戦場の咆哮が、地を震わせる。
無数の兵が血を求め、怒号を張り上げ、互いの肉を抉り合う。
鈍重な槍戟がぶつかり合い、鋼が悲鳴を上げる。
その真っ只中、最前線に近い場所で、甲冑に身を包んだ若武者が、悠然と馬上で佇んでいた。
兜の隙間から覗く端正な顔には、僅かに嘲笑にも似た笑みが浮かんでいる。
風になびく黒髪が、その白い頬を撫でた。
武田晴信──
若き日の甲斐の虎は、この阿鼻叫喚の戦場を、舞台でも眺めるかのように、静観していた。
「ふむ、なかなかどうして。噂に違わぬ奮戦ぶり。信濃の土豪共、骨のあるところを見せてくれるではないか」
晴信は、涼やかな声で呟いた。
その声音には、目の前の激戦に対する畏怖や焦燥など、微塵も感じられない。
子供の喧嘩を面白がるかのような、余裕すら漂っている。
「若様」
厳かな声が、晴信の耳朶を打った。
その声に、晴信はわずかに視線を動かす。
いつの間にか、一騎の騎兵が傍らに控えていた。
屈強な体躯。鍛え上げられた肉体が、重厚な鎧を内側から押し上げている。
無精髭を生やした顔には、幾多の戦を潜り抜けてきた猛者の証が刻まれている。
一目で、並の武者ではないと悟らせる、圧倒的な存在感。
彼こそが、甲山の猛虎──飯富虎昌。
その名は、敵兵はおろか、味方の兵士すら震え上がらせる、武田家が誇る猛将の一人であった。
「些か、手ぬるいのでは。我らの軍勢の進み、諏訪や村上の軍に比べ、緩慢に過ぎまする」
虎昌は、重々しい声でそう進言した。
その言葉に、晴信はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「兵部之介。何故、我らが、犬死に同然の真似をせねばならぬ? 諏訪や村上の手勢に先駆け、徒に兵をすり減らすなど、愚の骨頂ではないか」
晴信の言葉に飯富虎昌は無言を貫いた。
「見てみよ。あの海野の屍兵共を」
晴信が指し示す先。
そこには、命を燃やす蝋燭のように、最後の輝きを放つ海野の兵たちの姿があった。
一兵卒に至るまで、血に染まった体を引き摺り、千切れかけた腕を、必死に動かし太刀を振るう。
それを見て、晴信は吐き捨てるように言った。
「沈みゆく船に、哀れなまでに忠誠を尽くす。海野の旗印は、ずいぶんと領民に慕われていたらしい。最初から命を捨てる覚悟の敵と戦うほど、馬鹿げたことはない。──それに」
晴信は緩慢な動作で左右に視線を走らせた。
諏訪と村上の軍勢が、海野勢の死に物狂いの士気に圧されている。
烏合の衆である彼らは、大軍ならではの慢心と、そして、勝ち戦で無駄死にしたくないという保身の念に囚われている。
このままでは、戦線は膠着し、やがて瓦解するだろう。
「人間というのはな……誰しもが、勝つと分かっている戦場で、徒に血を流したくはない。ましてや、死ぬことなど真っ平ご免だ。そしてそれは、我が武田の兵も同じこと……士気の差は、火を見るよりも明らかよ」
「……」
飯富虎昌は、その言葉に何も答えなかった。
ただ、鋭い眼光で晴信を射抜くように見据えている。
「だからこそ、我が軍勢を、無駄死にさせるわけにはいかぬ。諏訪も、村上も、いずれは我らが覇道を阻む潜在的な敵。ここで兵力を消耗させるなど、愚策。奴らにはせいぜい泥を被ってもらおう」
晴信はそう言うと、ニヤリと妖艶な笑みを浮かべた。
その姿を目の当たりにし、飯富虎昌は、内心で、戦慄を覚えた。
この御方は、眼前に広がる激戦を、確かに、視界には入れている。
しかし、その意識のほとんどは、遥か遠く。血と悲鳴の向こうに広がる、戦の後を見据えているのだ。
