ここらで粗熱を取っておくのが妥当。朕はそう考える」
「はい」
「特に面倒なのが、朕の側近たちだ。我が軍は洛陽に籠もって半年近くなるが、まだ長安を取れない。しかし戦線は伸び、軍は分断され始めている。……朕はいったん、范陽まで退いて力を蓄えたいのだが、あと一歩だからここに残ろうという声が強くて、統制が取れぬ」
「だから、収星をお望みなのですね」
安禄山はゆっくりと頷く。
「一国を起ち上げて皇帝となった以上、慎重に国家を創り上げたい。それ故の撤退だ。だが、朕に忠誠を尽くす者は少なく、目先の利欲ばかりを追っている。これでは、栄華を極めた唐を凌げない。翳りはあっても、そう簡単には唐は死なぬ。そのことは、ずっと唐を守ってきた朕だからこそ、よく分かる」
その言葉に、李秀が立ち上がりかけた。しかし鋼先が素早く制して、本題に戻る。
「では、収星は我々にお任せを。長兄を、いえ、魯乗をお返しいただけませんか」
安禄山は、ふっふと笑って、壺を取り出して鋼先に渡した。
「羅公遠の死に損ないめ、弱々しい魂魄になってまで朕を追ってくるとはな。だが、朕の配下を収星するには、こやつの力も必要であろうと思い、手荒にはしていない。まあ、少し養生しておけ」
そう言って笑う安禄山に促され、鋼先たちは退出した。
自分たちの部屋に戻り、鋼先は壺の栓を抜く。覗き込むと、黄色い煙のようなものが渦巻いており、それが声を発した。
「やれやれ、どうやら消えずに済んだか。助かった、皆。礼を言うぞ」
鋼先が頷いて言う。
「百威が報せてくれたおかげだよ。それより魯乗、あれは本当か? 安禄山が、あんたを羅公遠と呼んでいたが」
壺は答える。
「ああ、そうじゃ。昔、張果や葉法善と宮廷に出入りしていたが、何故かあの頃は、宮中に魔星の気配は無かった。娯楽好きの皇帝に術を見せ、せがまれるままにそれを教えたりもして遊んでおったが、安禄山に天殺星を感じたので、宮廷を去り、奴を追った」
そして、三人で安禄山に挑み、敗れた話をした。
「……わしまで敗れてしまったせいで、二人を救済できず、魂魄が消滅してしまった。もう甦ることはできない。
わしは肉体を壊されたものの、屋内にいたせいで魂魄が散らず、なんとか消えるのを免れた。そして魂魄のまま逃げながら力が戻るのを待ち、百威やお主たちに出会った。じゃが、羅公遠のままでは安禄山に近付きにくい。だから仮の名を使ったんじゃ」
そのとき、雷先が壺の前に出て平伏した。
「し、知らなかったとはいえ、羅真人様に対する今までの無礼、申し訳ありませんでした。どうかお許しください!」
壺が、ため息をつく。
「ああ、後はこれじゃよ。わしが羅公遠と知ったら、たぶん雷先がこうなると思ってな。なかなか言い出せなかったんじゃ」
「確か羅公遠は、張天師様も一目置く神仙だ。だから推薦の手紙のとき、そっけない紹介にして隠していたのか」
鋼先は客観的な意見を言った。雷先が窘める。
「鋼先、控えろ。失礼だぞ」
「いや、本人がそうしろと言うなら別だが、やっぱり魯乗で良さそうじゃないか?」
それを聞いて、魯乗が答える。
「鋼先の言うとおりじゃ。雷先、わしも楽しくやってきた。これまで通り、同輩でいてくれんか」
「は、はあ」
そこまで言われて、ようやく雷先は体を起こした。
鋼先が言う。
「さて。安禄山も俺たちの力を必要としている、と言ったしな。便利がられているうちに、収星を進めておくとしよう」
◇
魯乗が動けないので萍鶴と百威は待機し、賀兄弟と李秀の三人で行くことになった。
まずは、安禄山の参謀を務める、厳荘という男を狙う。
