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第17話

「ぬっ!退け!」


 突如、信春が大声で撤退の指示を出した。乾いた藁の臭いに混じって油の臭いが信春の鼻腔を突いたのだ。


 信春の兵たちはわけがわからずに来た道を引き返し始めるが、後続の昌信隊に阻まれ、思うように動けない。


「早馬を昌信へ出せ。火計の罠が仕掛けられている」


 伝令が昌信の下へ大慌てで駆け出した。


 さらに後続に火計を知らせるために、兵らに叫ばせる。


 兵が喚き、混乱する中、隠れていた光忠隊により火矢が放たれた。


 油を染み込んだ藁があっという間に強く燃え盛り、黒煙を吹き上げ、乾いた藁や建物などを燃やしていく。


 これにより信春、昌信両隊の混乱に拍車がかかった。統制は利かず、東門に兵が殺到する。


 前にいる者を引き倒し、転んだ者を踏み込え、その様は阿鼻叫喚の地獄絵図のようであった。


 その上更に、東門城外に喚声が上がった。


 光忠隊が昌信隊後方への決死の突撃を加えたためである。


「妖術使いだぁ!」


 白装束の光忠隊に、ようやく冷静を保ったはずの兵が恐怖心を呼び戻した。


「ちっ!」


 昌信は舌打ちをすると率先して光忠隊に当たっていき、白装束の兵たちを鮮血で赤く染めていく。


「者ども見よ!こやつらは我らと変わらぬ人だ、臆すな!」


 昌信は光忠隊の一人を袈裟に斬り伏せ、兵の恐怖心を除こうとした。


 これで兵の戦意も上がろう、と昌信は考えたのだが、斬られた光忠兵は倒れることなく、一人でも道連れにしようと鬼気迫る表情で襲いかかってくる。


 これにより、昌信の計った戦意昂揚策は灰燼に帰した。


 城外の昌信隊は次第に兵数の遙かに劣る光忠隊に押されだす。


 しかも城内から溢れ出てくる信春隊のため逃げることもおぼつかない。


 時が経つごとに混乱の度合いが増す状況は、信春と昌信がいかに優れた指揮官と言えど如何ともし難い。


 だが、この窮地は信玄により救われた。


 城に黒煙が立ち上るのを見た信玄が陣頭に立ち、出陣していたのである。


「よくもこれほど姑息な手が思い浮かぶものよ」


 信玄流に敵の策士を最大限に褒め称え、自ら刀を抜き、馬を急がせた。


 信玄は謙信とは違い、もとより陣頭に立ち兵卒を率いて戦うといった大将ではない。


 無論、若かりし頃はそういった勇猛果敢な部分もあった。


 だが甲斐の国主となってからは、優秀な配下に戦闘を任せ、自身は最後方で戦況を見極め、変幻自在の戦術を駆使するような戦い方を徹底していた。


 それを翻さねばならないほど、信春と昌信両隊が危うい状況に陥ると、柳城から細く登った黒煙を見て、確信に近い予測を抱いた。


 信玄の素早い進軍により、危険な状況は多少和らいだ。


 昌信隊に猛攻を仕掛ける光忠隊の背後から信玄直属の部隊が襲いかかる。


 後背を取られた光忠隊は一人たりとも逃げることはせず、死に際しても必ず道連れを伴った。


 援軍、それも信玄直々の登場に士気の下がっていた昌信隊は大いに盛り返し、光忠隊を討っていく。


「武田信玄公とお見受けいたす」


 思わぬ総大将信玄の登場に光忠は雑兵を捨て置き、信玄の前に立ちはだかった。


「如何にも」


「なれば、その御首頂戴いたす。我は織田家家臣明智光忠」

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