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第七十四回 守護神の守護隊

 突然郭子儀かくしぎは、黒い板のふだを取り出して二人に見せた。李秀りしゅうはぽかんとした顔をするが、閻謬えんびゅうは忌忌しい顔になる。


 郭子儀かくしぎがかすかに笑った。


「お前が毒死しようとしたとき、このふだを見つけた。大事なものか?」


 閻謬えんびゅうが答える。


「それは鉄車輪てつしゃりん割符わりふだ。朱総輪しゅそうりんに代わってからは掟も厳しくなり、割符わりふが無いと鉄車輪てつしゃりんを裏切ったと見なされる。返せ!」


 李秀りしゅうは思い出した顔で、


「ああ、あったねそんなの。そういえば呉文榮ごぶんえいが言ってたけど、閻謬えんびゅう、あんたが総輪そうりんになるんじゃなかったの?」


 すると閻謬えんびゅうは首を振り、


「あの時、お前たちに対する依頼は終了になり、戦う理由が消えた。だから私が総輪そうりんになる必要は無いと朱差偉しゅさいが判断し、彼が総輪そうりんになった。それで良い。朱差偉しゅさいはずっと以前から鉄車輪てつしゃりんにいたし、経験は豊富だ」


「それで、今度は誰かが私の命を狙って、お前たちに依頼をかけたのだな」


 郭子儀かくしぎがそう言うと、閻謬えんびゅうは黙った。依頼の内容は漏らさない、ということが態度で分かる。


 郭子儀かくしぎは二人を見比べ、微笑んだ。


「お前たち二人、食事をしてきなさい。李秀りしゅう閻謬えんびゅうを連れて町の酒場へ行ってくるように」

「は? 師父、冗談でしょ? 敵と一緒に?」


「彼女はもう敵ではない。仲間なんだ」


 閻謬えんびゅうも反発した。「私はただ、あのふだを取り戻したいだけだ。余計な付き合いはごめん被る」


「命令だ」郭子儀かくしぎの声が少し厳しくなった。「お前たちが互いを知ることは重要だ」


 李秀りしゅう閻謬えんびゅうは互いに険しい視線を交わした。


 ◇


 軍営から少し離れた町の酒場。店内は程よく混雑しており、二人は人目につかない隅の卓に座った。互いに警戒を解かない視線で向かい合う。


 店主てんしゅが料理を運んできた。炙った肉、蒸し野菜、米の粥、そして酒。


「食べる気がないなら、無理しなくていいよ」李秀りしゅうは皮肉っぽく言った。


 閻謬えんびゅうは無言で匙を取り、粥をすくう。その表情は冷たいままだ。


「ところで」李秀りしゅうは肉を切りながら言った。「あんたの肩はまだ痛むの? 雷先らいせんにやられてから」


 閻謬えんびゅうの目が一瞬だけ揺れた。「知っていたか。思い出させるな」


雷先らいせんが言ってたよ。あんたの鎖骨を粉々にしたって」


「大げさだな」閻謬えんびゅうは皿に視線を落とした。食べやすそうな部分をくれている。「ただの骨折だ」


「そのせいで暗腿あんたいに変えたんでしょ?」李秀りしゅうは意図的に刺すように言った。「大変でしょうね、腕が挙げられない生活。でも自業自得だもんね」


 閻謬えんびゅうの手が一瞬止まった。「お前、挑発しているのか?」


「ただの事実確認よ」李秀りしゅうは無邪気な顔を作った。「あんたの暗腿あんたいは見事だったから。どんな訓練をしたのか気になっただけ。いつかまた戦うかもしれないでしょ?」

