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38 深層から

 まるで冷たく暗い水の中にいるかのよう。アルマが意識を戻すと、視界いっぱい濃紺の世界だった。


 だが、その奥底は深淵でも見るかのように酷く暗い。


 エーデルヴァイスの力を発現させてから、人の心の中に何度か潜り込んだが、こうも冷たく暗い世界は初めてだった。


 文面でしか知らないが、まるで深海のようだとアルマは思った。


 やがて、金に光るものが泳ぐように近付いてくる。見るからに魚の形をしている。

 しかし、それが横切った瞬間──アルマの視界は切り替わった。 


 見渡す限り、青と白で統一された美しい町並みだった。

 白の壁面にはびっしりと蔦が張っており、濃い桃色の花が咲き乱れる異国情緒があふれる街だった。


 遠くまで広がる広大な湖があるが……少しばかり塩辛い匂いがする。あれが、海だろうか。


 アルマはその風景を一望するが、直ぐに視点は切り替わり、手元のスケッチブックへと移った。


 そこには、海の見える町並みが細やかに描き込まれていた。今の彼の絵ほど上手ではないが、それでも細やかな表現でやはり彼の絵だと分かる。


(ここって……)


 話に聞いた町並みや海の景色が合致する。

 間違いなく、彼の生まれ故郷だろう。つまり、これはかつての彼の視点。なんとも美しい場所だとアルマが感嘆するのも束の間、スピラス語で話す少女の声が背後から響いた。


 その声に彼は振り向く。そこには、お揃いの帽子と白いワンピースを纏った少女が二人立っていた。銀の髪に菫色の瞳……と、テオファネスと同じ色彩をした幼い女の子たちだった。


 一人は、十歳を過ぎたほど。少しつり目がちな部分は彼に似ているだろう。どこか活発な印象の女の子だった。もう一人は、未だよちよち歩きの幼児で……。


 何を話しているかは、少しスピラス語を教わっただけのアルマでは分からない。


 それでも幾らか単語を拾う事が出来る。

「お兄ちゃん」「絵」「描く」しかし否定系。

 ……繋ぎ合わせれば〝絵ばかり描いていないで〟だろうか。


 そして続いて拾えたのは、「次」「侯爵」との単語が。

 アルマは目を瞠る。

 繋ぎ合わせれば、次期侯爵。


 ……国は違えど、貴族階級としては概念が同じであれば第二位に位置する。家庭教師の話といい、所作から育ちが良さそうだの、高貴な印象を覚えたのも妙に納得する。

 だが、次の瞬間だった。

 少女たちの和やかな笑い声はぼやけるように消え失せ、視点は変わり、美しい筈の景観が炎に掻き消されていった。


 たちまち感じたのは薬品臭さだった。真っ暗な室内の鉄格子は酷く歪んで見えた。やがて、啜り泣く彼の声が僅かに聞こえてくる。


 ぼやけて映るのはテオファネス・メルクーリと彼の名が刻まれた認識票だ。その上にぽたぽたと雫が落ち、彼はまたもスピラス語で何かを言う。だが、これだけはアルマも理解できた。


『お父さん、お母さん』

『死にたくない』

 彼は震えた声でそう言った。


 ──視点はどんどんと切り替わる。

 人の体温を察知する機械の瞳から見えた世界。

 砲弾の音に男たちの怒声や悲鳴。


 目をらし、耳を塞ぎたくなるような悲惨な戦場の有様。それを幾度も幾度も繰り返した後、カサンドラ准士官の声がぼんやりと聞こえた。


「……通常であれば、長くて三年程度。五年以上の稼働はどう考えても異常だ。つまり、いつ寿命の兆候が来てもおかしくない。処分理由はその寿命を危惧してらしい。そこで私の勝手なエゴだが、人と何ら変わらぬ君に幸せに余生を過ごして欲しく思うんだ」


