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「テオ、こんなの嫌……」
アルマが最後に呟いた言葉は呂律が回っていない所為か酷く幼く聞こえた。
やがて、彼女の胸が上下し穏やかな寝息が聞こえ始めてテオファネスは優しく彼女を抱え上げて干し草のベッドに丁重に寝かせた。
『眠れなくて不安で堪らない時にだけ飲みなさい』そう言ってカサンドラにこの薬を渡されたのは二年近く前の現役の頃。
胸ポケットから取り出した空袋を見つめて、テオファネスは菫色の瞳を細めた。
修道院に来た時、持ち物検査はされなかった。その時点で非常にずさんだとは思っていたが、お守りのように隠し持っていたコレがこんな事で役に立つなど思いもしなかった。
しかし、シュタール軍が最後のひととき寄越すなど詰めの甘い部分があった事にテオファネスは内心で感謝した。
だが、死んだ筈の
そんな死屍累々の戦線に彼女が立つ姿を想像したら身の毛がよだつ思いだった。否、即刻慰みにされる胸くその悪い想像だってできるもので。だからこそ急速な判断だった。
先程淹れたカモマイルのお茶にこの粉薬を隠し入れたのである。
無味無臭。それも即効性があり、酷い不眠症を抱えていた自分でも一時間後には気を失うように眠ってしまう代物だ。
それもカサンドラ曰く、人体にさして影響は無い。強いて言うなら、眠りが深くなり、常人ならば丸一日は眠ったまま。余程の外部刺激が無ければ起きやしない。
────起きたらアルマは凄い怒りそうだけど、こればっかは仕方ないよな。アルマの父さんと母さんやデニスには薬で無理矢理眠らせた事だけは謝らないと。
そうしてテオファネスは眠るアルマの髪を優しく撫でて額に口付けを落とした後、スケッチブックを手に取った。
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翌朝。六時にテオファネスが納屋のドアを自ら開けると、そこには既にアルマの父と弟の姿があった。
「おはようございます。あの、本当すいませんでした昨日、娘さんの事……」
昨晩も夕飯を届けに来たデニスに言って彼女の父親を呼んだ時に同じ事を謝った。
その時と言えば、いきなり拳でぶん殴られたが、今朝に至っては彼女の父はどこか複雑な表情を浮かべている。
すみません。と、今一度テオファネスが詫びれば、アルマと同じ
「それはもう良い。
──だが、お前は本当にそれで良かったのか? と
「他にアルマを守る手段なんて無いので俺は構いません。俺が生きていた事で蒔いた種です」
はっきりと言えば、アルマの父は眉間に深く皺を寄せて俯いた。
「……そんな事は言ってやるな。お前の親御さんの存命であろうがなかろうが、どんな姿であれお前が生きている事は嬉しいと思う。親ってそういうもんだ。だから親の視点だけは絶対に忘れてくれるな」
分かったな。とアルマの父はテオファネスの肩を叩きつつ静かに言う。特に言葉も見当たらずテオファネスはただ頷いた。
「本当にすまない。娘を守ってくれてありがとうテオファネス」
初めて彼女の父から名前で呼ばれた事に驚いた。テオファネスは目を丸くするものの、すぐに微笑み、二人に深々と頭を下げた。
そして見送る二人に向かい、シュタール式の敬礼すると、その場を去った。
そうして歩む事幾何か。テオファネスは一人修道院に辿り着く。ピタリと閉じた礼拝堂の扉は酷く物々しく思えてしまう。
そこでテオファネスは久しぶりに〝目〟を使った。
建物の先にいる人物、配置くらいまだ掴めるだろう。
そう思って、使って見るが、前より解像度が落ちているが、それでも状況が掴めてくる。
──壇上に少女たちが六人。その周りにいる軍人の数は四人。壁越しから見えたものにテオファネスは目を細める。
そして、言わんこっちゃない。丸腰に見せかけてやはり軍人たちは皆、銃器や小型のナイフをコートの内側に潜ませている。
それを把握して、テオファネスはため息を吐きつつ、礼拝堂の扉を開いた。
その瞬間だった。
軍人たちは隠し持っていた得物を出し、それらを一斉にテオファネスに向ける。無抵抗を示す両手を上げると間もなく、壇上に居た軍人たちはわらわらとテオファネスに詰め寄り、あっという間に後手で拘束した。