 閻謬えんびゅうは黙って酒を飲む。


「あんたは私たちのこと、すごく恨んでるわよね?」李秀りしゅうが突然言った。


「恨み?」閻謬えんびゅうは無表情を保ったまま言った。「仕事の失敗と成功があるだけだ」


「ふうん」李秀りしゅうは信じない目で見た。「雷先らいせんがあんたの肩を折って、仲間も何人か倒されたのに?」


「感情で動く暗殺者は鉄車輪てつしゃりんにはいない」閻謬えんびゅうは冷たく言い放った。「それだけだ」


 互いに黙り込み、しばらく沈黙が流れた。酒場の喧騒が余計に二人の緊張を際立たせる。


郭子儀かくしぎはなぜ私をそばに置こうとしている?」閻謬えんびゅうが突然言った。「暗殺者を近くに置くなど、普通考えないぞ」


「さあ?」李秀りしゅうは肩をすくめた。「たぶん、あんたが逃げ出さないようにね」

「お前は本当に師父と呼ぶほど信頼しているのか?」

「何が言いたいの?」李秀りしゅうの目が鋭くなった。


「お前も私も道具にすぎない」閻謬えんびゅうは静かに言った。「郭子儀かくしぎにとっては」


「あんたとは違うよ」李秀りしゅうは怒りを抑えながら言った。「かく師父は私を一人の武将として見てくれる」


「そう思い込んでいるだけだ」閻謬えんびゅうは冷笑した。「戦略に使う駒であることは、武将も暗殺者も変わりは無いぞ」


「あんたと私を同列に語らないで!」


 互いに敵意をあらわにした瞬間、酒場の主人しゅじんが再び酒を持ってきた。


「お嬢さんたち、もっと飲みなよ。そんな険しい顔してると、せっかくの料理も不味くなるぜ」


 だが主人しゅじんが去った後も、二人の視線は緩まない。


かく師父は、あんたが今後護衛として働くって言ってたけど」李秀りしゅうが言葉を続けた。「あんたは本気でそんなことするつもり?」


割符わりふだ」閻謬えんびゅうはきっぱりと言った。「あれを取り戻すためだけに従う」


「命を賭けてまで?」


「当然だ。そして鉄車輪てつしゃりんに戻る」


 李秀りしゅうは突然真剣な表情になった。


閻謬えんびゅう、あんた本当にかく師父を殺すつもりだったの?」


 閻謬えんびゅうは沈黙する。


「あんなに簡単に捕まるなんて、本気で暗殺する気あったの?」


 閻謬えんびゅう李秀りしゅうをじっと見つめた。「郭子儀かくしぎが強かった。私は及ばなかった。これ以上言わせるな」


「そう」李秀りしゅうは冷たく言った。「本当みたいね。じゃあ、今後私は絶対に目を離さないよ」


 二人は無言のまま食事を続けた。空気は凍りつくほど緊張している。


「結局、あんたはかく師父の護衛をしながら修行を積んで」李秀りしゅうは最後の一杯を注ぎながら言った。「いつか復讐戦をして割符わりふを取り戻す。そういうわけね」


 閻謬えんびゅうは酒を飲み干し、頷いた。


「その通りだ」


 李秀りしゅうの目に敵意が浮かぶ。


「正直ね。あんたがどれだけ危険か、改めて認識した」


「まわりくどいな」閻謬えんびゅうは冷ややかに言った。





 食事を終えた二人は、沈黙のまま酒場を出た。月が高く昇り、町は静まり返っていた。


「あんたの暗腿あんたい李秀りしゅうが歩きながら言った。「確かに強かった。次に戦うときはもっと用心するわ」


 閻謬えんびゅうは無言のまま歩き続ける。


「もしかく師父に何かしたら」李秀りしゅうは静かに続けた。「私が必ず倒すから」


「今ここでもいいんだぞ」


 閻謬えんびゅうは挑発した。李秀りしゅうは取り合わない。


 軍営が見えてきた。閻謬えんびゅうは立ち止まり、静かに言った。


李秀りしゅう、奇妙な縁になったが、忘れるな。いつか必ず決着をつけるぞ」


 李秀りしゅうは挑戦的に応えた。「いつでも相手になるわ。それまで、かく師父の前では従順にふるまっておくことね」


 星が瞬く夜空の下、二人は互いへの警戒を解かぬまま、距離を保って軍営へと戻っていった。



 ◇



 李秀りしゅう閻謬えんびゅうが酒場で緊張した時間を過ごしている頃、軍営では別の場面が展開されていた。


 郭子儀かくしぎ帷幕いばくには数本の蠟燭が灯され、薄暗い明かりが空間を柔らかく照らしていた。外では風が吹き、帷幕いばくの端がときおり揺れる。その度に炎が揺らぎ、部屋の中に不安定な影を投げかけた。


