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第十五幕 海野平に、武士の意地



信濃の空は、不穏な暗雲に覆われていた。


村上、諏訪の両雄が、示し合わせたかのように小県郡へと侵攻を開始してから、数日が経った。

海野家の兵たちは、各地で必死の抵抗を試みたが、多勢に無勢、その勢いを止めることはできなかった。

村上、諏訪の連合軍は荒れ狂う濁流のように、海野領内を蹂躙していく。


一方、武田軍の進撃はさらに凄まじかった。

武田の精鋭たちは、まるで、疾風の如く海野領内を駆け抜け、次々と城や砦を陥落させていく。

海野方の兵士たちは、武田軍の圧倒的な戦力、そして合理的な戦術の前に、為す術もなく打ち破られていった。

抵抗らしい抵抗もできず、あっという間に制圧されてしまう小県郡の城や砦。


そして、ついには──


「尾野山城、落城!」


尾野山城は海野庄を守る最後の砦。

戦略上、極めて重要な拠点であり、ここが落ちれば本拠地である海野庄は、敵の攻撃に直接晒されることになる。

それは、例えるならば、首に短刀を突きつけられたも同然の状態であった。


「……」


海野家当主、海野棟綱は報告を聞いても、何も言わなかった。いや、声を出せないのだ。

長年この乱世を生き抜いてきた歴戦の猛者でさえ、この絶望的な状況を前に、言葉を失ってしまう。

海野は今、滅亡の危機に瀕している。それは誰の目にも明らかであった。


──だが、このまま、座して死を待つ海野一族ではない。

彼らは、誇り高き武士。たとえ、滅びの淵に立たされようとも、最後まで、抗い続けることを、決して諦めない。


「残る兵を、全て集めよ!」


海野棟綱は絞り出すような声で配下に命じた。

棟綱の命を受け、家臣たちは最後の力を振り絞り、散り散りになっていた兵たちを掻き集めた。

そして祢津氏、矢沢氏、真田氏といった海野家と縁の深い有力な武家たちもまた、棟綱の呼びかけに応じ兵を率いて駆けつけてきた。


「海野殿! この祢津、微力ながら、お力添えいたす!」

「矢沢も、共に戦いますぞ!」

「無論、真田も!」


この戦いが、いかに厳しいものになるか誰もが十分に理解していた。

しかしそれでも、彼らは戦うことを選んだのだ。


「皆の者、よくぞ集まってくれた!」


海野家の若き嫡男、海野幸義が集まった兵たちの前に姿を現した。

棟綱の嫡子である幸義は、父に劣らぬ勇猛果敢な武将として知られている。


「我らは、今まさに存亡の危機に立たされておる! しかし我らは決して屈しない! この海野の地を侵略者どもから、必ずや守り抜いてみせよう!」


幸義は力強く宣言した。


「おぉぉぉぉぉ!」


兵士たちは幸義の言葉に呼応するように、鬨の声を上げた。

その声は大地を揺るがし、空を切り裂く。


「必ず無事に戻ってくるのだぞ……」

「はっ……父上、見ていてくだされ!海野の意地、見せてくれましょうぞ!」


海野軍の大将・海野幸義は残された海野家の軍勢を率い、諏訪、村上、そして武田の連合軍を撃滅せんがため、出陣した。

目指すは小県郡に広がる、広大な平原──海野平。


そして、運命の決戦が今、始まろうとしていた。


後の世に「海野平の戦い」と称されるこの合戦は、信濃の歴史を大きく塗り替える転換点となる。

それは、誇り高き武士たちの意地と意地がぶつかり合う、血で血を洗う……凄惨な戦いであった──。




♢   ♢   ♢




海野軍の大将・海野幸義は、本陣の置かれた小高い丘から眼下に広がる敵の陣容を、じっと見据えていた。


「なんたる数。この海野平が、埋め尽くされるほどの大軍勢が、集結するとは……」


幸義は、思わずといった様子で呟いた。その声はわずかに震えている。

それも、そのはず。

眼下に広がるのは、見渡す限り、敵、敵、敵。

その数は、ゆうに万を超えるであろう。


東には、村上の旗印が風になびき。西には、諏訪の梶の葉がはためいている。

そして中央には、武田菱が、翻っていた。

その旗は空を覆う暗雲のように重々しく、威圧的であった。


「……」


幸義は言葉を失っていた。

これほどの大軍勢を目の当たりにするのは、初めての経験であった。

その圧倒的な迫力に、思わず足がすくみそうになる。


「義兄上。敵の数に、圧倒されてはなりませぬ」


その時、厳めしい声が幸義の耳に届いた。

振り返ると、真田家の当主・真田頼昌が静かに立っていた。


「おぉ、右馬之助」


幸義は頼昌の姿を見て、安堵したように表情を和らげた。

頼昌の妻・琴は、幸義の妹にあたる。つまり頼昌は幸義にとって、義理の弟という関係になる。

しかし二人の関係は単なる姻戚関係にとどまらない。

頼昌は、智謀に優れ武勇にも秀でた稀代の武将であり、その人柄は海野家の一族からも深く信頼されていた。

幸義にとって頼昌は頼りになる弟であり、同時に共にこの乱世を生き抜く戦友でもあるのだ。


「右馬之助。この戦況、そなたはどう見る」


頼昌の瞳にも、義兄と同じ圧倒的な敵の軍勢が映っていた。

しかし彼の表情は冷静沈着であった。嵐の前の静けさのように、落ち着き払っている。


「……正直に申し上げれば、我らは、圧倒的に不利な状況にございます。山内上杉からの援軍は、未だ到着する気配すらなく、この海野の兵だけで、三家の連合軍を相手にするのは、無謀……」


