──その日の夕食後、テオファネスはひどく眠たそうだった。
眠いのなら眠れる時にしっかりと寝た方が良い。それに昼間の件で少しばかり気まずさを感じて、アルマは彼が寝付いたのを確認すると、すぐに彼の部屋から出た。
そうしてアルマも宿舎に戻り、湯浴みを済ませてからゆったりとその日を振り返りつつ、いつものように日記を綴った。
何度思い返しても昼間の件は酷く恥ずかい。
本当にテオファネスらしくなかったかのように思う。
誰かがこの日記を読む訳でないが、鮮明に書き残すのも恥ずかしい。それよりも、あまり彼の状態が改善されないが気がかりだ。果たしてどうすれば良いか……。
いつも通り当たり障りの無い事を綴り終えた頃、丁度消灯時間を迎えてしまった。
それからベッドに入るものの、やはり今日の出来事を思い出してしまい、寝付けそうになかった。
……手の甲に口付けをされた。
しかし思い返せば、彼に口付けされたのは初めてではない。以前双子の投げた石が当たって怪我した時に額にキスをされた事もあった。
だが、ただの友人関係の男女は普通そんな事をしない。
けれど、出会えて良かったとは……。
軽々しく口にするような言葉ではない。一つ一つ彼を思い出し、
────同じ気持ちなのかな。テオも私の事、好きなのかな。
しかし、どう考えても、この思いは永遠にできない事をアルマは直ぐに悟った。
戦争が終われば、彼は亡命する。亡命先は隣国フェルゼン公国とは見当が付くが……。
隣国とはいえ、離れてしまえば二度と関わる事も無い。
────戦争も無い世界で、彼が
育つなと願った想いは、膨らんだ挙げ句に破裂した。
ただの情は愛情に変わり果ててしまったのだ。間違いなく手遅れだ。だからこそ、彼が衰弱する程に不安に思い彼の抱える全ての苦しみから救いたいと思った。
しかし、エーデルヴァイスでいる以上、恋は禁忌。想いなんて言えやしない。きっと優しい彼の事だ。想いを伝えれば、きっと聞いてくれるだろう。だが……自分たちの未来がひとつも見えないのだ。そう、永遠なんて無かった。
────だめだ。考えすぎると、泣きそう。
瞼を固く閉ざしたアルマは、ベッドの中で膝を抱えて丸まった。
---
そうして幾何か。宿舎の一階に置かれた柱時計が一つ鐘を打った。もう二時間も経過してしまった。ぼんやりとそんな事を思って、寝返りを打った時だった。さくさくと雪を踏みしめる音が外から僅かに聞こえたのだ。
修道女の見回りにしては遅すぎる。不審者でも踏み入ったか。或いはこんな真夜中に懺悔に来た人でもいるのか。
何事か。と、アルマはベッドから起き上がり、怖々とカーテンを捲って窓の外を眺める。
雪明かりで外はいやに明るかった。その所為もあって、直ぐに歩行者の姿が見えるが、その姿を確認してアルマの表情はたちまち強ばった。
縦に長細いシルエット。その頭頂部は銀色。薄水色の患者衣──と、随分寒々しい装いの男が湖に向かって歩いていたのだから。
間違いなくテオファネスだ。
彼は、これまで無断外出なんてしていない。それに今現在体調が酷く悪い筈。なのに、なぜに……。
「テオ……」
アルマはすぐに
なぜに、どうして、何のつもりで……。
考えた所で分からない。アルマは宿舎のドアを荒々しく閉めて、彼の後を追い掛けた。
しかし既にそこに彼の姿は無い。それでも雪の上に足跡が残っているので簡単に後を追うことができる。
相当おぼつかない足取りだろう。足跡は酷く横にぶれており、今にも倒れそうな事は目に見て取れる。
そうして追うこと間もなく──湖畔に辿り着いた。
薄く凍り付いた水面の上には白々とした雪が降り積もっており、まるで世の果て──白一色の極冬の夜景が広がっている。
頬を
「何してるの!」
雪に足を取られつつもアルマが彼に近付こうとするが……「来るな!」と、テオファネスはいつになく荒々しい口調で言い放つ。
