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49 穢れ無き故の覚悟の無さ

 本当にあの山を越えられるものか。

 自分がテオファネスと逃げたところで、エーデルヴァイスは皆本当に無事で居られるのか。

 院長と離れた後、アルマは一人とぼとぼと歩く程にまたも不安になってきた。


 そうして幾何か。雑木林の中の納屋に辿り着き、アルマは静かに引き戸を開く。

 突っかかるような音を立てて戸が開くと、干し草のベッドに腰掛けたテオファネスは少し驚いたような顔を向けた。しかし視線が交わった途端、彼は眉をひそめた。


「アルマ泣いてた……?」


 目が赤い。何があったのか。と、立ち上がった彼はアルマに近付き、ベッドに腰掛けるように促した。


「……大変な事になって。でも大丈夫、きっと大丈夫だから」


 腰掛けたアルマは、隣に座したテオファネスに精一杯笑んでみせるが、彼の表情は変わらない。


「何が起きた?」静かに尋ねるテオファネスにアルマは、事の全てを語り、今後の事を言う。二人、山を越えて亡命する旨を。


 しかし、全て語っても彼は何も口を開かない。不安に思って目をやるが、彼のそうごうを見た途端にアルマはゾッとしてしまった。


 俯いた彼のおもては、明らかに憤りを滲ませていた。こめかみ周辺には血管が浮き立っており、どこを睨んでいるのか……彼の目は更に吊り上がっていた。


「テオ……?」


 不安になって尋ねると彼は、アルマに怒りに歪んだ顔を向ける。


「軍人相手は嘘を平気でつく。丸腰に見えても、殺さないとは限らない」


 聞いた事も無い程に冷ややかな口調だった。奇妙に思ってアルマは眉をひそめる。


「教会に入っても帽子を脱ぎ、武装してない丸腰。かつての騎士道精神に基づく。確かに、見かけだけならそうだろう。だけど相手は軍人だ。相手を油断させる策略も立てる。小型拳銃や手榴弾を隠し持ってる可能性がある」


「でも……軍人は国や民を守る為に居て……あくまで口頭の脅しであって」


 アルマが言うが彼がすぐに首を横に振る。


「アルマ。知ってるか? 軍人は不都合や反逆と見なせば女や子どもでも、自分たちが守る国民だろうと殺すんだよ。軍人ってもんは、防空壕で泣きわめく赤ん坊を母親から取り上げて平気で殺すんだよ」


 ……煩いと柔らかな喉をナイフで裂いた。その後の母親の慟哭が煩わしくて、無表情で頭を撃ち抜いたと。

 まるで見てきたものを言っているかのようだった。

 しかし、そんなのは信じられなくて……。


「嘘よ。そんな……」

「事実だ。戦争中の軍人なんか尋常じゃ無いんだよ。立場が上になるほど尚更だ。あいつらは人間の皮を被った悪魔だ。欲しいものは力ずくでも手に入れ、戦果を上げようと必死になる」


 彼の言葉は重く、静かだった。そして、だめだと。彼は首を振る。


「本当なの、ねぇそれって。本当にそうなの……軍人さんも同じ人間なんじゃ……」


 しかし、テオファネスは首を振る。


「同じ〝人間〟が俺の故郷を滅ぼした! 家族を引き裂いた! 俺の身体はこうなった! ああ、そうか……」


 そう言って、テオファネスはアルマを見るとやんわりと切なそうに笑む。


「だってアルマ達は修道院に閉じ込められた天使だもんな。男も知らなければ、汚いものも知らない。人を殺した事なんか無いもんな。そんなもん知らなくて当たり前か」


 だから亡命なんて無謀だ。アルマが逃げればみんな死ぬ。とテオファネスはきっぱりと、断言した。


「でも……!」


 震えつつ言うが、その続きは言わせんとばかりに彼は「聞かない」ときつく突っ跳ねた。 こんな粗暴な言われ方は初めてだ。アルマは背筋を震わせて、身を竦めると彼はハッとした表情をして首を振るう。


「別にアルマに怒ってるわけじゃない……」

 そう詫びた後に彼は更に続けた。


「……ただ俺は軍のやり方や、それを許したベルシュタインの皇帝に本気で怒ってるだけだ。どうして〝尊き天使〟と言われるエーデルヴァイスを人質にした。人並み外れた力を持つからって、人を殺した事も無いアルマを戦場に行かせるなんて」


 ──頭がおかしい。

 そう言い切ると彼は深く息をついて立ち上がり、テーブルに置かれたケトルからカップにお茶を並々と注いだ。


 香りから察するに恐らくカモマイルのお茶だろう。

 テオファネスはカモマイルのお茶を気に入っている。それもあって修道院で栽培したものをデニスに以前渡していた。


 カップに注がれたお茶は未だ仄かに暖かいのか、薄い湯気が上っていた。彼は「ごめん」と今一度詫びを入れると、アルマにそっとカップを手渡した。


「きつい言い方して悪かった。お茶でも飲めば少しは心が落ち着くよな?」


 アルマが頷くと彼はようやくいつも通りの優しい笑みを浮かべた。


「でも、だからって、テオを差し出すなんて……そんなの私は……」


 お茶を飲み終えて、アルマがそんな言葉を口走ったと同時だった。突如ぎゅっと横抱きにされた、その刹那──上を向かされ口付けをされた。


 なぜ今、なぜ突然……。アルマは戸惑い目をみはるが、別に彼に口付けされるのは嫌では無い。口付けは合わせるだけのものから次第に啄むものに変わり、今まで交わしたことも無い溺れ貪るようなものに変わり果てる。


 別に嫌ではなかった。それでも、今はこんな事している場合でない。慌ててアルマは彼の胸を押し返そうとするが、おかしな程に力が出なかった。


「……んっ、テ、オ!」


 離して。と、訴えるが、酸欠か、どうにも舌が回らず頭がぼぅっとしてきた。


 テオファネスの行動が理解ができず、アルマが目をしばたたくと、彼は唇の隙間で「何があろうと守る」と呟いた。


 ……溺れるような口付けだった。苦しくなって、必死に彼の胸を押しやれば、ようやく彼は唇を離した。


「軍人は残酷だ。多分、一番強い力を持つアルマを拉致してでも連れて行く。それに殺気立った戦場に女はほぼいない。女がいると何されるか分かるか? 敵兵に女兵士がいたとして末路が分かるか?」


 ───何人もの男に穢され踏み躙られ犯される。敵も味方も関係無い。男の性欲の捌け口だ。


 彼はそう告げると、悲しげにアルマを見据えた。


「なぁ、アルマ。知ってるか? あいつら。敵地の逃げ惑う民間人の女でさえ銃で脅して嬲るように犯すんだ。事が終われば殺すんだよ。敵国の女なんてただの〝女性器〟だって」

 切なそうに、苦しそうに彼は言う。

 それもまるで、見てきたかのように。やるせなさそうに。今にも泣きそうな顔だった。


「テオ……」

「アルマ。だから、その力は俺が奪って全部無かった事にしてやる」


 と彼は優しく笑む。

 つまり、それは……。テオファネスの意図をようやく理解したアルマの頬に熱が昇った。


 だがその途端に酷い目眩が襲いかかる。視界はグラリと歪み暗転して、彼の声が次第に遠ざかる。


「大丈夫だ、アルマは必ず俺が守る。痛い思いも悲しい思いも絶対にさせない……」


 ───俺が守るから。

 視界が真っ暗になる前、届いた言葉が酷く震えているように思った。


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