頼昌は淡々とした口調でそう答えた。

──海野家の後ろ盾である山内上杉家からの援軍は、未だに到着していなかった。

上杉家からは「軍勢を出す準備に、手間取っている」との連絡があったが、それが事実であったとしてもこの場に間に合わなければ何の意味もない。

そして今、眼下に広がる海野家の兵力は……僅か二千五百。

対する敵の連合軍は、ゆうに一万を超える。

その差は、歴然であった。


このような圧倒的な兵力差がある状況で、殆ど遮蔽物のない開けた平原で野戦を挑むなど、愚の骨頂と言わざるを得ない。

しかし海野庄を守る最後の砦である尾野山城がすでに落ちてしまった以上、もはやこの海野平で決戦を挑む以外に、道は残されていなかった。


「この頼昌、武田の進軍がこれほどまでに速いとは、予想だにしておりませんでした。……義兄上、申し訳ござりませぬ。この戦、苦戦は免れぬでしょう」


頼昌は重々しく言った。その言葉には深い悔恨と、自責の念が込められている。

知謀に長けた頼昌でさえ、今回の武田の進撃の速度は完全に予想外であったのだ。


しかし、その言葉を聞いた幸義は意外にも不敵な笑みを浮かべた。

その笑みは、死を覚悟した武士の、最後の輝きのようで……。


「なぁに、案ずるな。そんなことは百も承知よ。思えば、我らはいつも、この戦乱の世で劣勢の中、生き延びてきたではないか」


幸義は遠い目をして呟いた。

彼の脳裏には、この混沌とした信濃の地で武士として、誇り高く生きてきた記憶が走馬灯のように蘇っていた。

周囲を強敵に囲まれ、常に滅亡の危機と隣り合わせの状況。

それでも海野家は屈することなく、戦い続けてきた。

そして、その戦場にはいつも頼昌が傍らにいた。


「覚えているか? 右馬之助。あの、諏訪との戦を」


幸義は思い出したように、頼昌に問いかけた。その声には懐かしさと親しみが込められている。


「諏訪の奴ら、我らの領地にしつこくちょっかいを出してきて、挙句の果てには小競り合いにまで発展しおって……。あの時は本当に腹が立った」


幸義は苦々しげに言った。その表情は、昨日の出来事を思い出しているかのようであった。


「父上は慎重に事を運ぼうとしておられたが……我らは若さゆえか、血気にはやり我慢がならなかった」


幸義は言葉を続けながら苦笑いを浮かべた。


「……そうでしたな」


彼の言葉に頼昌は静かに頷いた。

その瞳には懐かしさと、若き日の過ちを恥じるような色が浮かんでいる。


「あの時は私も義兄上も、まだ若く分別もなかった」


頼昌は遠い目をして呟いた。


「御屋形様の制止も聞かず、二人だけで、諏訪勢に突撃を仕掛けたのでしたな」


結果は、散々なものであった。

諏訪勢の巧妙な罠にはまり、あわや討ち死に寸前まで追い詰められた。

幸い、間一髪のところで棟綱が率いる本隊が到着し事なきを得たが……。


「あの時は御屋形様に、それはもうしこたま叱られましたな」


頼昌は苦笑いを浮かべながら言った。

その言葉に幸義もまた、苦笑いを返した。


「全くだ。その後の父上はそれはもう、恐ろしかった。二度とあんな思いはしたくないものよ」


二人は顔を見合わせ笑った。

悪戯がバレて、叱られた子供のような無邪気な笑いであった。



「そういえば、琴は息災か?」

「ええ、妹君は、私には過ぎたる程の良き妻です。いつも、家を守り、私を支えてくれております」


死地を前に緊迫した空気の中、二人の間には不思議と穏やかな時間が流れていた。

それは戦場へ赴く前の、武将たちの会話ではない。

どこかの平和な村で交わされる、兄弟の日常会話のようであった。

しかし、その何気ない会話こそが二人の心を束の間、安らぎで満たしていたのだ。


その時一人の伝令が、血相を変えて駆け込んできた。


「申し上げます! 敵軍、動き出しました! 中央、左翼、右翼……全てこちらへ向かって進軍中であります!」


伝令は息を切らしながら報告した。その声は大きく、そして切迫している。


「来たか」


幸義は重々しく呟いた。その表情は先ほどまでの穏やかなものから一変し、厳しい武将の顔に戻っている。


「……」


二人は同時に顔を見合わせ、ゆっくりと立ち上がった。

その瞳には迷いの色はなかった。

あるのは、これから始まる戦への、覚悟と決意だけ。


彼らが視線の先では、村上、諏訪、そして武田の連合軍が、巨大な津波のように押し寄せてきている。


「さあ、右馬之助。我ら海野の武士の意地、見せてくれようぞ」

「御意にございます」


頼昌は力強く答えた。

その瞳には炎のような闘志が燃え盛っていた。


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