竜虎山の深い森の中、仄かな月明かりが岩肌を青白く照らす夜。苔むした巨岩の間から、時折鈍い金属音が響いてくる。百年の歴史を誇る木々が密集する聖なる山のその片隅で、三人の男たちが地底を掘り進んでいた。
「おい金還、もう少しで社殿の床下に届きそうだ」
易角は額の汗を拭いながら、土に突き刺した鍬を引き抜いた。松明の明かりが彼の期待に満ちた顔を照らし出す。鍛え上げられた腕は力強く、盗掘の作業にも疲れを見せない。
「おう、そろそろ石の床に当たるはずだ。柔らかい地質だから計算より早かったな」
金還は頷いた。彼は三人組の首領格で、盗みの経験が長い。
「財宝が手に入ったら、俺は酒屋を開くんだ」向景が言った。三人の中で最も年上だが、頭の回転が速く、機知に富んでいた。「美味い酒を飲みながら、悠々自適に暮らすのさ」
「俺は広い屋敷を買って、美女を囲うぞ」易角が笑いながら応じる。
金還も笑顔を浮かべた。「山賊やってきて良かったな。この戦乱の世、お上は民を守らず、自分の身は自分で守るしかない。今度こそ大金持ちになって、安泰な暮らしだ」
三人は長年連れ添った盗賊で、安史の乱に乗じて各地を荒らし回っていたが、官軍の追討が厳しくなり、一時は運送屋をしていた。しかし、竜虎山が難民を受け入れていると知り、今回の盗掘を計画したのだ。
「この伏魔殿は厳重に守られている。名前は物物しいが、財宝を隠しているに違いない。正面からは無理だから、地下から狙う」
金還は十日前から作戦を実行していた。伏魔殿の周囲は昼夜問わず道士たちが警備しているが、地下から忍び込めば発見されずに宝物を盗み出せるはずだった。
三人は交代で地面を掘り進めた。夜が深まるにつれ、松明の火だけが彼らの姿を照らしている。誰にも気づかれないよう、音を立てないように慎重に作業を続ける。
しかし、掘り進むうちに変化が現れた。
「水の音がする……!」向景が耳を澄ませた。
確かに、地中から水の流れる音が聞こえてくる。最初は小さな音だったが、掘り進むにつれて次第に大きくなっていった。
「地下水脈か?」易角が尋ねた。
金還は少し考え込み、「構わん、掘り進めろ。もうすぐ伏魔殿の床下だ」と言った。
三人は力を尽くして作業を続ける。その甲斐あって、間もなく鍬が何か固いものに当たる音がした。
「おお! 何かに当たった!」
金還は興奮して土を掻き分けた。現れたのは平らに削られた石の床。間違いなく伏魔殿の床下部分だった。
「やったぞ!」三人は喜びを分かち合った。
しかしその喜びもつかの間、掘っていた穴から水が湧き出し始めた。最初は小さな湧き水だったが、徐々に勢いを増していく。
「水脈に当たったか。このままでは穴が水没するぞ」易角が懸念を示す。
「急いで殿内に掘り進むんだ」金還は焦りを見せた。「宝はもう目の前だ、ここで引き返せるかよ!」
三人は力を合わせて石の床を削るように掘る。鍬と鎚が石に当たる音が洞内に響く。
「もう少しだ!」
その瞬間、地面が大きく揺れ始めた。
「なんだ?」
三人が驚く間もなく、彼らが掘った穴が一気に崩れ落ち、水が勢いよく流れ込んだ。
伏魔殿の床下には深く掘られた大きな穴があった。その中に百八星は封印されていたのである。しかし今、その縦向きの穴に対して垂直に水脈が入り、新しい水流を作ってしまった。
「まずい!」金還が叫んだ。「あれは……!何かの封印だったのか?」
三人が逃げようとした瞬間、大洪水が始まり、水流に流された。
「う、うわーっ!」
溺れて意識を失いかけたとき、三人に光の塊が飛びこんだ。そしてそのまま三人は流れに連れ去られた。彼らの後ろでは、まだいくつかの光の塊が水脈に乗って流れ出ている。
