坂田英昭は、自分が【あんなことをする人間】だとは思いたくなかった。正直なところ、自分がどうしてそんなことをしてしまったのか、恐怖に駆られたからなのか、と思っても、信じがたい現実なのだ。自分はもっと臆病で、もっと卑屈な人間だとしか思っていなかったのに。それなのに。
「いや、そうだよ、アレは、人じゃないから」
恐怖が高まって、彼の中の何かがおかしくなっていく―――村雨景吾というあの男を、人間ではないと認識したのだ。つまりそれは、自分のことも【人間】ではないと認識してしまっていることなのだが、今の彼にそれを理解する術はなかった。彼はもう、おかしくなっている。全身の水分という水分が、体内から揺れ動き、彼を狂気に染めていく。
【子供達】は、その能力の特異性と、精神力の両方が備わらないと、まず精神的におかしくなる。それは、特に景吾を見ればわかりやすいことであった。幼少期からのこと、今に至るまで。遺伝子を操作する強大な能力とは別に、彼は常に精神的に危うかった。怒りも悲しみも、喜びさえも、彼は狂っている。【子供達】のことを思っていたかと思えば、勝手な行動をして、その始末を千晶や奈雄にさせることは多々あった。結果的に多くの被害を出すことはなかったが、それでも千晶や奈雄への印象は悪い。
千晶は多重人格、奈雄は同性愛、名月は殻に閉じこもる―――【子供達】の能力が高ければ高いほど、精神に異常をきたしているのは明白であった。
だからこそ、景吾が作り上げたかった存在は、精神に左右されない存在だ。それが、幸一郎である。村雨幸一郎は、とにかく精神的に揺さぶりをかけられても、多くは揺れない。揺れないからこそ、おかしいのかもしれないが、それが彼の異能力とも言えた。徹底的に揺れないその精神は、景吾が喜び、千晶や奈雄が不安に感じるほど。唯一の救いは、そのことを気にしない一真がずっとそばにいてくれることだろう。
2人がずっと一緒ならいいのに、と誰もが感じるほどに、2人は一緒に前を向いて過ごしていた。
だから。
今のように、一真に人を殺させることが本当にいいことなのか、幸一郎の中にわずかな迷いが出る。何度も何度も、頭の中で考えて、言葉を選ぶが、言葉にできない。でも、それでも、一真が苦しむことはどうなのか、と幸一郎は思ってしまうのだ。もしも一真が暴走したら?その時は自分が殺す。もしも一真が死んでしまったら?
初めて、答えのないことが出てきた。それほどに、幸一郎は一真という存在を認めているのだ。それが愛情なのか、親愛なのか。愛と付けばいい話ではないが、幸一郎は一真を大事にしようと考える。同時に、それを景吾に知られない方がいい、とも警戒していた。景吾は幸一郎に対して、感情の揺れ動きが少ないことを望んでいる。だから、それから外れないようにしたいのだ。そうしなければ、今度は自分も危険になり、自分が危険になれば、一真も危険になるだろう。
坂田英昭を目の前にして、幸一郎は少し驚いた。なぜなら、彼はもう【人の形】をしていなかったからである。体中が水によってふやけ、腫れていた。まさかこんなことがあるなんて―――こんな存在になってしまうなんて。これが【子供達】のなれの果てなのか。始めて見るその存在に、幸一郎は絶句した。気持ちが悪いとか、どうなるとか、そんなことはない。むしろ【これ】をもう【人】と認識できなかった。
自分の能力の暴走によって、水が英昭自体を取り囲み、それに体が耐えられないのだ。その姿が、痛々しいを通り越して、化け物だった。もしも自分が暴走したら、あんな風になってしまうのか、とまで思ってしまう。景吾がいたならば、彼の体も遺伝子操作で治療してもらえただろうが、こんなことになってそれをしてくれるほど彼は優しくない。幸一郎は、彼がすでに見捨てられた【子供達】であると認識できていた。景吾に逆らい、ここまでになってしまえば、もう戻れない。
