「雄武皇帝陛下、張兄弟をお連れしました」
フォルトゥナが挨拶すると、安禄山はほほ笑みながら軽く手を振った。
「報告は聞いた。順調にやっているようだな。困ったことがあるなら言うがよい」
すると、フォルトゥナが礼をして言う。
「彼らが言うには、皇太子の安慶緒様など、陛下のお近くにおります方々は、調査が難しいようです。何か、近付ける理由をお与えくださいますか」
「そうか、それは尤もであったな。――では、医師の振りをしろ。病が流行り始めたので検査に回っている、と。前もって朕から告げておくから、それなら怪しまれまい。フォルトゥナ、それらしい衣装を用意してやれ」
「はい、ご名案と思います。では、そのように」
フォルトゥナがまた礼をして、一歩下がった。そして、鋼先たちに退出を促す。しかし、安禄山が呼び止めた。
「待て。どのような病か、もう少し詳細に決めておこう。……長兄のお前、ちょっとここに残れ」
指名された魯乗は、思わずびくりと震えた。鋼先たちも顔を見合わせたが、安禄山が行けと手を振るので、仕方なく出て行く。フォルトゥナが、医師の服を取りに行きましょうと誘った。
李秀がこっそりと鋼先にささやく。
「魯乗、大丈夫かな」
鋼先は言った。
「いざとなったら幻術があるし、百威も一緒だが、心配だな。俺たちも服をもらったら戻ろう」
安禄山が魯乗に言った。
「さっきは思いつきで言ったが、朕には医事は分からぬ。何かもっともらしい口実は作れるか?」
魯乗は安禄山の顔色をうかがいつつ、その案を練る。
「それでは、伝染を防ぐため、部屋に薬を撒くことにいたしますか。そう言って部屋を追い出せば、こちらも調査がしやすいはず。いかがでしょう?」
それを聞いて、安禄山は膝を打つ。
「なるほどな」
「お身内を探るのですからな。怖い病気だということにしていただきますれば、多少の強引も通るかと」
すると、安禄山は椅子に凭れてため息をつく。
「……そうだ、身内や側近までが、信用ならぬ。昔はこんなことはなかった。日々の仕事に一丸となって、力を合わせていたのだ。なぜ、人は力を持つと、却って自由を失ってしまうのか」
「お、……お察しします」
しんみりとしてしまった安禄山に、魯乗は驚き、「では、私はこれで」と言って去ろうとしたが、安禄山がまた呼び止める。
「待て。少し、話し相手になってくれないか。身内にも気を許せない立場になってからは、心労がひどくてのう」
そして、安禄山はそのまま話し始めた。
「五年前、朕が……いや、わしが、三つ目の節度使を兼任した頃だ。珍しい客が来た。お前も、噂に聞いたことはないか。張果、羅公遠、葉法善という三人だ」
魯乗と、彼の懐の百威が、小さくぶるっと震えた。
「た、確か、唐の皇帝を訪れた神仙では」
魯乗がそう答えると、安禄山は目を細める。
「そうだ。彼らの来訪を聞いたとき、わしは嬉しくなった。仙人、真人ともいうが、そう言った者が来ると言うことは、わしにはやはり、皇帝たるべき威光があるからだと思ったのだ」
「……それは、おめでたきことでございましたな」
魯乗が言うと、しかし、安禄山は不機嫌な表情になった。
「ところが、だ。奴らはこう言った。『貴殿には、狂暴な魔物が憑いている。それを取り除きに来た』と。わしが成功できたのは、その魔物の力のせいだと言うのだ。失礼な話だ」
「……して、どうなさったのですか、陛下は」
魯乗が問うと、安禄山は、舌なめずりをして笑う。
「『何の話かわからん』、と答えた。すると奴ら、ならば腕ずくで引きずり出す、と言う。やってみろ、とわしは笑った。――奴らは法力による雷撃を繰り出した。並の人間なら即死するほどの、凄まじい激痛だった。わしはたまらず窓を破って逃げたが、庭に落ちて気を失った。
ところが、すぐに目が覚めた。そして同時に、身体中にもの凄い力が湧き、気力がみなぎった。これほどの巨体なのに、軽々と飛び上がり、館の屋根の上に乗って、奴らへの反撃を開始した」
