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第七十五回 魔星放流

 竜虎山りゅうこざんの深い森の中、仄かな月明かりが岩肌を青白く照らす夜。苔むした巨岩の間から、時折鈍い金属音が響いてくる。百年の歴史を誇る木々が密集する聖なる山のその片隅で、三人の男たちが地底を掘り進んでいた。


「おい金還きんかん、もう少しで社殿しゃでんの床下に届きそうだ」


 易角えきかくは額の汗を拭いながら、土に突き刺した鍬を引き抜いた。松明たいまつの明かりが彼の期待に満ちた顔を照らし出す。鍛え上げられた腕は力強く、盗掘の作業にも疲れを見せない。


「おう、そろそろ石の床に当たるはずだ。柔らかい地質だから計算より早かったな」


 金還きんかんは頷いた。彼は三人組の首領格で、盗みの経験が長い。


「財宝が手に入ったら、俺は酒屋を開くんだ」向景こうけいが言った。三人の中で最も年上だが、頭の回転が速く、機知に富んでいた。「美味い酒を飲みながら、悠々自適に暮らすのさ」


「俺は広い屋敷を買って、美女を囲うぞ」易角えきかくが笑いながら応じる。


 金還きんかんも笑顔を浮かべた。「山賊やってきて良かったな。この戦乱の世、お上は民を守らず、自分の身は自分で守るしかない。今度こそ大金持ちになって、安泰な暮らしだ」


 三人は長年連れ添った盗賊で、安史あんしの乱に乗じて各地を荒らし回っていたが、官軍の追討が厳しくなり、一時は運送屋をしていた。しかし、竜虎山りゅうこざんが難民を受け入れていると知り、今回の盗掘を計画したのだ。


「この伏魔殿ふくまでんは厳重に守られている。名前は物物しいが、財宝を隠しているに違いない。正面からは無理だから、地下から狙う」


 金還きんかんは十日前から作戦を実行していた。伏魔殿ふくまでんの周囲は昼夜問わず道士どうしたちが警備しているが、地下から忍び込めば発見されずに宝物を盗み出せるはずだった。


 三人は交代で地面を掘り進めた。夜が深まるにつれ、松明たいまつの火だけが彼らの姿を照らしている。誰にも気づかれないよう、音を立てないように慎重に作業を続ける。


 しかし、掘り進むうちに変化が現れた。


「水の音がする……!」向景こうけいが耳を澄ませた。


 確かに、地中から水の流れる音が聞こえてくる。最初は小さな音だったが、掘り進むにつれて次第に大きくなっていった。


地下水脈ちかすいみゃくか?」易角えきかくが尋ねた。


 金還きんかんは少し考え込み、「構わん、掘り進めろ。もうすぐ伏魔殿ふくまでんの床下だ」と言った。


 三人は力を尽くして作業を続ける。その甲斐あって、間もなく鍬が何か固いものに当たる音がした。


「おお! 何かに当たった!」


 金還きんかんは興奮して土を掻き分けた。現れたのは平らに削られた石の床。間違いなく伏魔殿ふくまでんの床下部分だった。


「やったぞ!」三人は喜びを分かち合った。


 しかしその喜びもつかの間、掘っていた穴から水が湧き出し始めた。最初は小さな湧き水だったが、徐々に勢いを増していく。


水脈すいみゃくに当たったか。このままでは穴が水没するぞ」易角えきかくが懸念を示す。


「急いで殿内に掘り進むんだ」金還きんかんは焦りを見せた。「宝はもう目の前だ、ここで引き返せるかよ!」


 三人は力を合わせて石の床を削るように掘る。鍬と鎚が石に当たる音が洞内に響く。


「もう少しだ!」


 その瞬間、地面が大きく揺れ始めた。


「なんだ?」


 三人が驚く間もなく、彼らが掘った穴が一気に崩れ落ち、水が勢いよく流れ込んだ。


 伏魔殿ふくまでんの床下には深く掘られた大きな穴があった。その中に百八星ひゃくはちせいは封印されていたのである。しかし今、その縦向きの穴に対して垂直に水脈すいみゃくが入り、新しい水流を作ってしまった。


「まずい!」金還きんかんが叫んだ。「あれは……!何かの封印だったのか?」


 三人が逃げようとした瞬間、大洪水が始まり、水流に流された。


「う、うわーっ!」


 溺れて意識を失いかけたとき、三人に光の塊が飛びこんだ。そしてそのまま三人は流れに連れ去られた。彼らの後ろでは、まだいくつかの光の塊が水脈すいみゃくに乗って流れ出ている。