「一真」
幸一郎は、一真に声をかけた。彼は、目の前の水に集中しているが、正直なところ本当の意味で集中はできていない。目の前で、水に囲まれる【人間だった存在】を目の前にして、耐えられる人間はいないだろう。しかし今、その【始末】をしなければいけない。
「一真!」
「う、うるせーよ、幸一郎!なんだよ!」
「引け、お前じゃ相性が悪い」
「だ、大丈夫だよ!」
額から汗を垂らし、一真は必死になっていた。しかし、なかなか英昭を仕留めない。仕留められるはずがない、と幸一郎は思い、自分の持っていた短刀を引き抜いた。
「おい!邪魔するなよ、幸一郎!」
「今仕留めないと、みんなやられてしまう!」
「う、あ……」
詰められる言葉に、一真は一瞬で迷ってしまった。その瞬間、抑えていた水が、2人の間に飛んでくる。英昭の水は、すでに目の前にいる存在を殺すためにしか動かなかった。それを見た瞬間に、幸一郎が斬りかかる。
「待てよ、幸一郎!」
一真はが叫んだが、幸一郎は止まらず英昭に斬りかかった。水が幸一郎を圧し潰そうと迫ってくるが、彼はそれを見事に避けて、近づいていく。
「待て!!幸一郎!!」
「黙れ、一真!今やらなければ、俺たちだけじゃなく……!!」
俺たちだけじゃなく、と幸一郎が言った瞬間、彼は水の柱に突き飛ばされた。凄まじい勢いで、彼は飛ばされ、地面に倒れる。それを見た瞬間、一真が吼える。吼えた瞬間、一真は自分の中にある水と炎を抑えられなかった。抑えられなかったそれは、まっすぐに英昭の方へ向かっていく。
千晶は目の前に広がる光景をただ見ていた。
倒れた幸一郎を守るようにして、多くの水と炎が、まるで龍のように渦巻いている。渦巻いたそれは、英昭に向かっていた。水は、英昭の水を飲み込み、完全に操ってる。炎は、その水をさらに圧し潰す勢いで上から下へ落ちていった。
「爆発するな……」
そうつぶやいた千晶は、倒れた幸一郎を肩に担ぎ、離れていく。多くの水と炎がこのまま進めば、水蒸気爆発を起こす。それで一真が死んでしまうなら、そこまでだ。しかし、それで死ななければ―――彼も今後【子供達】を守る側へと成長していくだろう。
幸一郎の判断は正しく、行動も素早かった。しかしそれは、彼の中の能力がそうさせているものであり、本能ではないのだ。異能力の最終形態は、本能。その本能がどうなっていくのか、それが大事なのである。本能的に能力を使うことができるようになれば、それだけで能力は飛躍的に伸びる。そして【子供達】への愛情、信頼、執着が強まり、さらなる安定、安心を得られるのだ。
「目が覚めたか、幸一郎」
「千晶、さん……俺は」
「内臓を痛めている。しばらくは動くな。景吾がそろそろ復活しているだろうから、しばらくすれば治療してもらえる」
「奈雄さんじゃ、だめ、なんですか」
「そっちがいいのか?奈雄の治療を好むとは、変わっているな」
何かと治療となると、景吾か奈雄が登場する。景吾の場合は遺伝子操作を主とした治療であり、奈雄の場合は植物の治癒能力を使う。どちらも結果は同じなのだが、時と場合によって選択される。景吾も屋敷や【子供達】の側を離れていることがあるため、奈雄の治療を選択しなければならないことがあるのだ。しかし、奈雄の場合は植物を使うため、慣れるまでは異様であったり、不快を感じる場合も多い。
「俺は……奈雄さんの方が、信頼しているん、で」
「そうか。それなら奈雄が喜ぶな。ああ、そろそろか」
そろそろ、と千晶が言った瞬間。
強い爆風によって、千晶と幸一郎は吹き飛ばされた。