 帷幕いばくの入口で、兵士の足音が聞こえる。


「入れ」郭子儀かくしぎは目を開けることなく言った。


 帷幕いばくの隙間から一人の男が入ってきた。四十代半ばの精悍な顔つきをした兵士で、左頬には年季の入った長い刀傷が走っている。


康新由こうしんゆう、参りました」


 郭子儀かくしぎはゆっくりと目を開け、男を見据えた。「康新由こうしんゆう。遅くまで呼び出して済まなかったな」


 彼は茶碗を手に取り、小さなテーブルてーぶるの上の茶器から香り高い茶を注いだ。湯気が立ち上る。郭子儀かくしぎは茶碗をもう一つ取り、同じように茶を注ぐと、康新由こうしんゆうの前に差し出した。


「お前は以前、鉄車輪てつしゃりんにいたそうだな」


 康新由こうしんゆうの手がわずかに震えた。彼は恐る恐る茶碗を受け取った。その動きは、この話題を避けたいという意思を明確に表していた。


「はい……将軍」彼は目を伏せて答えた。「黒輪頭こくりんとう閻謬えんびゅうの配下でした」


 郭子儀かくしぎは茶を一口すすった。その目は穏やかだが、決して逃げ場を与えない鋭さを帯びていた。


「詳しく話してほしい。閻謬えんびゅうとはどのような者だ?」


 康新由こうしんゆうは一息つくように茶を飲み、覚悟を決めたように顔を上げた。


閻謬えんびゅうは……」彼は言葉を探すように一旦口を閉ざした。「鉄車輪てつしゃりんに対する忠誠が並外れて厚い者です。幼い頃から唐流嶬総輪とうりゅうぎそうりんに拾われ、その恩を忘れることはありませんでした」


 彼は茶碗を両手で握りしめ、続けた。


「一度任務と決めたら、どんな困難があっても遂行しようとする一徹さがあります。私が見た中で、唯一失敗した任務は……」


 彼は言葉を切り、自分の左肩に触れた。


賀雷先がらいせんとの戦いです。鎖骨を粉砕され、得意の短叉たんさが使えなくなりました」


 郭子儀かくしぎは顎を撫でながら聞き入った。帷幕いばくの外では、巡回の兵士の足音が規則正しく聞こえる。


「なるほど」郭子儀かくしぎは茶をすすった。「他にあるかな?」


 康新由こうしんゆうは周囲を見回すように目を動かした。何かを打ち明けることへの躊躇いが見て取れる。


「ただ、人をだますような器用なことはまったくできません」彼の声は次第に強まった。「彼女は正面から戦うことしか知らない。駆け引きや策略には向いていない」


 彼は茶碗を置き、両手を膝の上に置いた。


「私は閻謬えんびゅうが負傷した直後、鉄車輪てつしゃりんの組織が壊滅するのではないかと危惧して逃亡しました。そしてとうの軍に身を寄せたのです」


 彼は息を飲み、声を潜めた。


「しかし彼女は復活した。ですから、必ず将軍を狙い続けるでしょう。彼女にとって、任務の完遂は命より大切なものです」


 郭子儀かくしぎの表情に変化はなかったが、その目にはわずかな光が宿った。


「お前は彼女に会いたくないと?」


 康新由こうしんゆうの顔が青ざめた。彼は深々と頭を下げ、額が床に触れそうになるほどだった。


「申し訳ありません」声が震えている。「別動隊に移していただけないでしょうか。閻謬えんびゅうに顔を見られれば、きっと……私は生きては帰れません」


 郭子儀かくしぎは立ち上がり、康新由こうしんゆうに近づいた。夜風が再び帷幕いばくを揺らし、蠟燭の影が二人の周りで踊る。郭子儀かくしぎ康新由こうしんゆうの肩に手を置いた。その手は重く、しかし安心を与えるものだった。