故に同盟軍である諏訪や村上に、何の情も抱かず、駒のように扱い、消耗を、積極的に狙っている。
しかし。
なんたる冷酷さ。何たる無慈悲さ。
飯富虎昌の胸中に、憤怒にも似た感情が、沸き上がった。
武士の誇りも、矜持すら。この御方は、合理という名の元にいとも容易く切り捨てる。
恐怖と、畏怖。
相反する感情が、飯富虎昌の心を激しく揺さぶった。
「ほう、あれは海野の騎兵か。兵部之介、見てみよ!村上の間抜け共が脇腹を奥深くまで、騎兵に抉られているぞ! まこと、滑稽千万!俺ならば、あの場所に騎兵を迎え撃つ槍衾を敷くのだがな!」
晴信は、楽しげな声を上げた。
その指し示す先では、海野の騎兵隊が村上軍の側面に突如として襲い掛かり、その陣形を切り裂いていた。
村上軍の兵士たちが悲鳴を上げ、次々と馬蹄の犠牲となっていく。
「なんと!今度は、諏訪の愚鈍な軍勢が、深追いしておるわ! くくく、なんと、憐れな。見え透いた退却の罠に、易々と引っかかるとは。もしや諏訪の軍勢を率いるは、猿の群れか?」
海野軍の巧みな用兵に翻弄された諏訪の軍勢が、深追いし、伏兵に襲われ大きな損害を出している。
その光景を、晴信はまるで喜劇でも見ているかのように、愉しげに笑い飛ばした。
飯富虎昌は、主君の底知れぬ貌を見て、この青年は我らとは根本的に何かが違うのだと、悟った。
そんな彼の内心を見透かしたかのように、晴信は薄ら笑いを深めた。
そして不意に、冷酷なまでに静謐な声で言った。
「そろそろか。兵部之介。次に私に、無粋な命令を届けに来た愚か者を……斬り捨てよ」
「──今、なんと?」
彼の表情が、一瞬にして凍り付いた。信じられないものを見るかのように、大きく見開かれる。
その脳裏には、今しがた主君から下された信じがたい命令が、木霊していた。
その時であった。
土埃を巻き上げながら、一騎の騎馬が晴信の元へ、駆けつけた。
「申し上げます! 申し上げます! 御屋形様よりの、至急の御沙汰! 即刻、全軍を前進させ諏訪、村上の両軍を凌駕し、海野勢を殲滅せよとの事にございます!」
飯富虎昌の全身が、石のように硬直した。
武田晴信の父、武田家当主・武田信虎からの、命令。
飯富虎昌の脳裏に、今しがた晴信から下された非情な命令が、鮮明に蘇る。
──無粋な命令を届けに来た愚か者を、斬り捨てよ。
飯富虎昌の視線が、晴信へと向けられた。
晴信は値踏みするように、飯富虎昌の瞳の奥を覗き込んでいる。
その瞳の奥には狂気にも似た、異様な光が宿っていた。
「若様! 聞こえておいでか! これは、御屋形様からの、絶対の御命令にございますぞ! 直ちに、全軍を……」
そうして伝令が次の言葉を紡ごうとした、その時であった。
「がっ……はっ……!?」
音もなく、飯富虎昌が振るった小刀が、伝令の首筋を深々と抉った。
鮮血が噴き出し、伝令の喉を真っ赤に染め上げる。
飯富虎昌は周囲の兵に悟られぬよう、素早く伝令の体を支え、地面に静かに倒した。
その断末魔の叫びと姿は、戦場の喧騒と、兵士たちの熱気に掻き消され、誰にも気づかれることはなかった。
あまりにも迅速に、そして静謐に命が奪われる光景。
その一連の流れを、当然のことのように見届けた晴信は、父・武田信虎がいるであろう本陣の方角を冷たい眼差しで見据え、呟いた。
「なんと、痛ましいことか。父上からの、大切な御使者が、敵の放った流れ矢に斃れ、無念の最期を遂げられたとは。これでは、この愚息、如何なる指示を出せばいいのか、皆目見当もつかぬ」
