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32 初冬の微かな異変

 その日、昼食が終わった後、アルマとテオファネスは久しく湖畔に来ていた。


 すっかり初冬だ。紅葉も終え、湖畔に続く菩提樹並木には落ち葉の絨毯が広がっており、二人はそれを踏みながら歩んでいた。


 彼が子どもたちに勉強を教えるようになってからは、ろくに外に出なくなっていたのだ。

 寝る前に絵を描いている事もあるが、外での写生は本当に久しい。

 しかし、久しぶりの二人の時間は妙に静かに感じてしまった。そう感じたのはテオファネスも同様だろう。彼は「何だか静かだな」なんて軽い笑い、アルマの歩調に合わせてゆったりと歩む。


「そうだね。というか、子どもたちの授業を初めてもう一ヶ月も経つものね。夜もテオの部屋に子どもたちが押しかけてるし」


 ──ねぇ、テオ先生? なんて、戯けて言ってやれば、彼はかぁっと頬を赤らめる。


「アルマにそう呼ばれるのは恥ずかしい」

 そうと呟くと、居心地が悪そうに、薄い唇をモゴモゴと動かした。


「そう? でも本当に色んな呼ばれ方してるよね。私がテオって呼ぶでしょ」


 ……それからテオ先生に、エーファの言うお兄さん。指折り数えていくと、彼は照れたままの顔を向ける。


「事実、俺は兄だったんだし、エーファの言い方はさして不自然に感じないけど。〝先生〟って呼ばれるのはまだ慣れないな。でもアルマに〝先生〟って呼ばれると、気恥ずかしいのもあるけど妙に距離感を覚える。いつものがいい……」


「ふぅん……」


 ……距離感を覚えるから。そう言われるとは心が仄かに温かくなる。


 なんだか、自分があたかも特別なような錯覚を覚えてしまう。

 思えば、この略称だけで呼ぶのは自分だけ。エーデルヴァイスにおいては、ゲルダとアデリナが〝テオファネスさん〟と呼び、カトリナ・イリーネ・ユリアの三人に関しては子供たち同様に〝テオ先生〟と呼んでいる。


「……で、自分で語った〝迷える機甲マキナ〟は?」


 アルマがけば、彼は更に頬を赤々と染めてそっぽを向く。


「あれは、ノリと思いつきだって。でもしっくり来るから良いだろうなとは」


 確かにしっくり来るし、語感も良い。


「うーん。赦しの花を守る、迷える機甲マキナねぇ……」


 あの晩の言葉を思い出しつつ、口にすると「頼むからもうやめてくれ!」と、今にも泣きそうな顔で叫ばれてしまった。


 ……本当に弄り甲斐がある。

 だが、あまりおちょくるのは良くないだろう。


 それでも分かるのはただ一つ。彼は芸術的だからこんなに詩的な言葉が浮かぶのだ。

 そんな素敵な言葉が浮かぶのは素晴らしい事に違いない。

「でも格好良いじゃない」なんてアルマは笑むが、彼は恥ずかしいのか真っ赤になって、それ以上は何も応えなかった。


 そうして湖畔に着くこと幾何か。テオファネスは以前と同じように絵を描き始めた。


 かなり寒くなってきたが、それでも水鳥は優雅に水面に浮かんでいる。


 恐らくあと二週間ほどで初雪が降るだろう。

 霊峰を間近に望むこの地の冬は長く厳しい。雪が残るのは長く、四月中頃まで銀色の世界に閉ざされる。また外で絵を描けるようになるのは来年の初夏頃になるだろう。


 ……果たして、その頃まで大戦は続いているのだろうか。

 アルマは漠然と思った。


 恐らく敗戦する。と、以前彼は言っていたが、いまだに戦況は入ってこない。


 しかし、あの騒動の日に懺悔に来た婦人の事を思い返すと〝無敵三帝国〟という言葉は民たちの間で半信半疑になり始めたのではないのかと思えた。


 それに〝休暇が出来たら必ず来る〟とカサンドラは当初言っていたが、かれこれ半年近くが経過しようとしているのに、彼女が来た試しは一度も無い。


 技術者が果たしてどんな仕事をしているのかなんて分からないが、それでもきっと多忙な日々を送っており、それどころでは無いのだろうとは想像できる。


 ────それでも、手紙の一通くらいテオに送っても良いのにね。 


 心配ではないのだろうか。そう、思った最中だった。バサリと何かが落ちる音がした。

 視線を向けると、スケッチブックが地面に落ちていた。

 その途端だった。隣に掛けた彼が痛みに耐えるような押し殺した声を出したのである。


 何事か……。


 彼に目を向ければ、テオファネスは胸元を掴んで歯を食いしばっていた。肌寒い筈だが、玉のような汗が浮かび、ツゥとおとがいを伝いハタハタと下衣に落ちて染みを広げる。


「ちょっと、テオ?」


 呼びかけて間もなく、彼は苦笑いを浮かべてアルマの方を向く。


「……こんな身体だから、稀に節々が痛む事があってさ」


 ごめん、大丈夫だから。と、軽く笑いつつ彼は付け添える。

 しかし、半年居てそんな場面は一度も見た事も無い。どうして良いか分からずアルマは、彼の背を摩る。


 そうして、幾何かして少し落ちついたのか「もう大丈夫」と彼は穏やかに言った。

 だが、顔色があまり良くない。顔面は蒼白としており、人と変わらぬ右目の強膜が赤々と充血していた。


「それって結構よくあるの?」

「稀に。でも大丈夫。いつもの事だし」 


 慣れていると彼は言うが、それでも気がかりだった。

「本当に大丈夫なの……」今一度聞くと、彼は何も答えず黙って頷いた。


  ※


 寿命は、その身体となってから二年程度。

 一年に一度や二度、硬く冷たいものが身体の中をギシギシと食い潰す痛みを感じる事はあるが、これを更に鮮烈な痛みにしたものが秋の中頃から起き始めた。


 始まりは双子騒動の数日後。その後は週に二度、頻度は増え続け、今では毎日のように起きるのだ。


 これが決まって起きるのは夜ばかり。日中に起きる事など今まで無かったので、流石にテオファネスは取り繕い方に困った。


 そう、これが終わりに近付く合図である。


 散々似たような傾向を見て来たのだ。ある者は、それから一ヶ月。ある者は一週間……各々差はあるが、大抵こうなるともう終わりは近い。


 しかし果たしていつまで持つか……。


 湖畔での出来事をはんすうしつつ、ベッドの上に横になった彼は、天井をぼんやりと見上げた。


 ────終わりは必ず一人で。最後に人らしい恋が出来て良かった。アルマの分かる言葉で想いを伝える事はできないけれど、それでも充分に幸せすぎた。


 心で独りごちて、彼はベッドから起き上がりカーテンを僅かに開けた。


 曇り空で星の一つも見えやしない。それでも瞼を伏せれば、夏の夜に連れ出されて見た、満天が脳裏に浮かびあがった。


「俺、上手に終わらせるよ。……なぁ、みんな。もう少しだけ待っててくれ」


 ──でも、お願いだ。できるだけほんの少しでも時間が欲しい。


 小さく呟いて、テオファネスは首に提げた認識票をぎゅっと握りしめた。

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