頭が良く、隙のない計画を立てるこの人物は、安禄山の叛乱をずっと援けていた。しかし、最近は自ら権力を集めるようになり、油断がならないという。
鋼先たちは厳荘の屋敷を訪れ、薬の散布をすると告げる。厳荘が許可を出し、部屋を出て行った。鋼先たちは、厳荘の屋敷全体に薬を撒く振りをしたが、終わった頃には夜になっていた。
やがて、厳荘が戻ってきた。
「ご苦労。慣れない土地で体調を崩すこともあったが、これで安心だ」
厳荘が部屋から出るときに李秀がこっそり朔月鏡を向けると、天巧星の名が出た。李秀が目配せすると、鋼先は追魔剣を隠し持って呼び止める。
「厳荘様、ちょっとお聞きしますが」
そう言って素速く刺そうとしたが、厳荘は振り返って剣を白刃取りにした。
「何の真似だ、これは」
「いえ、あの、薬を塗りつける道具でして」
鋼先が愛想笑いをすると、厳荘も冷たく笑う。
「とぼけるな。安禄山に頼まれて、私の魔星を奪いに来たな。奴もそろそろ、私の思惑に気付いた頃だろう」
「なに」
鋼先は、追魔剣を引こうとしたが、厳荘は怖ろしい力で追魔剣をもぎ取り、逆に鋼先を突いてきた。
「うわっ、やめてくれ! 刺さったら、俺の魂魄が散る!」
鋼先は大慌てで避けるが、厳荘の剣は、執拗に追ってくる。
「ほう、自分で使っていながら、この剣が怖いのか。妙な奴だ」
厳荘はにやりと笑い、鋼先の足下を狙って刺突を繰り出した。避けにくい攻撃に鋼先は困惑し、あたふたと逃げる。
「それっ」
厳荘が、いきなり狙いを顔面に変えて突いてきた。上下に振られる攻撃は、闘い慣れている者でも避けられないことがある。鋼先は、まったく予測できていなかった。
「うあっ!」
鈍い音がして、追魔剣が鋼先の右頬を捉えた。木剣なので刺さりはしなかったが、鋼先は勢いで首を大きく捻られながら、後ろに吹っ飛ばされた。
「ああっ、鋼先!」
慌てて、雷先と李秀が得物を手に、厳荘の背後から襲った。しかし、厳荘は振り返りざま剣で弾き、また鋼先に向き直る。そして言った。
「安禄山に撤退などさせぬ。唐を滅ぼし、天下の非難を奴に集めさせる。その上で奴を殺せば、私が大手を振って大燕帝国を仕切れる」
「ち、そういう腹かよ」
鋼先は言いながら逃げ、屋敷の外に出た。
走りながら、鋼先は自分の頬をさすり、ふと考える。
(おかしいな。俺に、追魔剣が刺さらなかった。おかげで命拾いしたが――呉文榮みたいに、耐えられるようになって来たのかな)
鋼先の後ろから、厳荘が追ってきた。雷先と李秀も走り、だんだんと追いついてくる。
暗がりの中を走るうちに、四人は安禄山の皇居の裏にやって来た。まだ造りかけなので、足場が組まれたままのところがある。
それを見て、鋼先は閃いた。
「ここを登らせれば、あいつの両手も塞がる。やってみるか」
鋼先は足場をするすると登った。厳荘は追って登ったが、追魔剣が邪魔になったので帯に差して両手を使う。鋼先はわざと足場を登り切らずに橫移動をし、厳荘を誘う。
雷先はそれを見て、自分も棒を置いて登ろうとしたが、李秀が止める。
「あたしが登って、上から厳荘を追い落とす。そしたら下でやっつけて」
「分かった」
李秀は双戟を腰に差して足場を登った。そして未完成の屋根に上がり、厳荘の頭上を狙って移動する。しかし、
「うわっ!」
鋼先が足場を踏み外し、転落してしまった。厳荘はそれを追って足場を飛び降りる。雷先が急いで駆けつけた。
屋根の上から見ていた李秀も、驚いて降りようとする。そして屋根の縁に近付いたとき、後ろから声がした。
「待て。お前、何者だ。皇居の屋根に登るとは」
驚いて振り向いた李秀は、その巨体を見て二重に驚いた。
「あ、安禄山……!」