 ◇



 竜虎山りゅうこざんから数里離れた村の外れ。小高い丘の上で、|フォルトゥナが静かに夜空を見上げていた。星占いの技に長けた彼女は、星の動きから異変を察知していた。


「えっ? い、今なにか起きてる?」


 |フォルトゥナは星座盤せいざばんに手を当てた。突然、強い不安感が彼女を襲う。そして次の瞬間、遠くから流れてきた光の塊のような存在が彼女に襲いかかった。


「な……これは……! 天微星てんびせい?」


 彼女は驚愕に目を見開いた。かつて彼女に憑依し、女将軍のような力を与えてくれた魔星ませい竜虎山りゅうこざんで封印されたはずの存在が、今再び彼女の体内に入り込もうとしている。


「まさか……! 封印が暴かれたの?」


 抵抗する間もなく、天微星てんびせいは|フォルトゥナの体内に入り込んだ。一瞬、彼女の体が宙に浮き、周囲に青白い光が広がる。そして再び地に足をつけた時、彼女の目には強い意志の光が宿っていた。


「また会えたな、|フォルトゥナ」天微星てんびせいの声が彼女の内側から響いた。


「あなたは……!」


「解放されたみたいだ。水脈すいみゃくに乗って、ここまで辿り着いた」


 |フォルトゥナは困惑した表情を浮かべた。彼女は以前、天微星てんびせいと共に激しい戦いを経験していた。その力は強大だが、同時に己の心を失いつつもあったのだ。


 |フォルトゥナはため息をついた。「金還きんかんたちね、きっと。盗掘したら捕まえようと思ってたけど、まさか封印を壊しちゃうなんて……!」





 同じ頃、村の宿屋で休んでいた王萍鶴おうへいかくも、同様の体験をしていた。突然、彼女の筆「輝影きえい」が異様な輝きを放ち始めた。


「これは……!」


 筆に手を伸ばした瞬間、光の塊のような存在が現れた。


地文星ちぶんせい? まさか……!」


 王萍鶴おうへいかくは驚愕した。しかし、魔星ませいは少し様子が違う。


「ち、地文星ちぶんせいは最後にたくさん力を預けてしまったんでまだ寝てるっス。自分は地巧星ちこうせいっス。じ、自分、一度その筆にも入ってみたくて……」


 かつて地巧星ちこうせい顔真卿がんしんけいの筆に憑依し、飛墨顕字象ひぼくけんじしょうと同じ能力『墨痕来ぼっこんらい』を発揮していた。萍鶴へいかくは真剣な顔になる。


伏魔殿ふくまでんに何かあったのね……。ならば、地巧星ちこうせいの力は必要になるかもしれないわ」


 萍鶴へいかくは覚悟を決める。地巧星ちこうせい輝影きえいに入らせた。輝影きえいの軸が剣ほどの長さに伸びる。萍鶴へいかくは急いで支度をして、張天師ちょうてんしの元へ走った。



 ◇



 上清宮じょうせいぐうでは、すでに異変に気づいていた。


伏魔殿ふくまでんが! 水没している!」


 報せを受けて駆けつけた張天師ちょうてんしが、現場を見て叫んだ。伏魔殿ふくまでんのあった一帯が、一本の河になってしまっていた。


「父上、何が起きたのですか?」


「どこかの水脈すいみゃくが氾濫した。魔星ませいが放流されてしまうぞ!」


 張天師ちょうてんしは河に飛び込もうとした。ものすごい勢いの流れに向かう父を、応究おうきゅうが必死に抱き止める。


「落ち着いてください。この水流なら魔星ませいも抗えません。下流へ向かいましょう」


 二人は馬に乗り、水の流れる先へと急いだ。


 夜明け前、二人は盆地ぼんちの村へと到着した。そこには|フォルトゥナと王萍鶴おうへいかくが待っていた。二人の様子を見て、張天師ちょうてんしはすぐに気づいた。


「すでに……魔星ませいが憑いたか」


 |フォルトゥナと萍鶴へいかくは沈痛な面持ちで頷く。


 四人は宿の一室に集まり、状況を確認した。|フォルトゥナが先ほどの伏魔殿ふくまでんでの状況を説明する。


「どうやら盗掘者たちが伏魔殿ふくまでんの床下から侵入を試み、水脈すいみゃくと封印の間に通路を作ってしまったようです」


「まずいですね」萍鶴へいかくは筆を見つめながら眉をひそめた。「あの三人は元々盗賊。魔星ませいの力を得れば、また悪事を働くでしょう」


 張応究ちょうおうきゅうが口を開いた。「しかし、父上。|フォルトゥナと萍鶴へいかくにも再び魔星ませいが来ました。魔星ませいは、我々から逃げたい者ばかりではなさそうですよ」


