「お疲れ様です、
「おお、普津沢。もうそんな時間か」
このオジサンの名前は伊田目さん。
俺がバイトしているイタリアンレストラン『スパシーバ』の店長だ。
スパシーバはロシア語なので、よくロシア料理の店と間違って入店して来るお客さんがいるのが玉に瑕だ。
一度伊田目さんに、なんでスパシーバって店名にしたんですかと聞いたことがあったが、「言葉の意味は知らなかったんだが、何となく響きがイタリア語っぽかったからな」と返された。
いや店名なんだから意味は調べときましょうよ。
スパシーバって別にイタリア語っぽくないし。
そんな感じで、伊田目さんはちょっと適当なところがあるのだが、料理の腕は超一流で、都内の有名レストランでシェフをしていた経験もあるらしい。
それがどんな経緯で、こんな千葉の地方都市で、テーブルが三卓しかない小さなレストランを経営するようになったのかは謎だが、きっと大人には大人の事情がいろいろあったのだろう。
俺は大学に入って一人暮らしを始めた頃、近所にあったこのレストランでたまたま夕飯を食べたのだが、あまりの美味しさに即バイトの申し込みをした。
と言っても、俺は料理はからきしなので、ホールのバイトだが。
スパシーバはランチが11時から14時、ディナーが17時から22時までの営業だ。
ランチは伊田目さんの奥さんがホールを担当しているので、ディナーのホールは俺ともう一人のバイトの小野君が、日替わりで回している。
「ああ、そう言えば普津沢、小野は昨日でバイト辞めたからよ」
「は? マジですか!? 俺聞いてないですよ!」
「俺も昨日急に言われたんだよ。実はアイツ、とある財閥の御曹司だったらしくてよ。格式張った生活が嫌だったから、家出してここで身分を隠しながらバイトしてたんだそうだ。だが昨日実家から電話が来てよ。親父さんが病気で危篤なんだってさ。親父さんが亡くなったら、遺産相続で血で血を洗う争いになるのは目に見えてるんで、事を収めるために実家に帰って、親父さんの跡を継ぐんだとさ」
「何ですか、そのドラマみたいな展開は……」
あんな純朴そうな青年の小野君が、まさかそんな連ドラの主人公みたいな人生を歩んでいたとは。
つくづく人生ってのはわからないもんだ。
「でも、今後のシフトはどうするんですか? 申し訳ないですけど、俺はこれ以上シフト増やせませんよ」
ただでさえ、沙魔美の相手も忙しいのに。
「ああ、その点は大丈夫だ。もうじき助っ人が来ることになってるからよ」
「助っ人?」
「ところでよ普津沢。一昨日のアレは何だったんだ?」
「え、一昨日ですか……」
沙魔美の漫画を手伝ってて、代わりに俺の分身がバイトに行った日だ。
「お、俺、何かおかしかったですか?」
「まあなあ。事あるごとに『俺が愛してるのは沙魔美だけです!』って叫ぶし、女性客には冷たい態度とるしよ。彼女を大事にするのはいいが、仕事とプライベートは分けてくんねーと困るぜ」
「あ、あははは……。すいません、今後は気を付けます……」
「ああ、頼むぜ」
沙魔美~!!!
やりやがったなアンニャロー!!!
もう二度と分身なんか使わせないかんなー。
「お、助っ人が来たようだぜ」
「えっ」
「どもでーす! 今日からお世話になる、伊田目
「えっ!? 伊田目って……」
「ああ、こいつは俺の娘だ。今日から小野の代わりにバイトとして使うから、しばらくはお前が指導係として、ビシバシ鍛えてやってくれ」
「よっしゃっしゃす!」
「……」
厄介なことになってきた。
せっかくこの職場では女の店員さんが伊田目さんの奥さんしかいなくて、その奥さんとはシフトが被らないから安心してたのに。
今後しばらく未来延ちゃんと一緒に仕事するとなると、沙魔美にバレたら未来延ちゃんの命が危ない。
もちろん俺の命もだ。
幸いこの店の場所はまだ沙魔美には教えてないし、何とか未来延ちゃんが独り立ちするまでは、沙魔美をこの店に近付けさせないようにしなくては。
しかし、どうも未来延ちゃんの顔には既視感があるのだが、どこかで会ったことあったっけ?