 ──逃げる気はないかい? そうかれて、彼は戸惑いつつも頷いた。


 そうしてようやく、アルマも知る景色が見えてきた。


 真っ白な万年雪を乗せた霊峰ザルツ・ザフィーアだ。初夏のザフィーア修道院の早朝。鐘の音が鳴り響き、暫くすると何かがぶつかる軽い衝撃を背で感じた。


「痛った……」と、呟いた声は間違いなく自分のもの。


 やがて映し出されたのは、ぼさぼさの三つ編みの自分。間違いなく初対面のあの時だとアルマは直ぐに理解した。


「……俺の身体、硬いから痛かったね。怪我してない?」

「どーも、その三つ編みおさげが朝から気になって」


 次々に響く言葉は、全て聞き覚えのあるものばかり。そして、修道院での過ごし方においての説明を受けた後に彼の視点は切り替わる。


「本当にそれで俺は本当に救われるの。人間に戻れるの?」


〝────俺が死ぬ時は、人として死ねるの? 天国に行く救いってあるのかな〟


 彼が心の中で呟いた言葉が聞こえて、アルマはハッと目をみはる。


「本当にそうなの? それでさんくさい力が使えるならさ、万が一俺を救えず今の言葉を裏切った時に君の純潔を奪うかも知れないよ」


〝────君が本当に天使なら、俺の事本当に救ってくれるかな。でもさ俺、君に危害を与えて命を脅かす可能性があるんだ。君、無関係じゃん、俺そんなの嫌だな〟


 言葉の裏に隠れた本心が浮き立ち、アルマ目をみはる。

 相手を分析し挑発する……。特性を発揮している最中の彼は〝全く別の言葉〟を心の中で言っていたのだ。


 こんなの気付く筈も無い。分かる筈も無い。


「どうしてテオ……なんで本当に思った事を言わなかったの。後で伝えたっていいのに、どうしてよ……」


 アルマがそう呟いたと同時だった。


「……言って良い本心と、言ったらダメな本心ってあると思う。だって、そんなの言ったらアルマは怒るだろ。面倒な役目を押しつけられてさ。もっと嫌な気持ちにさせるだろ」


 どこからかテオファネスの声が聞こえた。


「テオ!」


 どこなのか分からない。アルマは辺りを見渡すと再び群青の世界に戻される。頭上には先程過った金の魚の群れがふわふわと泳いでいる。人によって形は違うが、あれが彼の記憶の欠片なのだろう。


「テオ、どこにいるの!」


 叫んだ途端だった。

 ふと視線を下に向ければ、数多の影の手が見えた。あの先に間違いなくテオファネスはいる。アルマは、更に深く深くへと沈んでいった。


 またも金の魚の群れは過ぎ去り、やがて聞こえ始めたのは彼の心に留めた心の数々だった。


 スピラス語で何を言っているのか分からぬ言葉も多い。それでも「嬉しい」「ありがとう」など様々な暖かな感謝の言葉が分かる。


 それからやがて見え始めたのは、星空だった。それを背景に悪戯気な笑顔を浮かべて笑う自分がいる。

 そんな自分に彼はスピラス語で何か言った直後だった。


〝────そんなに優しくて、可愛い笑顔を向けられたら、俺……アルマを女の子として好きになりそう〟


 恥ずかしそうに、それでも優しく告げる彼の声が響き渡たる。


 しかし、当の本人は「アルマありがとうって言っただけ」と照れ臭そうに言ってみせる。


「え……」


 アルマは思考が止まる。

 まさか、そんな言葉を言っていたなんて思いもしない。


 そして、自分に対して語る彼の心の声はどれも温かだった。


 ……まったく可愛いな。

 好きだよ。

 ずっと傍にいたい。生きていたい。


 アルマ、愛してる。


 確かに響いた言葉に、アルマはテオファネスの名を叫んだ。


「──私だって、私だって貴方が好きよ!」


 その途端だった。強く抱き寄せられる感触がしてアルマが目をみはると、彼の腕の中にいた。


 心の深層にいた彼は、普段とは違う姿だった。その双眸は人間のもの。吊り上がった瞳の菫色は濁り無く澄んでおり、腕も金属に侵食されていない。


 そう、機甲マキナでなく……人間そのものの姿をしていた。

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