目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第十六幕 海野平、戦火の螺旋

総勢一万を超える連合軍が、怒涛の勢いで海野軍に迫りくる。

その圧倒的な兵力差は絶望的であり、海野軍の兵士たちの顔には恐怖の色が浮かんでいた。


「構え! 射撃開始!」


海野幸義の号令一下、海野軍の兵士たちは一斉に弓に矢をつがえ、放った。

無数の矢が空を覆い尽くし、雨のように連合軍の陣へと降り注ぐ。


「竹束、構え!」


しかし、連合軍の兵士たちは慌てることなく、訓練された動きで竹束を掲げ矢を防ぐ。

特に中央に位置する武田軍は、その統率が際立っていた。

武田軍の兵士たちは竹束を隙間なく並べ、巨大な壁のように矢を防ぎながら、着実に前進していく。

右翼、左翼の村上、諏訪の軍勢に比べ、武田軍はほとんど被害を出していない。


だが……。


「中央の進軍速度が遅い……?」


幸義は圧倒的な敵兵の数に圧倒されながらも、その中にわずかな違和感を覚えた。

確かに武田軍の兵士たちは練兵度が高く、統率も取れている。それは一目瞭然であった。


しかしその進軍速度は、村上、諏訪の軍勢と比べても明らかに遅い。

まるで、自軍にだけ被害を極力出さないように、慎重に進んでいるかのようであった。

諏訪や村上との連携が、うまくいっていないのだろうか。

いや、それとも何か別の狙いがあるのか……。


「……」


傍らに立つ頼昌も、また、同じ違和感を感じていた。

彼は鋭い眼光で戦場全体を、見渡している。

この圧倒的な寡勢の中、海野軍が生き延びる道は、ただ一つ。


──敵の陣形に亀裂を見つけ、そこを突破すること。


そのためには、敵の動きを、注意深く観察し、わずかな隙も見逃してはならない。

そして、その亀裂こそが敵の進軍速度の差にあると見抜く。


やがて、両軍は、ついに、槍が届く距離まで、接近した。

射撃戦が一通り終わると、今度は後方に控えている長柄組の足軽が、押し太鼓や鐘に併せて全身し、敵の長柄槍と激突する。


「槍構え! 前へ!」


幸義の号令一下、海野軍の槍兵たちが、一斉に、槍を構え、前に進み出た。


「突撃!」


連合軍からも同じように槍兵たちが繰り出され、両軍は激しくぶつかり合った。

海野平はたちまち、槍と槍が激しくぶつかり合う白兵戦の場と化す。


両軍の兵士たちは怒号を上げながら、槍を振りかざし、叩きつけ、突き刺し、薙ぎ払った。

長柄槍同士がぶつかり合い、火花を散らす。

竹が軋む音、金属がぶつかり合う音、そして、兵士たちの叫び声が、戦場にこだまする。


「引くなぁ!海野の誇りを卑劣な諏訪と村上に見せてやれぃ!」


海野勢の兵士たちは槍を高く振り上げ、敵の頭上から叩き伏せようとする。

しかし連合軍の兵士たちも、負けじと槍を振り上げ、応戦する。

両軍の槍が空中で激しく交差し、うねりを上げていた。


別の場所では長柄槍同士を絡ませ、力任せにねじ伏せようとする兵士たちの姿があった。

顔を真っ赤にし、全身の筋肉を震わせながら、相手の槍を必死に抑え込もうとする。

徐々に、海野勢の兵士たちは押し込まれ、後退を余儀なくされていく。


時折、海野勢が意地を見せ、敵の軍勢を押し返す場面もあった。

小さな岩が巨大な波に、必死に抵抗しているかのような光景……それを見て、連合軍の兵たちも思わずたじろぐ。


大軍を相手に恐怖を感じていない兵士など、一人もいなかっただろう。

しかし海野勢の兵士たちは恐怖に打ち勝ち、勇猛果敢に戦った。

彼らを奮い立たせていたのは、若き大将・海野幸義への、忠誠心であった。

良政を敷いてきた海野一族に、民草は絶対の信頼と恩を感じていたのだ。


「ちっ……しぶとい奴らだ。突撃せよ!一気呵成に攻め立てるのだ!」


激しい槍合わせが続く中、突如連合軍側の徒歩武者たちが刀を手に、海野勢の陣へと切り込んできた。

彼らは槍兵たちの隙間を縫うように、素早く接近し、一気に斬りかかってくる。


「海野の田舎者ども! 我らの刀の、恐ろしさを、骨身に刻み込んでくれるわ!」


武者たちは叫び声を上げながら刀を振りかざし、海野勢の兵士たちに襲いかかった。


しかし……。


「諏訪の犬どもめ! 海野の武士の意地、見せてくれよう!」


海野勢の武者たちが刀を抜き放ち、突撃してきた武者たちを迎え撃った。

彼らの顔には、死をも恐れぬ覚悟が漲っている。


海野勢の武者たちは鍛え上げられた剣技を駆使し、次々と突撃してきた武者たちを斬り伏せていった。

刀と刀がぶつかり合い、火花を散らす。

肉を断つ音、骨を砕く音、絶叫が戦場にこだまする。


──しかし、その奮闘も焼け石に水。


次から次へと、新たな敵が、押し寄せてくる。

その数はあまりにも多く、海野勢の兵士たちは徐々に疲弊していく。

時間が経つにつれ、海野勢の陣は徐々に押し込まれ、崩れ始めていた。

しかしそれでも海野勢は必死に抵抗を続け、容易には崩れない。