「そ、それは、どういうことで」
「ふふふ、それはな。わしの母が、わしの体内に封じていた、天殺星という魔星の力だ。それまでにも、戦で危ないときなどに発現していたが、そのときの力は比ではなく、手を振り上げるだけで鳥が落ちるほどに溢れていた」
「天殺星……ですか」
「百八星の中でも、群を抜いて狂暴な星だ。宿主のわしの危機を感じて、目覚めたらしい。その後は、わしの意志では身体が動かず、奴に任せて三人と戦った」
「……で、三人は」
「うむ。奴らも、天殺星の殺気に気付いて、さらに本気を出してきた。葉法善は刃物を無数に飛ばし、わしに斬りつけた。しかし、わしはそれを叩き落としながら近付き、飛んできた斧を取って、葉法善を唐竹割りに斬った。葉は、真っ二つになった。
次に、張果が襲いかかって来た。奴はいきなり姿を変え、白い大きな蝙蝠になってわしの背後に回り、首筋に噛みついた。そしてじゅうじゅうと音を立てながら、わしの血を吸い始める。あれは不気味だった。
わしは、いや天殺星は、力を振り絞って蝙蝠をつかみ、思い切り引きちぎった。蝙蝠は断末魔の声を上げ、ずたずたになって落ちた」
「……あと、一人は」
安禄山は、少し間を置き、ゆっくりと語る。
「羅公遠。こいつが一番厄介だった。確か、『三雷天罡』という術で雷撃を放ってきた。最初に受けた雷撃も、こやつの技だった。わしの乗っていた屋根に、無数の稲妻が落ち、ついに屋根が崩れてわしは階下に転落した」
「……」
「起き上がったわしの前に、羅公遠が立っていた。童子のような姿だったが、大人びた声で奴が言った。
『もうやめろ。魔星を引き渡せば、命は取らぬ。葉も張も、魂魄を集めて固定すれば蘇生できるから、お主を恨みはしない。お主は節度使を三つ兼任し、強大な軍事力を手にしている。控えめに過ごさねば、いずれ焚き付けられて、謀叛に追い込まれよう。そうならぬよう、唐の辺境を守る任に勤しみ、平和を保ってくれ。これはお主にしかできぬ仕事なのだ、安禄山』とな。
だがわしは、奴の言葉が終わった瞬間、瓦のかけらを投げた。しかし奴は、見透かしていたように躱し、指を一本伸ばして、針のような雷撃を打ち込んだ。わしは倒れた」
「……うううう」
魯乗が呻くような声を出すと、安禄山は残忍な笑いを見せて、
「と見せかけて、手にしていた斧を投げた。羅公遠の首が飛び、奴はその場に崩れ落ちた」
と言って膝を叩き、大笑いした。そしてひとしきり笑って、息を整える。
「だが、わしも限界だった。残りの力を振り絞って、その場を離れた。――壮絶な戦いだったが、さすがの真人どもも、わしと天殺星には敵わなかったということだ」
「……」
「フハハハ、突拍子もない話で驚いているのかな? ――ところで話は変わるが、わしは昔、貿易商で通訳をしていた。だから、人の口調を聞き取ることには慣れている」
「は、はい?」
「お前の口調には、聞き覚えがあるぞ。……あのときわしを討ちに来た一人とそっくりだ。そうだな、羅公遠!」
「う、ううっ!」
魯乗は、大きく呻いた。
次の瞬間、魯乗の懐から百威が飛び出して、安禄山に襲いかかる。
だが、なぜか、安禄山は微動だにしなかった。百威は正面から行くと見せて、急カーブして右側頭を襲う。しかし、安禄山は首の動きだけで躱した。百威は旋回して戻り、魯乗を見る。魯乗が言った。
「そうなんじゃ百威、どうも様子がおかしい。さっきから逃げようとしとるのに、わしの幻術に何の反応も示さん」
危険を感じた魯乗は、すでに幻術を使っていた。それなのに安禄山は動じず、淡淡と語っていたのである。
安禄山が笑った。
「ほう、そんなことをしていたのか。実は天殺星が融合してから、その反動で視力が弱っていてな。今では気配しか分からぬ」
「な、なんじゃと……!」
さすがの幻術も、視えない相手には通じない。魯乗は力の使い過ぎと絶望とで、目眩が起こる。百威がもう一度襲いかかるのが見えたが、止めようとする前に意識を失った。