今しがた自らの命で味方の命を奪ったというのに、晴信はどこまでも冷酷であった。
その表情には悲しみも後悔も、微塵も感じられない。
ただ、計算された虚無的な微笑が張り付いているだけ。
飯富虎昌は、湧き上がる感情を必死に押し殺し、震える手を抑えながら静かに馬に乗り直した。
そして、一言も発することなく主君の傍らに控えた。
「──兵部之介。我らは、一蓮托生。分かっておろうな?」
晴信の底知れぬ瞳が、飯富虎昌を射抜く。その言葉は、何かを含んでいるのが明らかであった。
歴戦の猛者である彼は、内心の動揺を悟られぬよう必死に平静を装い、力強く答えた。
「御意」
硬く、しかし確かな返答。
その言葉を聞いた晴信は、実に満足げな表情を浮かべた。
その顔には獲物を手に入れた、狡猾な獣のような笑みが浮かんでいる。
「ならば、良し。其方こそ、まことの忠臣。武田家への忠義もさることながら……何よりも、この晴信にとって、唯一無二の、忠臣よ」
その間にも戦は続いており、前線では膠着状態が続いていた。
血の匂いが、風に乗って運ばれ、鼻腔を刺激する。
「しかし、海野の者ども……実に見事な戦いぶり」
晴信はようやく戦場に視線を戻した。
彼の瞳には、圧倒的な大軍を相手に一歩も引かず、巧みな用兵で連合軍を翻弄する海野勢の姿が、はっきりと映っていた。
押そうとすれば、波のように引き、被害を最小限に抑え。
攻める時も、決して深追いせず、寡勢の戦いを真に理解した用兵術。
これまで、海野領で繰り広げられてきた楽な戦いが、まるで嘘のようだった。
敵大将の采配もさることながら、兵の扱いにも長けた有能な助役がいるのだろう。
「嗚呼、惜しい。この戦力差で、一歩も引かず、むしろ、押し込むほどの智謀を持つ将……。是非とも、我が配下に欲しかった」
当初、この圧倒的な戦力差で野戦という愚策を選んだ敵方に、晴信は大いに落胆した。
しかし、蓋を開けてみればこの有様。
戦というものは予想通りにはいかないと理解してはいるが、これほどまでに覆されるとは。
「あと、一月……いや、半月でも遅ければ……この俺が、『事を成した後』でさえあれば……。海野の優秀な将を、全て取り込み、我が配下として、思う存分、使い倒せたものを」
意味深な言葉を、晴信が独りごちる。
飯富虎昌はその言葉に僅かに目を細めた。しかし、何も言わずただ主君に付き従うのみ。
「だが、天は我に味方せず。運命というのも、残酷なものだ」
その時、諏訪の軍勢の方角から兵の雄叫びと、けたたましい轟音が鳴り響いた。
見ると、海野勢が起死回生の一撃を仕掛けようと、騎兵の一団が、諏訪の本陣目掛けて突撃している。
その勢いは、まさに怒涛の如く──。
それを見て、晴信は心の底から感嘆した。
──素晴らしい。
この状況下で、戦況をひっくり返す方法は、今を置いて他にない。
手薄である諏訪の本陣を攻め、諏訪頼重を討ち取り、その勢いのまま我が武田の本陣も、崩すつもりなのだろう。
村上の軍勢の方にも、陽動として、攻勢が仕掛けられているかもしれない。
その鮮やかで、豪胆な用兵に晴信の心が高揚した。
「若様」
飯富虎昌は、流石に、あの捨て身の突撃を、看過できないと判断したのだろう。
何かを言おうと、口を開きかけた。
「分かっておる。流石にあれを放置すれば、我が武田にも少なからぬ被害が出るやもしれぬ」
そして、海野の騎兵に蹂躙され、悲鳴を上げながら散りゆく諏訪の軍勢を、冷たい目で見下ろしながら静かに告げた。
「──さぁ、そろそろ、舞台から降りてもらうとしようか。海野の誉れ高き将よ」