夜が深くなるほど、屋敷は静寂に沈んでいく。
どこか遠くで風の音がする。名月はその音に耳を澄ませながら、眠りへと身を委ねた。彼女にとって、夜とはそんなものであり、形にならないものを相手にしている。夜だから夢を見るわけでもなく、目を閉じて【その時】が来れば見れるのだ。ただ、それだけのこと。名月にその選択肢はない。
いつものこと、こんな夜はきっと未来の夢を見ることになる。嫌な夢じゃないといいな、彼女はそれだけを願った。
嫌な夢と言われても、実際にはどんな夢が嫌なものなのか、彼女ははっきりと言葉にしない。口数がもともと少なくて、最近やっと普通に会話することが増えたくらいだ。今までは、自分の頭の中に流れ込んでくる夢を処理できなくて、表現できず、苦しいから【話さない】という手段をとっていた。それが彼女にとって最善であり、最も楽な方法であり―――それ以外の方法を知らなかったのだ。
兄である千晶に対しても、話したくないことは何も言わなかった。逆に、奈雄に対しては兄に話さないことでも話すことはある。人によって話の内容を変えていいのだ、と教えてくれたのは景吾だ。すべて同じ話をしようとするから、辛くなる。彼は名月の心の内を、なぜかまるっと理解できてしまうことがあった。不思議なもので、景吾の存在は、恐怖でもありつつ、安心でもあるのだ。
深い夢の中に落ちていくと——そこは、すべてが白だった。
空も地も、影さえも、白一色に塗り潰されている。名月は足元を確かめるように歩いた。何もないはずの場所なのに、沈まず、落ちもせず、ただ音もなく歩き続けられる。やがて、視界の奥からそれが姿を現した。
白銀の鱗を持つ巨大な龍——その存在は、荘厳で、美しく、そして懐かしくもあって、恐ろしくもある。まるで、すべてを兼ね備えたかのような存在。誰かに似ている?と名月の頭の中で何かが引っかかったような気がしたが、それは目の前の龍神を見ていると消えてしまった。
龍神は言葉を持たない。ただ、名月の中に直接「思い」のようなものを流し込んでくる。
——これは未来だ。
次の瞬間、名月の目の前に【災厄】が広がった。
地鳴りが走り、都市が崩れ、鉄と血と火薬の匂いが世界を満たす。
大地が裂け、海が逆巻き、赤子の泣き声が聞こえ、無数の手が空へと伸びる。
人の心が壊れ、法が崩れ、言葉が意味を失う世界。
その中で、人々の中から異能が吹き出すように発現し、暴走し、破壊と殺戮の渦が巻き起こる。
——これは、これから来る可能性の【1つ】
名月の喉が、夢の中でも焼けつくようだった。
彼女は言葉を発さず、ただ龍を見つめる。
龍神は静かに、しかし確かに伝えてくる。
——わたしは、形でしかない。
——これは、形を見せるための夢。真実ではない。だが、可能性はある。
「……なぜ、私に見せるの?」
それは、夢の中で名月が珍しく発した言葉だった。
声ではない、思念に近い。どうして自分が選ばれたのか、名月は理由を知らないのだ。物心がついた時、側にいたのは多重人格になった千晶と景吾だけだったから。自分の生みの母のことを知らず、自分が【龍神の巫女】の家系であることもまったく知らなかった。
——お前は【境界】にいる者だから。
——まだ、決まっていない未来に触れることができる。
言葉が終わると同時に、世界はまた白く塗り潰されていった。
今まで見た災厄も、苦しむ人々も、壊れていく国もない。
ただの真っ白な世界。
そして、音も途絶えていく。
真っ白で、無音。
普通の人間ならば、こんな場所にいるだけで精神を崩壊させてしまうだろう。
しかし、名月はこれが夢だと分かっているので、また静かに目を閉じるだけだった。
目覚めたとき、天井はまだ夜の色を残している。名月は掛け布団の上でそっと起き上がってみたが、自分の体にも周囲にも異変は見られなかった。通常、異能力者が精神的に不安定になったり、夢を見たりすると、能力が勝手に暴走する可能性を高める。場合によっては、無意識のまま周囲を危険にさらすことがあり、名月はそれを確認したのである。