「やはり生きておったか。あの娘は?」
ニヤニヤと笑みつつ近付く隻眼の男は見覚えがある。シュタール軍、尉官職最上位オットー大尉だ。
短期戦線の指揮を執るこの男は、血も涙も無い男と称されており、〝戦に犠牲は付きもの〟だのよく口にする。
「アルマは来ません。乙女を戦場に立たせるなど尋常でない。貴方が与えた猶予で俺は彼女の力を奪いました。彼女はもう貴方が欲する超常力は使えません。諦めてください」
断言した瞬間に頬に鈍い衝撃を覚え、乙女たちの悲鳴が劈いた。
いとも容易く暴力をふるう軍人に戦いた反面で、まるで信じられぬ事でも聞くような表情を誰もが貼り付けている。
院長に関しても、顔を青くして唇を震わせていた。
「馬鹿者このろくでなしが! ふざけるな!」
それでも尚、大尉が腕を振り上げるのでテオファネスは拘束を振り払い、振り落ちた拳をすぐさま捕らえた。
本当なら今ここで、軍人どもを蹴散らしたくて堪らないが……
テオファネスは鋭く、大尉を射貫く。
「……大尉殿。侵食率が落ちたとはいえ、
大言壮語も良い所だと、心の中で自嘲した。
それでも「どうか好きにお使い下さい」と告げれば、大尉は満足したのかニタリと卑しい笑みを浮かべ、テオファネスの胸ぐらを掴む。
「あぁ、気に入った。その言葉は
そう告げるとオットー大尉はテオファネスを突き飛ばした。
※
瞼を持ち上げると異常に暗かった。
寒さもなくぽかぽかと暖かいのは暖炉に火が入っているからだろう。その明かりのお陰で空間が薄ぼけて見えるが、宿舎の自室でない。生まれ育った家の自分の部屋だと分かる。
────テオは? 私、確か。あの時……。
記憶が途中で途絶えていた。何が起きたのかもいまいち良く分かっていない。
しかし、覚えている事は一つある。戦場に行かせぬ為に力を奪うと……。
だが、身体がどこも怠くない。それどころか、何時間もぐっすりと眠ったかのように芳しい体調だ。アルマは自分の掌を握りしめると、パチパチと青白い電流が迸った。
────純潔は奪われていない、どういう事?
果たしてどれくらい寝ていたのか。起き上がる最中、壁掛け時計に目をやると夜八時過ぎを示している事が分かった。
随分よく寝た気がするが、未だ数時間しか経過していない事に驚いた。急ぎアルマが部屋を飛び出せば、吹き抜けの下の階に居た皆が目を丸くしてアルマを見上げる。
そこに居たのは父母と弟、しかし、どういった訳か礼拝堂で人質にされたアデリナとエーファの姿があり……。
「アデリナ! エーファ! 無事だったの!」
彼女らを見るなりアルマは慌てて階段を駆け下りる。アデリナは即座に立ち上がり、アルマに駆け寄るとその身をきつく抱き寄せた。
「よかった起きた……でも、テオファネスさんが……」
そうだ。彼はどうしたのか。アルマが静かに問えば、アデリナはゆっくりと抱擁を解き、誰もが俯いてしまった。
「……姉ちゃんを守るんだって、テオさんは自らの意志で立派に出兵したよ」
暫くして、静かに切り出したのはデニスだった。
「……テオさんはどうしても姉ちゃんを守りたかった。だから隠し持っていた強い薬で姉ちゃんを眠らせたんだよ。でも、アデリナさんやエーファの話によると、テオさんは姉さんと関係を持って力を奪ったと軍人に嘘吐いた。それで、姉ちゃんを庇ったんだ」
それが今朝の話。今はもう夜だ。と言ってデニスは口を噤んだ。
信じがたい話だった。だが、自分にまだエーデルヴァイスの神秘の力がある事に合点がいく。
……否、こんな事実信じたくもなかった。
居ても立ってもいられず、アルマは夜着のまま急ぎ家を飛び出した。
背後からアデリナの叫ぶ声がするが、アルマは振り返らずに雑木林を目指して走る。
心臓がバクバクと脈を打ち、胸が苦しくて堪らなかった。何度も立ち止まって走るの繰り返し。ようやく納屋に辿り着き扉を開くが、中は侘しい程のがらんどうだった。
月明かりと雪明かりで中の輪郭がよく分かる。
スケッチブックに紙切れ。昨晩お茶を淹れたケトル……。テオファネスの居た形跡ははっきり残っているが、そこに彼の姿はないのだ。
「テオ……テオ……嘘だよね。どうして、酷いよ……私を置いていかないで」
干し草のベッドの上に置かれたスケッチブックを掴み上げ、胸元に抱き寄せるとアルマは