◇
竜虎山から数里離れた村の外れ。小高い丘の上で、|フォルトゥナが静かに夜空を見上げていた。星占いの技に長けた彼女は、星の動きから異変を察知していた。
「えっ? い、今なにか起きてる?」
|フォルトゥナは星座盤に手を当てた。突然、強い不安感が彼女を襲う。そして次の瞬間、遠くから流れてきた光の塊のような存在が彼女に襲いかかった。
「な……これは……! 天微星?」
彼女は驚愕に目を見開いた。かつて彼女に憑依し、女将軍のような力を与えてくれた魔星。竜虎山で封印されたはずの存在が、今再び彼女の体内に入り込もうとしている。
「まさか……! 封印が暴かれたの?」
抵抗する間もなく、天微星は|フォルトゥナの体内に入り込んだ。一瞬、彼女の体が宙に浮き、周囲に青白い光が広がる。そして再び地に足をつけた時、彼女の目には強い意志の光が宿っていた。
「また会えたな、|フォルトゥナ」天微星の声が彼女の内側から響いた。
「あなたは……!」
「解放されたみたいだ。水脈に乗って、ここまで辿り着いた」
|フォルトゥナは困惑した表情を浮かべた。彼女は以前、天微星と共に激しい戦いを経験していた。その力は強大だが、同時に己の心を失いつつもあったのだ。
|フォルトゥナはため息をついた。「金還たちね、きっと。盗掘したら捕まえようと思ってたけど、まさか封印を壊しちゃうなんて……!」
同じ頃、村の宿屋で休んでいた王萍鶴も、同様の体験をしていた。突然、彼女の筆「輝影」が異様な輝きを放ち始めた。
「これは……!」
筆に手を伸ばした瞬間、光の塊のような存在が現れた。
「地文星? まさか……!」
王萍鶴は驚愕した。しかし、魔星は少し様子が違う。
「ち、地文星は最後にたくさん力を預けてしまったんでまだ寝てるっス。自分は地巧星っス。じ、自分、一度その筆にも入ってみたくて……」
かつて地巧星は顔真卿の筆に憑依し、飛墨顕字象と同じ能力『墨痕来』を発揮していた。萍鶴は真剣な顔になる。
「伏魔殿に何かあったのね……。ならば、地巧星の力は必要になるかもしれないわ」
萍鶴は覚悟を決める。地巧星を輝影に入らせた。輝影の軸が剣ほどの長さに伸びる。萍鶴は急いで支度をして、張天師の元へ走った。
◇
上清宮では、すでに異変に気づいていた。
「伏魔殿が! 水没している!」
報せを受けて駆けつけた張天師が、現場を見て叫んだ。伏魔殿のあった一帯が、一本の河になってしまっていた。
「父上、何が起きたのですか?」
「どこかの水脈が氾濫した。魔星が放流されてしまうぞ!」
張天師は河に飛び込もうとした。ものすごい勢いの流れに向かう父を、応究が必死に抱き止める。
「落ち着いてください。この水流なら魔星も抗えません。下流へ向かいましょう」
二人は馬に乗り、水の流れる先へと急いだ。
夜明け前、二人は盆地の村へと到着した。そこには|フォルトゥナと王萍鶴が待っていた。二人の様子を見て、張天師はすぐに気づいた。
「すでに……魔星が憑いたか」
|フォルトゥナと萍鶴は沈痛な面持ちで頷く。
四人は宿の一室に集まり、状況を確認した。|フォルトゥナが先ほどの伏魔殿での状況を説明する。
「どうやら盗掘者たちが伏魔殿の床下から侵入を試み、水脈と封印の間に通路を作ってしまったようです」
「まずいですね」萍鶴は筆を見つめながら眉をひそめた。「あの三人は元々盗賊。魔星の力を得れば、また悪事を働くでしょう」
張応究が口を開いた。「しかし、父上。|フォルトゥナと萍鶴にも再び魔星が来ました。魔星は、我々から逃げたい者ばかりではなさそうですよ」
張天師は二人を見つめた。「そうだといいのだがな……」