「ああ、ちなみにこいつも、お前と同じ大学だぞ」
「えっ!? そうなんですか!?」
「はいです。私も
「そうなんだ……」
どうりで見覚えがあるはずだ。
多分何かの講義で、一緒になってる気がする。
「私は普津沢さんのことは、よく存じ上げておりますよ。私も経済学の講義履修してるんですけど、講義中にいつも彼女さんと手を組んでるんで、みんなメッチャ噂してますもん」
「あ、いや、あれは……俺は嫌だっていつも言ってるんだけど……あいつが、その……」
「みなまで言わずとも、心中お察しします。講義中だろうと、常に周りにラブラブ度をアッピルしたいんですよね?」
「全然察してくれてないじゃないか。それにアッピルじゃなくてアピールでしょ」
ヤバいぞ。
この子もお父さん似で、結構適当な子だ。
これは先が思いやられる。
「まあ、今日は初日だから、とりあえず俺の仕事を見ててよ」
「はいです! ガン見させていただきます」
「ガン見はしないでね」
カランコロンカラーン
「お、早速お客様が来たようだよ。いらっしゃいませ。お客様は何名様でしょ……」
「伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンが二人でお願いします」
二人いるーーー!?!?!?
えっ!?
何!?
伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンって双子だったの!?!?
「およ? 普津沢さん、こちらの方々はお知り合いですか?」
「いやいやいや、100%赤の他人だよ! こ、こちらのテーブルへどうぞお客様」
なんてこった。
メチャクチャややこしい状況になったぞ。
だが、伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンズもまだ俺に気付いてないみたいだし、とりあえず今は、いつも通り接客して様子を見よう。
「こ、こちらメニューになります。ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
「あのー、このお店にはロクシ〇ンのシャンプーは置いてますか?」
「……」
置いてるわけねーだろ!
ここはイ〇ンじゃねーんだぞ!
「あ、私も同じものを一つ。あとライスも付けてください」
「……」
シャンプーをおかずにライスいくつもりなのかテメーは!?
食い合わせ悪いとかの次元じゃねーぞ!?
「あ、できればライスは十六穀米に替えてもらえますか?」
「……」
替えられるわけねーだろ!
うちはイタリアンレストランだぞ!
てか何カロリー気にしてんだよ!
お前は独身のOLか!?
カランコロンカラーン
「! 少々お待ちくださいお客様」
フウ。
他のお客さんが来てくれて助かった。
もうあいつらのことは無視しよう。
「いらっしゃいませ。お客様は何名様でしょ……」
「アラ、堕理雄。ここがあなたのバイト先だったのね。申し訳ないのだけれど、ここって伝説の魔獣アブソリュートヘルフレイムドラゴンを停めておける駐車場ってあるかしら?」
「……」
あるわけねーだろーがーーー!!!!
お前はここまで、伝説の魔獣アブソリュートヘルフレイムドラゴンに乗ってやって来たのか!?
てか沙魔美は、今日は同人誌即売会のイベントじゃなかったのか!?
「今日は同人誌即売会のイベントじゃなかったのか!? って顔してるわね。あの手のイベントは夕方には終わるのよ。売り子を手伝ってくれた菓乃子氏と、今から打ち上げよ」
「ご、ごめんね堕理雄君、お邪魔して。すぐに帰るから……」
「あ、ああ、菓乃子も一緒だったんだ」
てか菓乃子が随分よそよそしい気がするけど、気のせいかな?
……まさか。
昨日のアノ時、やっぱり菓乃子起きてたんじゃ……。
「やや! これは噂の彼女さんじゃないですか! いやー間近で見ると本当に美人さんですねー」
「アラ? 堕理雄、こちらのお嬢さんは?」
「いや、その、これは……」
「どもです! 今日から新しくバイトで入った、伊田目未来延でっす! 普津沢さんにはいつもお世話になってます」
「未来延ちゃん、俺達は初対面でしょ!?」
「へえ、堕理雄にいつも、シモのお世話をしてもらってるの? ふーん、そうなの」
「誰もシモのお世話とは言ってないだろ! 沙魔美、これには訳があるんだ……」
「堕理雄」
「……はい」
「今夜話があるから、私は堕理雄がバイト終わるまで、堕理雄の家で待っててもいいわよね?」
「…………はい」
家帰りたくねー。
一生バイトが終わらなければいいのに。
「おおー、家で待ってる発言ですかあ! いやいや、お熱いですなあ」
誰のせいでこんなことになってると思ってるんだい未来延ちゃん?
いや、全ては沙魔美が嫉妬深いのが悪いのであって、未来延ちゃんは何も咎められるようなことはしていないのだが。
沙魔美に理屈は通じないからな。
「おや、こんなところで奇遇ですね、マスター」
「アラ、伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンの四男と次男じゃない。あなた達本当に仲が良いわね。今度あなた達で一本描こうかしら」
四男と次男だったの!?
てかなんで次男と四男って言わないの!?
いったい兄弟何人いるんだよ!
「もちろん六つ子に決まってるじゃない」
六つ子だったーーー!!!!