 張天師ちょうてんしは二人を見つめた。「そうだといいのだがな……」


 窓の外では、夜明けの最初の光が空を染め始めていた。



 ◇



 村の小さな宿屋の一室で、朝日が窓から差し込み始める中、四人は今後の対策を話し合っていた。


金還きんかんたちは今どこにいるの?」|フォルトゥナは髪を耳にかけながら星座盤せいざばんに尋ねた。普段は明るく活発だが、今は困った表情を浮かべている。


「私の占いによれば、彼らは北西へ向かったようです。まだ日数も経っていないし、遠くへは行けていない、と出ています」彼女は星座盤せいざばんを見つめながら続けた。「まあ私の占い、いつも当たらないんですけどねー。もう溺れ死んでいるかもしれませんし」


 萍鶴へいかくは筆を手に、何かを考え込んでいた。


「あの三人は魔星ませいを外されても結局盗賊を続け、再び竜虎山りゅうこざんに来た。魔星ませいに惹かれるように戻ってきたのかもしれないわ」


「どういうことだ?」張応究ちょうおうきゅうが尋ねた。


魔星ませいは似た性質の宿主を好むの」|フォルトゥナが説明した。「だから、一度魔星ませいに憑かれた者は、また同じ魔星ませいに選ばれやすいわ。私も……!」彼女は少し言葉を詰まらせた。


「私たちも例外じゃないってことね」王萍鶴おうへいかくは自分の筆を見つめた。「前回も私は地文星ちぶんせい、今回は地巧星ちこうせい……似た能力を持つ魔星ませいに選ばれた」


 張天師ちょうてんしは二人を見つめ、「とにかく再び魔星ませいが拡散しないように急がねばならん」と深刻に言った。


 |フォルトゥナは立ち上がり、窓の外を見た。彼女の中で、天微星てんびせいの力が静かに目覚めているのを感じる。かつて彼女を戦士に変えた力。その力を再び使うことに、彼女は複雑な思いを抱く。しかし。


「私……行きます!」|フォルトゥナは決意を固めた。「金還きんかんたちを追って、魔星ませいを回収する」


「私も手伝うわ」王萍鶴おうへいかくも立ち上がった。「この筆の力が使えるなら、役に立つはず」


 張天師ちょうてんしは頷いた。「すまないな。せっかく終わったと思ったのに」





 準備は迅速に進められた。張天師ちょうてんしは二人に旅の用意として荷台の大きい馬車を与えた。


竜虎山りゅうこざん周囲の広域に、以前と同じ飢餓きが結界けっかいを展開しておいた。これである程度拡散は防げたと思うが、その外が心配だ。水脈すいみゃくの延長線上を調査してくれ」


 二人は頷き、最後の準備を整えた。|フォルトゥナは軽装の旅装束に身を包み、長柄の三尖両刃刀さんせんりょうじんとうを持つ。萍鶴へいかくも旅装束になり、例の墨壺すみつぼを腰に下げ、長くなった輝影きえいを剣のように背中に背負う。


「長旅はするなよ。手がかりをつかんだら、ひとまず帰ってきてくれ」張応究ちょうおうきゅうが注意を与える。「他の魔星ませい水脈すいみゃくに流されているはず。金還きんかんたち以外にも、魔星ませいに憑依された者がいるかもしれない。用心するように」


「了解」|フォルトゥナは頷いた。「何かあったら、すぐに戻ります」


「それでは、行ってまいります」


 二人は馬車を駆り、北東へと進路を取った。朝日が完全に昇り、新しい一日が始まったところだった。





「まだ遠くには行ってないわ」|フォルトゥナは言った。「この分なら、数日中には追いつけるはず」


「何か作戦はある?」萍鶴へいかくが尋ねた。「三人とも魔星ませいに憑かれているのよ。正面から戦うのは危険ね」


「そうね……!」|フォルトゥナは考え込んだ。「まずは彼らの様子を探るべきかな。魔星ませいがどの程度彼らを支配しているか、見極める必要があるわ」


「それに、彼らが他の山賊と合流する前に止めないと」萍鶴へいかくは付け加えた。


 道は険しく、二人だけの旅は容易ではなかった。しかし、二人の決意は固い。魔星ませいを集め、再び封印しなければならない。そして何より、魔星ませいの力を悪用する者たちを、もう二度と生み出さない。それが彼女たちの新たな使命だった。


 空には不吉な雲が広がり、新たな戦いの予兆を感じさせる。しかし、その雲の合間から差し込む光のように、二人の姿は頼もしく輝いていた。

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