「わかった。明日から西方の哨戒隊しょうかいたいに移れ。心配するな」


「恐れ入ります」康新由こうしんゆうの声には明らかな安堵が混じっていた。彼は後ずさりながら帷幕いばくを出て行った。


 再び一人になった郭子儀かくしぎは、思案顔で蠟燭の炎を見つめる。その目に、危険な計画の輪郭が浮かんでいた。



 ◇



 夜も更けた頃、軍営の門前に二つの影が現れた。李秀りしゅう閻謬えんびゅうは互いに距離を置き、ほとんど言葉を交わさないまま歩いてきた。空には満月が輝き、二人の姿を銀色に照らしていた。門の警備兵たちは彼女たちの姿を認めると、小さく会釈した。


李秀りしゅう殿」若い兵士が一歩前に出た。「かく将軍がお呼びです」


 李秀りしゅうは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻した。彼女は閻謬えんびゅうに向き直った。その顔には明らかな疑念が浮かんでいた。


「あんたは宿舎に行ってなさい」李秀りしゅうの声は命令口調だった。「明日の朝、また会うわ」


 閻謬えんびゅう李秀りしゅうを冷ややかな視線で見つめたが、口を開くことはなかった。彼女は無言で頷くと、兵士に案内されて宿舎への道を歩く。その背中は堂々としていたが、わずかに緊張した様子も見て取れた。


 李秀りしゅう閻謬えんびゅうの姿が闇に消えるのを確認してから、郭子儀かくしぎ帷幕いばくへと足を向けた。心の中には疑問が渦巻いていた。なぜ師父は彼女だけを呼んだのか。閻謬えんびゅうのことだろうか。


 郭子儀かくしぎ帷幕いばくに近づくと、中から明かりが漏れていた。李秀りしゅうは入口で立ち止まり、小さく咳払いをした。


「師父、李秀りしゅうです」


「入れ」中から落ち着いた声が返ってきた。


 李秀りしゅう帷幕いばくをめくって中に入ると、郭子儀かくしぎは大きな地図を広げ、何かを考えているところだった。彼の前には燭台しょくだいが置かれ、明かりが地図の上で揺れている。部屋の隅には兵具や文書が整然と並べられていた。