窓の外では、夜明けの最初の光が空を染め始めていた。
◇
村の小さな宿屋の一室で、朝日が窓から差し込み始める中、四人は今後の対策を話し合っていた。
「金還たちは今どこにいるの?」|フォルトゥナは髪を耳にかけながら星座盤に尋ねた。普段は明るく活発だが、今は困った表情を浮かべている。
「私の占いによれば、彼らは北西へ向かったようです。まだ日数も経っていないし、遠くへは行けていない、と出ています」彼女は星座盤を見つめながら続けた。「まあ私の占い、いつも当たらないんですけどねー。もう溺れ死んでいるかもしれませんし」
萍鶴は筆を手に、何かを考え込んでいた。
「あの三人は魔星を外されても結局盗賊を続け、再び竜虎山に来た。魔星に惹かれるように戻ってきたのかもしれないわ」
「どういうことだ?」張応究が尋ねた。
「魔星は似た性質の宿主を好むの」|フォルトゥナが説明した。「だから、一度魔星に憑かれた者は、また同じ魔星に選ばれやすいわ。私も……!」彼女は少し言葉を詰まらせた。
「私たちも例外じゃないってことね」王萍鶴は自分の筆を見つめた。「前回も私は地文星、今回は地巧星……似た能力を持つ魔星に選ばれた」
張天師は二人を見つめ、「とにかく再び魔星が拡散しないように急がねばならん」と深刻に言った。
|フォルトゥナは立ち上がり、窓の外を見た。彼女の中で、天微星の力が静かに目覚めているのを感じる。かつて彼女を戦士に変えた力。その力を再び使うことに、彼女は複雑な思いを抱く。しかし。
「私……行きます!」|フォルトゥナは決意を固めた。「金還たちを追って、魔星を回収する」
「私も手伝うわ」王萍鶴も立ち上がった。「この筆の力が使えるなら、役に立つはず」
張天師は頷いた。「すまないな。せっかく終わったと思ったのに」
準備は迅速に進められた。張天師は二人に旅の用意として荷台の大きい馬車を与えた。
「竜虎山周囲の広域に、以前と同じ飢餓の結界を展開しておいた。これである程度拡散は防げたと思うが、その外が心配だ。水脈の延長線上を調査してくれ」
二人は頷き、最後の準備を整えた。|フォルトゥナは軽装の旅装束に身を包み、長柄の三尖両刃刀を持つ。萍鶴も旅装束になり、例の墨壺を腰に下げ、長くなった輝影を剣のように背中に背負う。
「長旅はするなよ。手がかりをつかんだら、ひとまず帰ってきてくれ」張応究が注意を与える。「他の魔星も水脈に流されているはず。金還たち以外にも、魔星に憑依された者がいるかもしれない。用心するように」
「了解」|フォルトゥナは頷いた。「何かあったら、すぐに戻ります」
「それでは、行ってまいります」
二人は馬車を駆り、北東へと進路を取った。朝日が完全に昇り、新しい一日が始まったところだった。
「まだ遠くには行ってないわ」|フォルトゥナは言った。「この分なら、数日中には追いつけるはず」
「何か作戦はある?」萍鶴が尋ねた。「三人とも魔星に憑かれているのよ。正面から戦うのは危険ね」
「そうね……!」|フォルトゥナは考え込んだ。「まずは彼らの様子を探るべきかな。魔星がどの程度彼らを支配しているか、見極める必要があるわ」
「それに、彼らが他の山賊と合流する前に止めないと」萍鶴は付け加えた。
道は険しく、二人だけの旅は容易ではなかった。しかし、二人の決意は固い。魔星を集め、再び封印しなければならない。そして何より、魔星の力を悪用する者たちを、もう二度と生み出さない。それが彼女たちの新たな使命だった。
空には不吉な雲が広がり、新たな戦いの予兆を感じさせる。しかし、その雲の合間から差し込む光のように、二人の姿は頼もしく輝いていた。