「……何してるの馬鹿! 早く戻りなさい!」
アルマが叫び近付いた途端だった。
彼の背から夥しい影が噴き出した。それは無数の手の形を作り出し、彼の首に全てが絡みつく。
「ダメだ。お願いだ……アルマ、帰ってくれ。こんな情けない所、見られたくない」
そう告げた彼はゆったりとアルマの方を向く。その顔を見て、アルマはゾッとしてしまった。
──双眸は強膜が黒く濁った機械仕掛けのものに変わり果てていた。菫色の瞳は煌々と妖しく光り、ひどく瞳孔を収縮させている事が少し離れてもよく分かる。
「テオ、その目……」
「ダメなんだ。俺、治らないんだこれ。言えなかった。ごめんアルマ」
「何、言ってるの……」
全くもって彼の言わんとしている事の意図が理解出来ない。
しかし治らないとは……それを知っていたとは。不穏に思ってアルマは唇を震わせる。
「俺、余生をここで穏やかに過ごす為にここに連れられて来られた。
だから万が一の為、
「ここには湖がある。俺の身体は水に浮かない。暴れる前に簡単に溺死出来る。寿命を迎えた俺達の死骸はただの鉄屑だ。原形も分からないほどに醜い異形になる。水底に沈めば間違いなく誰にもバレない」
俯き続けて告げた彼の声が酷く震えている様から泣いている事が分かった。
だが、テオファネスの言葉でアルマはカサンドラの対応が直ぐに結び付いてしまった。
そうか。だから何も言わなかったのかと。それは頭では理解できるが、心では納得出来る筈も無い。
「なんで、どうして……そんな事!」
──なぜ隠したのか。あまりに惨いではないかとアルマは
「お願いだ、アルマ。別れが辛い、死ぬのだって本当は怖い。でもかっこ悪いとこ見せたくない」
一人にさせてくれ。と、言うなり彼はよろよろと湖に歩を進める。
「ふざけないでよ! 何が、ありがとうよ! 出会えて良かったよ! 勝手な事ばっか言って……! みんな、みんな私の気持ちなんて何にも考えてなかったんだ!」
こんなのあんまりだ。最低だ。アルマは彼に近付き怒り叫ぶ。先程の寒さが嘘のように顔が熱かった。視界は滲み、彼の姿だって
「酷いよ! どうして! テオの馬鹿! なんで隠してきたのよ! なんで、酷いよ……」
嫌だ。嫌だと首を横に振り乱し、アルマは
さも自分は平気だという風に、〝来年の十二月に居たら〟に答えてくれた。きっと良くなる、大したこと無いと言った筈だ。
──嘘吐き! と、アルマが歪んだ彼の背に叫んで数拍後──振り向いた彼に腕を引かれた。かと思えば包み込まれるような冷ややかな感触に包まれた。
抱きしめられた事は直ぐに分かる。しかし、こんな事をするなんて益々狡い。やめてとアルマは暴れ藻掻くが、彼は更に力を強めてしなる程きつく抱き寄せた。
「……俺だって生きてたいよ。アルマともっと一緒に居たいよ」
今にも消えそうな震えた声でテオファネスはそう告げた。
その
彼の影を見るのは二度目だ。
他者に向けてくるなど、初め見た時は恐ろしく凶暴なものとは思ったが……今まじまじと見ると、決して怖く無かった。
まるで涙を拭うように、
……今こそ彼に赦しの力を使えるのではないのか。
アルマは直ぐに思った。
しかし、今は一人だ。一人で彼の心に潜るのは危険だろう。
それに、彼を救える保証なんてどこにも無い。
それでも、何もしないよりもマシなように思えてしまった。
「……テオ、お願い。もう少しだけ頑張って。お願い、少し私の話を聞いてほしい。お願い、お願いだから私に従って……」
嗚咽を溢しつつアルマが告げると、アルマを腕に閉じ込めたまま、テオファネスはゆったりと頷いた。
「……テオ、目を瞑って欲しいの」
そう告げて数拍後──「テオの心の中に入る隙を与えて」とアルマは祈るように囁いた。
その途端、アルマの意識はゆったりと離れていった。