「師父、お呼びでしょうか?」李秀りしゅうは一歩前に出た。


 郭子儀かくしぎは静かに顔を上げた。その目は疲れを感じさせたが、鋭さは失われていなかった。


「ああ」彼は地図から目を離した。「閻謬えんびゅうとはどうだった?」


 李秀りしゅうは顔をしかめた。酒場での冷えた空気と、閻謬えんびゅうとの緊張した対峙が思い出された。


「最悪です」彼女は率直に言った。「あの女、絶対に信用できません。目つきからして危険ですし、師父を恨んでいるのは明らかです」


 郭子儀かくしぎはその言葉を聞いても、意外にも穏やかな微笑みを浮かべた。彼は地図を脇に寄せ、李秀りしゅうに座るよう手で示した。


「そうか」郭子儀かくしぎの声には不思議な満足感が混じっていた。「さっき、閻謬えんびゅうのことをよく知る者に会った。以前、彼女の配下だった男だ」


 李秀りしゅうは身を乗り出すように前傾した。「それで?」


「彼女は鉄車輪てつしゃりんに対する忠誠が厚く、一度決めたら必ず遂行する一徹さがあるそうだ」郭子儀かくしぎは静かに言った。「そして、駆け引きは苦手とも」


 李秀りしゅうの眉が寄った。彼女は立ち上がり、落ち着きなく一歩前に出た。


「それならなおさら危険じゃないですか? また絶対に師父を狙いますよ。なぜ側近として置くんです?」


「使える要素があるからだ」


「どういうことですか?」李秀りしゅうは混乱した様子で訊ねる。


 郭子儀かくしぎは答える代わりに、突然話題を変えた。彼は窓辺に立ち、夜空を見上げた。


「その前に、閻謬えんびゅうの様子を見てきてくれ。彼女の部屋は東の兵舎へいしゃの端だ。今の彼女の本当の姿を見るといい」


 李秀りしゅうは首を傾げたが、師の意図を問い質すことはしなかった。彼女は黙って頷き、帷幕いばくを後にした。



 ◇



 東の兵舎へいしゃは軍営の外れにあり、ほとんどの明かりは消されていた。ただ一つ、端の小さな部屋からわずかな光が漏れている。閻謬えんびゅうに割り当てられた部屋だ。


 李秀りしゅうは静かに近づいた。彼女の足音は夜の静けさの中でも聞こえないほど軽かった。部屋の扉には節穴ふしあながあり、内部を覗き見ることができた。


 李秀りしゅうは慎重に近づき、内部を窺った。そこで彼女は、これまでの認識を覆すような光景を目にした。


 部屋の中央で、昼間まで冷徹な表情しか見せなかった閻謬えんびゅうが、小さく体を震わせて泣いていたのだ。その姿はあまりにも孤独で、あまりにも人間らしかった。


仇凱きゅうがい……」彼女の声は掠れていた。「総輪そうりん……」


 涙が彼女の頬を伝い、布の上に落ちる。その表情には、昼間の冷酷さはなく、ただ深い悲しみと喪失感だけが刻まれていた。


「やはり天暗星てんあんせいがない私は……あの頃の強さに至れません……」閻謬えんびゅうの言葉は囁くように小さかった。「せめて、せめて任務だけは……」


 彼女は小さく体を揺らした。その姿は、冷徹な暗殺者ではなく、ただの悲しみに打ちひしがれた一人の女性のものだった。


 李秀りしゅうは胸が痛んだ。閻謬えんびゅうもまた、誰かを失い、誰かを想う一人の人間なのだ。


 だが、声をかける勇気は出なかった。李秀りしゅうはそっと後ずさりし、来た道を静かに引き返した。彼女の足取りは重く、複雑な思いが心を占めていた。



 ◇



 郭子儀かくしぎ帷幕いばくに戻ると、将軍は窓辺に立ったままでいる。李秀りしゅうが入ってくる足音に、彼は振り向いた。


「師父」李秀りしゅうは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。「閻謬えんびゅうが……泣いていました」


 李秀りしゅうの声には、自分でも予想していなかった同情が混じっていた。


「恋人だった仇凱きゅうがいと、鉄車輪てつしゃりん頭領とうりょうを想いながら……本当にに悲しそうでした」


 郭子儀かくしぎは黙って頷いた。その表情からは、すでにそのことを知っていたかのような穏やかさが感じられる。


「彼女は本当に鉄車輪てつしゃりんに戻りたいと思っています」李秀りしゅうは続ける。声には迷いが混じっていた。「でも……どうしてそんな危険な人物をそばに置くのですか? きっと本当に、師父を殺そうとしますよ」


 郭子儀かくしぎは蠟燭の側に戻り、ゆっくりと腰を下ろした。彼は李秀りしゅうに向き直り、まっすぐに目を見る。


李秀りしゅう、明日から『鉄車輪てつしゃりんの暗殺者が郭子儀かくしぎを狙っている』という噂を広めよ」


 突然の指示に、李秀りしゅうは目を見開いた。彼女は混乱した様子で、一歩後ずさった。


「え? なぜそんなことを? それは本当のことですが、わざわざ広める必要が……」


「これは作戦だ」郭子儀かくしぎの目が鋭くなった。蠟燭の光が彼の目に反射し、その眼差しに決意の色が浮かび上がる。「鉄車輪てつしゃりんは、裏社会では今や有名な暗殺結社だ。この噂が広まれば、他の暗殺者たちも私を討って名を上げようとするだろう」