胸の奥が冷たい。多くの異能者は、能力を使った後は少なからず疲れる、と聞く。しかし、名月はその疲れを感じることがあまりなかった。ただ夢を見て、夢で未来を知るだけ。そこに何か行動をすることはなく、だから疲れないのだろうか、と思ってしまう。
同時に、兄である千晶や奈雄も、能力を使ってもあまり疲れていないタイプだ。若い世代は、それなりに能力を使えば疲れ果てているのに、2人に関してはそんな様子がない。なんの違いなのだろうか、と名月は思うが、明確なことは何も分からなかった。
夢を見たら、すぐに千晶に報告するように指示されていたので、名月はベッドを出る。廊下へ出て、兄の部屋へ向かったが、微かに声が聞こえので、そちらへ近づいていく。扉が完全には閉まっていなかったらしい。こんなことをするのは、奈雄の植物たちだろう。奈雄からドアを閉めるように指示をされても、蔓や木の枝が稀に遊びで言うことを聞かないのだ。植物にも意志があるから、そんなものだよ、と奈雄は言っていた。不便はないのだろうか、とも思うけれど、それが奈雄の選んだ植物との共生のようだった。
そんなことを考えながら、名月は足音を消すように歩き、音のする方へ近づく。
「……異能力者の登録は、ただの入り口にすぎない。登録された後、彼らがどうなるかは誰も追えていない」
千晶の声に、名月はゾッとした。これは兄ではない―――別の人格だ。名月には、千晶の別人格がすぐに分かる。
「消える、ってことかな?失踪?抹殺?まあ自殺も考えられるよね」
「公式には“訓練施設へ移送”だが、そのまま戻らない人間が増えている。記録も残らない。おかしいと思わないか?」
名月は扉の影に身を隠しながら、目を伏せる。異能力者は、年々増えてきており、それが景吾がなかなか屋敷に戻らない理由の1つでもあった。それほどにまで、忙しい。景吾はただ異能力を持った人間を追っているのではなく、名月の夢や政府からの情報をもとに、地道に異能力者を探しているのだ。また、できることなら成人する前に見つけるのが、望ましかった。
坂田英昭のように、異能力を持ったまま成人すると、精神の不安定状態がひどくなる。社会と自分自身のギャップ、生活環境の違い、他者からの圧力など、理由はさまざまだが、幼年期から成人前までに他の異能力者と関係性が築けない場合、その後の状態は悪化することしかなかった。
異能力というものが、成人をきっかけに何か変化するのかもしれない、と景吾は言っていたがはっきりはしていない。遺伝子を操る異能力を持つ景吾でさえ、はっきりとは分からないのだから、他の【子供達】に分かるはずもなかった。
「この屋敷にいる限りは安全。でも……」
奈雄の言葉が途切れた。その言葉は、名月も昔から何度も聞いてきている。兄に教えられ、奈雄からもしっかりと言い聞かせられてきたこと。しかし、それが揺らぐ日が来るのではないか、とあの夢を思い出す。
「景吾が守ってくれている限り、だろう」
千晶が続けた。村雨景吾―――戦前から生きているという男。遺伝子操作により、ほぼ不死身、ほぼ老化しない肉体と頭脳、精神を持つ。しかし、その実態はこの屋敷にいる誰も知らなかった。美しい顔を維持しながら、彼は自分だけでなく他人の遺伝子も操作する。今までどれだけのことをしてきたのか、きっと千晶でさえも知らないだろう。
名月の肩が、ほんのわずかに揺れた。景吾——この屋敷を陰から守る存在。異常に長命で、能力も測定不能のまま。
彼の姿は時々屋敷に見えるが、その存在感は、まるで霧のように捉えどころがない。
名月はその人を信じきれていなかった。
守ってくれているのは確かだ。けれど——あの龍神の夢の中、どこかに景吾によく似た【影】があった気がしたのだ。