光忠が名乗りを挙げる。
白装束は返り血を浴びて赤く染まり、刀は数多の武田や烏桓の兵の生気を吸い、妖しい光りを放つ妖刀のようであった。
赤黒い液体が刀身を伝わり、切先から滴り落ちる。
悪鬼羅刹かと見紛うような姿と気迫は信玄の周囲を守る衛兵たちをも気圧した。
光忠は居合い抜きの構えを取り、その体勢から信玄に駆け出した。
「明智の一族か。勇敢な男よ」
信玄は馬上で光忠の攻撃に備え、待ち構える。
駆け出した光忠の狙いは信玄の左足。
「甘いわ!」
光忠の攻撃を読み、信玄が馬ごと攻撃を避けるべく横に移動する。
だが光忠の攻撃速度は信玄の予測よりも速く、深くはないが手応えのある傷を負わせた。
光忠は追撃にすぐさま移り、後背を袈裟に斬りつけようとするが、信玄は馬を駆けさせることで咄嗟にかわす。
信玄は距離を取ると、馬に鞭打ち一気に詰めてきた。
馬の猛進を光忠は転がり避ける。
再度信玄は距離を置き、光忠に向かって突進する。
光忠は今度避ける素振りを見せず、腰を落とし刀を構えた。
将を射んとするならばまず馬を射よ、光忠の脳裏な光秀から教わった言葉が響く。
馬と衝突する前に前脚を払う、光忠はそう結論づけて目を閉じ心を集中させ平静にさせる。
信玄が駆け出す。
狂気の馬が濛々と砂煙を上げ、高速で接近してくる。
光忠は目を見開き、逆袈裟に切り上げた。
手応えはあった。
だがそのすぐ後に鉄を打ったような痺れが走り、刀を手放してしまった。
馬は足を斬られたが踏ん張り倒れず、すれ違い様に信玄の刀が光忠の右肩を抉っていた。
光忠は肩を左手で押さえつつ、自分の刀を探し拾いあげ、信玄を見た。
信玄の方は光忠の剣撃で馬が負傷し、走ることを拒否していた。
光忠は左手に刀を持ち替え、信玄へと一歩一歩近づいて行く。
「貴様!御屋形様に何をした!」
光忠の後方から怒りに我を忘れた怒声が迫る。
光忠が振り返った瞬間、刀を持った左腕が宙を舞った。
意識が飛びそうな痛みをこらえ、すれ違った人物を睨みつける。
高坂昌信であった。
美形の顔が醜く歪み、血走った目で光忠を凝視している。
光忠はすでに武器もなく、両腕も封じられ、反抗することは一切できない。
そんな無抵抗な光忠を昌信は馬から降りるなり蹴りつけた。
「御屋形様に刃を向けたこと後悔せい!」
最初の蹴りで倒れ込んだ光忠を執拗に踏みつける。
昌信にとって絶対唯一の存在である信玄に傷をつけたことから、普段の冷静さを失い、別人かと思えるほどに豹変していた。
「昌信、もう止めい」
信玄の声で昌信は我に返った。
信玄は昌信に歩み寄り、光忠を見下ろす。
「かの者も主君に忠義立てて戦った武士じゃ。これ以上辱めを与えるな」
「はっ」
信玄はそのまま光忠を見つめ続け、おもむろに刀を取り出す。
「苦しかろう。すぐに楽にしてやるぞ」
優しい声で光忠に囁くと、心臓目掛け刀を突き下ろした。
刀は光忠の体を貫き、地面に突き刺さる。
信玄は数珠を手のひらに巻くと、経を唱えた。
「この勇士の亡骸は織田へ返す。化粧し、身を清めてやれ」
そう衛兵に命じると、自身は柳城近辺に赴き、合戦終結を言い渡した。