敗報はすぐに信玄の下へ届いた。
渡河作戦を強行したあたりから敗北は確信していたが、あまりにも不甲斐ない負け方と身の処し方に信玄は激怒した。
敵への損害が大きければまだ労ってやれるし、逃げ帰ってくるにしても兵を見捨てず自らも督戦をするくらいでなければ、他の者に示しがつかない。
今回の様で烏丸兵の楼班らへの信頼は揺らぎ、あからさまに蹋頓を烏丸の頭領に、と持ち上げる者も出てくるほど支配力が弱まったことがそれを象徴していた。
信玄の本隊に出頭した楼班らは処罰こそ受けなかったが、指揮権を剥奪され遼東での謹慎を命じられることとなった。
「余興は終わりだ。これよりが真の武田の戦よ」
信玄の鼓舞に武田軍が盛り上がる。
「しかし御屋形様、渝川の防衛網は予想以上に堅く、策なく攻めれば楼班の二の舞……」
信春がいつになく弱気な発言をした。信春の言うこともっとも、と諸将が頷く。
「昌景、昌信。軍を下げよ。持久戦ならば我らが有利。むざむざ川を渡る危険を冒さずとも良かろう」
武田家臣にはそれだけで充分通じた。
柳城が拠点としての意味をなくした以上、本拠や兵站基地が近い武田の方が持久戦では圧倒的に有利である。
渝川から兵を下げれば、短期決戦を求める曹操軍が渡河せざるを得なくなる。
その渡河した曹操軍を順に壊滅させていけば良い。
昌景と昌信は早速自陣に赴き、陣の後退を指示した。
また信玄の命により、一条信龍に一隊を率いさせ遊撃隊とし、曹操軍による渝川迂回軍への警戒をさせた。
「武田軍が下がっただと?」
報告を受けた曹操が素っ頓狂な声を上げた。
楼班の烏丸部隊が、何の気なしに攻め寄せてきたことから、武田軍を甘く見ていたのだが、それが見事にひっくり返った。
「今度は我らが軽々しく渝川を渡れなくなりましたな」
郭嘉が囁くように呟いた。
「田疇、渝川を渡らず武田に攻撃する術はあるか?」
曹操が問うと諸将が一斉に目を向ける。
「柳城の北、上流まで遡ればございますが……」
田疇の言葉は歯切れが悪い。
「どうした?話せ」
曹操が田疇を急かす。
「渝川の上流には、険しく切り立つ山がございます。ここを越えれば、武田軍の陣取る側面を突けます」
「切り立つ山……おぬしの渋い顔から察するに、越えるのは難しいのだな?」
「はい。崖を登らねばならず、馬は使えません」
「ふむ。山を迂回するのは?」
「その場合は、烏丸だけではなく鮮卑の領土も通過することに」
さすがの曹操も言葉が止まった。
消極的な友好を保つ鮮卑族だが、武田という難敵を控えている以上、対応を誤ったり余計な刺激を与えたくはない。
「鮮卑族を説得し味方につけたとて、日数が掛かりすぎます」
田疇が曹操の次の言葉を予測し、先に答えた。
曹操は田豫や鮮于輔らの顔を見るが、どちらも首を横に振る。この辺りに詳しい者達がそう言うのならば、山越えや迂回は実際厳しいのだろう。
「渝川を渡るしかないか。曹操様、この張遼、背水の陣にて敵を押し返す覚悟」
張遼の言葉に触発され、史渙や韓浩も気力が漲っている。
「我ら織田軍も同意です」
さらに信忠が背中を押す。
曹操はため息を一つついた。
「わかったわかった。だが有言実行してもらうぞ」