 李秀りしゅうの顔から血の気が引いた。その手は机を強く握りしめる。


「だったらますます危険じゃないですか! どうして標的になりたいのですか?」


 郭子儀かくしぎは立ち上がり、李秀りしゅうの前に立った。彼の姿は威厳に満ちていたが、それと同時に、決死の覚悟も感じられた。


「ああ、なりたいのだ」郭子儀かくしぎは穏やかに笑った。「現状を考えてみよ。えんの刺客たちはとうの将軍たちを次々と狙っている。李光弼りこうひつ顔真卿がんしんけいも、すでに暗殺の危機に何度も晒されている」


 彼は地図の上に手を置き、各地に配置されたとう軍の陣地を示した。


「私が最も効果的な標的と知れ渡れば、彼らは私に集中する。つまり……」


 李秀りしゅうの目に理解の色が浮かんだ。彼女は息を呑み、震える声で言った。


「他の武将たちが狙われる確率が下がる……」


「その通りだ」


 郭子儀かくしぎは窓に向かって歩き、夜空を見上げた。月明かりが彼の横顔を照らし、その表情には決意と覚悟が刻まれていた。


「この戦乱を勝ち抜くには、味方の損傷をできる限り少なくしなければならない。とうの将軍たちが個別に狙われるのは避けたい。だから、刺客の矛先を私に集中させるのだ」


 李秀りしゅうは言葉を失った。彼女は震える唇を噛みしめ、郭子儀かくしぎに近づいた。


「そんな……」彼女の声は震えていた。「あまりにも危険です! 師父一人が犠牲になるなんて、賛成できません! 他の方法があるはずです!」


 郭子儀かくしぎは振り返り、李秀りしゅうの前に立った。月光と蠟燭の光が交差する中、彼の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。彼はゆっくりと李秀りしゅうの肩に手を置いた。その手は重く、しかし確かな安心感を与えた。


「だからこそ、お前と閻謬えんびゅうが、必死に私を守るのだ」


「あっ……!」


 李秀りしゅうは驚愕の表情を見せた。


閻謬えんびゅうを敵として近くに置き、私を狙う刺客を引き寄せる」郭子儀かくしぎは静かに説明した。「その上で、お前たち二人の力で私を守る。閻謬えんびゅうは暗殺者としての腕前と経験がある。お前は双戟そうげきの技を持つ。二人が協力すれば、どんな刺客も寄せ付けない守りを固められる」


「でも師父」李秀りしゅうは困惑した様子で尋ねた。「閻謬えんびゅうは刺客ですよ? いつ師父を襲うか分からない。そんな危険な人物と協力できるわけがありません」


 郭子儀かくしぎは蠟燭の側に戻り、静かに座った。彼の表情は思慮深く、遠い目をしていた。


「彼女は鉄車輪てつしゃりんに忠誠を誓っている」郭子儀かくしぎは静かに言った。「もし私が他の暗殺者に殺されたら、彼女は任務に失敗したことになる。だから閻謬えんびゅうは他の暗殺者を嫌でも迎え撃たなければならない」


「あっ、そういうこと!」


「それに、閻謬えんびゅうは駆け引きが苦手だと聞いた。私を騙すような芝居はできないだろう。彼女の本心は、常に表れる。もし彼女が私を狙うつもりなら、それはすぐに分かる」


 李秀りしゅうはあまりにも大胆な策に言葉を失った。彼女は帷幕いばくの中を行ったり来たりしながら、考えを整理しようとした。蠟燭の炎が彼女の動きに合わせて揺れる。


 やがて彼女は立ち止まり、師の前に跪いた。


「わかりました、師父」彼女の声には新たな決意が込められていた。「私は必ず師父をお守りします。それがとう軍のためになるなら。たとえ閻謬えんびゅうと協力しなければならないとしても……」


 彼女は顔を上げる。その目には迷いはない。


「最初は仲が悪くとも、時間が解決することもある」郭子儀かくしぎは微笑んだ。「さあ、休め。明日からは大変な日々が始まるぞ」


 李秀りしゅうは静かに頭を下げると、立ち上がって帷幕いばくを出ていった。彼女の姿が闇に消えた後も、郭子儀かくしぎは長い間窓辺に立ち、夜空を見上げる。彼の目には、これから始まる危険な賭けへの覚悟が映っていた。

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