戦況は一進一退を繰り返し、未だ収まる気配はない。




そして、激しい戦いが繰り広げられる海野平の、遥か後方。




連合軍の中央に位置する武田本陣では、静寂が戦場の喧騒を拒絶するように広がっていた。


ひときわ高く掲げられた、武田菱の馬印。その下には数多の旗指物が、林立している。

本陣の中央には一段高く組まれた台があり、その上に豪華な装飾が施された椅子が置かれている。


そこに、威風堂々とした面構えの老将がどっしりと腰掛けていた。


武田家当主・武田信虎である。


老齢ではあるが、しかしその背筋は、少しも曲がることなく堂々としていた。

顔には、深く刻まれた皺が数多の戦を生き抜いてきた証を物語っている。

そして、何よりも……その鋭い眼光は見る者を射抜き、どんな猛々しい武者ですら、恐れ戦くほどの圧倒的な気迫を放っていた。


信虎の周囲には、長年、武田家に仕えてきた、歴戦の重臣たちが居並んでいる。

皆、壮麗な鎧を身につけ、刀を佩いている。

彼らの視線の先には、激戦が繰り広げられている、海野軍の陣があった。


「海野の者ども、やりおるわ」


信虎は嗄れた声で、呟いた。


「御意にございます。さすがは、滋野一族の嫡流。寡兵をもって、よくぞ、ここまで持ち堪えております」


信虎の言葉に一人の重臣が、恭しく頭を下げ答えた。

その声には、感嘆の響きが込められている。


海野一族は滋野氏の嫡流であり、古くからこの信濃の地で勢力を誇ってきた名門である。

その武勇は広く知られており、歴戦の武将たちからも一目置かれていた。

しかし、今の海野家はかつての勢いを失い風前の灯火であった。

その海野家が、圧倒的な兵力差にも関わらず、これほどまでに善戦していることに重臣たちは驚きを隠せないでいたのだ。


しかし、その時である。


「申し上げます! 申し上げます!」


馬に乗った使番が、本陣に駆け込んできた。


「諏訪と村上の両軍より、至急の要請! 中央の軍勢に、さらなる押し上げを、とのことであります!」


使番は、大声で叫んだ。その声は、本陣にいた全ての者の耳に、届いた。

その言葉を聞いた信虎は、僅かに顔をしかめた。

その表情は、不快感をあらわにしていた。


「あやつは、何を考えておる……!」


信虎は低い声で呟いた。

信虎の言う「あやつ」とは、前線の武田軍を指揮している、信虎の嫡男・武田晴信のことを指していた。

晴信は、若くして、優れた才能を発揮し、武田軍の実質的な指揮を担う青年。

しかしその才能は、同時に信虎の警戒心を呼び起こしていた。


前線の武田軍の進軍速度が右翼と左翼の軍勢と比べて、明らかに遅いことは誰の目にも明らかであった。


「諏訪と村上には、すぐに対応すると伝えい!」


信虎は、苛立ちを隠せない口調で、命じた。


「ははっ!」


伝令は、信虎の言葉を聞くと、震える手で頭を下げ、急いで馬に飛び乗った。

そして全速力で、本陣を後にした。

伝令の乗った馬が、土埃を巻き上げながら、全速力で走り去っていく。

その蹄の音が遠ざかっていくにつれて、信虎の怒りは更に募っていった。


「この期に及んで、あやつは何をぐずぐずしている! 歩調を合わせなければ、諏訪と村上の反感を買うのは必至!」


信虎は苛立ちを隠せない口調で叫ぶ。


いくら総兵力が万を超える大軍勢であろうとも、烏合の衆に過ぎない寄せ集めの連合軍など、些細なきっかけで、いとも簡単に瓦解してしまう。

そのことを、信虎は誰よりも、よく理解していた。

長年、戦国の世を生き抜き、数々の戦を経験してきた老将は、戦場というものがいかに脆く、繊細なものであるかを骨身に染みて、知っているのだ。


だからこそ、信虎は、連合軍の結束を、何よりも重視していた。

諏訪と村上は長年信濃の覇権を争ってきた宿敵同士である。

その両者が、武田の呼びかけに応じ、共に手を取り合ったのは、海野家を滅ぼし、その領土を掌握するという、共通の目的があったからに過ぎない。

その結束は極めて脆く、わずかなきっかけで簡単に崩れてしまう。


──だというのに!


連合軍の中核を担うはずの、我が武田軍が、戦う姿勢を見せなければどうなるか。

諏訪と村上は武田に対して不信感を抱き、疑心暗鬼になるだろう。

そして、その不信感は瞬く間に連合軍全体に広がり、戦線はあっという間に崩壊する。


戦場というものの機微を熟知している信虎だからこそ、晴信の煮え切らない態度に、我慢がならなかった。

晴信は一体何を考えているのか。何か別の企みがあるのか。

信虎の疑念は尽きることがなかった。


「あの出来損ないに、急ぎ伝令を送れ! 諏訪、村上よりも突出して海野の軍勢に斬り込むのだと、伝えよ!」


信虎は抑えきれない怒りを爆発させるように、叫んだ。その声は雷鳴のように本陣に響き渡り、周囲の空気を震わせた。


信虎の怒号が響き渡る中、武田本陣には、再び、緊張が走った。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?