オイオイ、日本で六つ子っていったら、もう完全にアレのパロディじゃねーか。
「さてと、私お腹空いちゃったわ。お昼食べる暇なかったものね。堕理雄、オススメは?」
沙魔美は案内してもいないのに勝手に席に座って、メニューを見始めた。
菓乃子も恐縮そうに、後に続く。
「……何でも美味しいですが、ペペロンチーノが特にオススメです」
「そ、じゃあ私はそれで」
「あ、私も同じものを」
「かしこまりました」
こんなに憂鬱なバイトは初めてだが、こうなったらさっさと給仕して、さっさと帰ってもらおう。
俺は厨房に行き、オーダーを読み上げた。
「2卓オーダー入ります。ペペロンチーノドゥエ。以上です」
「あいよー。あの黒髪の美人のネーチャンがお前の彼女なんだろ? お前も隅に置けねーなー。ニクいなコノヤロー」
「あはははは」
そう思うなら代わってみますか?
俺が普段、どんだけ苦労しているかが、わかってもらえるでしょう。
「ところで普津沢さん。ちょっとよろしいですか?」
「? 何だい、未来延ちゃん」
「もしかして、あの茶髪の美人さんも、普津沢さんと何か関係があったりしますか?」
「! ……なんでそう思ったのかな?」
「いやいや、何となくですよ。強いて言うなら、あの方の普津沢さんを見る眼ですかね。あれは恋する乙女の眼ですよ」
「ははは、気のせいだよ」
やっぱり女の子はみんな魔女らしい。
ただ、菓乃子が俺をそういう眼で見ているというのは、勘違いだな。
大方、昨日のことを思い出して、キョドってしまっているのだろう。
「はいよ、ペペロンチーノお待ちー」
「えっ!? もうできたんですか!? 早くないですか?」
「まあ、何となくペペロンチーノが頼まれそうな予感がしたから、作り始めてたんだ。冷めねーうちに持ってってやんな」
「はあ」
伊田目さんはたまにこういうことがある。
しかも百発百中で外したことはない。
この人も大概だ。
俺は2卓にペペロンチーノをサーブした。
「お待たせいたしました。ペペロンチーノになります」
「えっ!? 堕理雄君、随分早くない!?」
「この店の店長も魔法使いなんだよ」
「なるほど、これが噂のレギュムの魔術師というわけね。ではお手並み拝見といきましょうか」
「レギュムはフランス語だけどな」
沙魔美と菓乃子はペペロンチーノをフォークでクルクルと束にし、パクッと一口食べた。
「えっ」
「こ、これは……堕理雄、シェフを呼んできてちょうだい」
「はっ? どうかしたか?」
「およびですか、フロイライン」
「うわっ! 伊田目さん、いつの間にここに」
「あなたがシェフね。……このペペロンチーノ、隠し味にアンチョビを使っていますね」
「ビンゴ。ほんの少ししか使ってないんだが、よくわかったね」
「当然です。アンチョビの程よい酸味と、唐辛子の風味がマッチして、舌の上で見事な旋律を奏でています」
何か料理漫画みたいな展開になってきた!?
「それだけじゃないわ沙魔美氏。パスタもアルデンテよりも若干柔らかめに茹でることで、ニンニクのエキスがよりパスタに浸透するように配慮されているわ」
菓乃子まで!?
お前はそういうキャラじゃないだろ!
「でも菓乃子氏、まだ何か隠れているわ。これはそう……わかった! 白だしね!」
「イグザクトリー(そのとおりでございます)」
「洋食のペペロンチーノに、あえて和食の白だしをひとさじ加えることで、ペペロンチーノが本来持つうま味を、更に高次元のものに引き上げることに成功しています」
「な、なんてこったー! 今までのお前では、そんな発想には至らなかったはず!」
「未来延ちゃん、無理やりライバルキャラで割り込んでこなくていいから」
何だこの茶番は。
「これはまさに、ニンニクと唐辛子のガトリングガン。次々に放たれる味の弾丸に、これはとても……」
「「耐えられないー」」
パーン
二人の服が弾け跳んだー!!!
何戟の何マだよこれは!?
「大丈夫よ堕理雄。服が弾けたのは表現で、実際に弾けたわけじゃないわ」
「いや、それはどうでもいいんだが……」
「シェフ、見事なお手前でした。また来ますわ」
「ご、ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」
「お待ちしていますよ、フロイライン」
「そうだわ、堕理雄」
「……何でしょうかお客様」
「あなたのベッドの上で今日の
「それは勘弁してくださいお客様」
「あのー、注文いいですかね?」
「あ」
伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンズのこと忘れてた。