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第十八幕 運命の奔流、武士の性

海野平の合戦は日没が迫る中、依然として一進一退を繰り返していた。

頼昌が先頭に立ち愛馬を鞭打ち、雷霆の如き勢いで村上軍の陣を幾度となく抉る。

幸義もまた、鬼神の如き働きで槍を振るい、諏訪勢を縦横無尽に翻弄する。


しかし、その奮戦も焼け石に水。

薄氷を踏むような紙一重の状況の中、海野の兵たちは懸命に海野の若大将の命に従い、血路を切り開こうと必死に足掻いていた。

その勇敢な抵抗も、やがて限界を迎えようとしていた。

押し寄せる大軍の前に徐々に陣形が崩れ始め、兵士たちの疲労の色が濃くなっていく。

このままでは全滅は、時間の問題……。

頼昌は焦燥感を押し殺しながら、現状を冷静に分析していた。


「義兄上!」

「……ああ、気付いておるわ」


頼昌と幸義が並んで馬を駆りながら、互いに声を掛け合った。

言葉は少ない。しかし、その短い言葉の中に長年の信頼関係と、揺るぎない絆が凝縮されていた。

二人の瞳には敵連合軍の、奇妙な「綻び」がはっきりと映っていた。

両翼の村上、諏訪の軍だけが突出。中央の武田軍は守りを固め、進軍速度を極端に遅らせている。


──その歪んだ陣形こそが、この絶望的な状況を覆す唯一の活路。

勝利の鍵がそこに潜んでいる。


「義兄上、この右馬之助、命に代えても、活路を開いてみせましょうぞ! 諏訪の御大将、諏訪頼重の首を討ち取る好機、今を置いて他に無し! 我が真田の騎馬隊、必ずや、敵陣を突破してみせまする!」


頼昌の、悲壮なまでの決意に、幸義の身体は、一瞬、硬直した。


言うは易く行うは難し。いくら敵の陣形に乱れがあるとはいえ、圧倒的な寡勢で騎兵突撃を敢行するのは、あまりにも無謀な賭け。

本来、騎兵とは敵軍勢の側面から奇襲を仕掛けるものであり、決して正面から無闇に突撃する兵種ではない。

しかし、この混沌とした戦場であれば、それも不可能ではない。そして、それを敢行するならば今を置いて他に機会はない……。


だが、成功の可能性は極めて低い。そのことを、幸義は誰よりも理解していた。

だからこそ大切な義弟を、危険な戦場へ送り出したくはなかった。


「──!」


だがその時幸、義は頼昌の瞳を見た。

その瞳には燃え盛る炎のような、決死の覚悟が宿っていた。

覚悟を決めた、武者の揺るぎない強い光。

それを見たからには、もはや是を唱えるしか道はなかった。


「右馬之助。行け。必ず、生きて帰還せよ。諏訪頼重の首を、取ってみせよ!」


友を、そして家族を戦場へ送り出す苦渋の決断。

その言葉を聞いた頼昌は覚悟を決めた様子で、力強く頷いた。


「必ずや、御期待に応えてみせまする!」


頼昌は、自軍の騎兵を再編するため、馬を激しく打ち、自陣へと駆け戻っていった。

その力強い背中を見送りながら、幸義の手は小さく震えていた。




自陣に辿り着いた頼昌は、残った兵たちを鼓舞するように怒号を飛ばした。


「者ども! 馬を揃えよ! 我らの突撃は、海野の命運を左右する! 一騎たりとも、置いていくな!」


その時、一騎の騎馬が砂塵を巻き上げながら、頼昌に近づいてくる。

馬に跨り、雄々しく槍を掲げているのは、若武者・真田源太左衛門幸綱。


「父上!」


その顔には、安堵の色は一切ない。

あるのは、滾るような昂揚感と、武士としての強い決意。

数か月前まであどけなさの残る青年だった息子は、今や戦場を駆け抜けてきた歴戦の武士の顔をしている。

幾つもの首級を上げたのであろう。その身に纏った鎧は、返り血で真っ赤に染まっている。


「源太左衛門……」


その姿を見て、頼昌の顔に、後悔にも似た、複雑な感情が浮かんだ。

これが、普通の戦ならば、勝ち戦ならば。源太左衛門には、多大な栄誉が与えられ、海野の諸将に、その武勇を認められ、ゆくゆくは、然るべき地位に就けるはずだった。

しかし、現実は、無情にも、その希望を打ち砕く。

本当は源太左衛門を、この無謀とも言える突撃に連れていきたくない。しかし、自らの息子だけを避難させるというのはあまりに武士らしくない。

頼昌は、思わず、俯いた。

そんな頼昌の様子に気づいた源太左衛門は、いつもの快活な表情を浮かべ、叫ぶように言った。


「何を、息子の顔を見て、意気消沈しておられるのです! そんな顔では、武士の名が廃るというもの! さぁ、父上! 貴殿の息子の晴れ姿、しかと、見届けてくだされ!」


源太左衛門は、その若く逞しい肉体を誇示するかのように、馬上で豪快に槍を振り回した。

その姿は希望に満ち溢れ、眩いばかりに輝いていた。


「……っ!」


頼昌はその姿に見惚れ、感嘆の息を漏らす。

ついこの間、元服を迎えたばかりだと思っていたのに。

いつの間にか、こんなにも精悍な一人前の武士になっていたのか。

頼昌の胸に、言いようのない感動が込み上げてきた。

同時に、湧き上がる父としての誇り。


「共に、駆けるか」


その言葉に、源太左衛門は、満面の笑みを浮かべ、威勢よく、答えた。


「応!」


源太左衛門とて聡明な青年。

これから自らが赴く場所が死地であることなど、十分に理解している。

源太左衛門の若い身体を突き動かしているのは、恐怖心などではなかった。

真田の家に生まれた、武士としての誇り。

領民を守り、家名を上げねばならないという強い使命感が、その心臓を激しく鼓舞していた。


「父上。俺はな!帰ったら必ず、胡蝶にこの光景を事細かに語って聞かせてやるのだ! あやつはきっと、悔しさに歯を食いしばって『俺も、元服さえしていれば、もっと、父上の役に立てたのに!』などと見え透いた負け惜しみを言うに違いない!」


だからこそ……。

そんなことを臆面もなく口にする息子を見て、頼昌は誇らしさと、父としての無念さを同時に感じていた。

立派に成長した息子を、誇らしく思う。しかし、その才能を十分に開花させてやれないことを、申し訳なく思う。

相反する感情が、頼昌の心を激しく揺さぶった。


「そうだな。琴は胡蝶を宥めながらも、お前と胡蝶の子供じみた喧嘩を微笑んで見ているに違いない」


頼昌の脳裏に、琴ともう一人の息子、胡蝶の姿が鮮やかに浮かんだ。

そんなありふれた日常の風景が、今は酷く恋しかった。


いつしか父と息子の語らいは終わり、静寂が辺りを包み込んでいた。

目を向けると、海野の騎兵たちは出撃の準備を終え、頼昌の号令を今か今かと待ち構えている。

皆一様に、覚悟を決めた精悍な顔つきをしていた。


「さぁ、者ども! 海野の勇敢なる武士たちよ! 我らの土地を汚す、卑劣なる侵略者どもに、武士の意地を見せつけてくれようではないか!」


頼昌の魂を震わすような叫び声が、轟いた。

その声に呼応するように、集まった騎兵たちが一斉に鬨の声を上げる。


「応っ!」


頼昌は天を衝くかのように、雄々しく槍を掲げ愛馬を激しく蹴り上げた。

源太左衛門もまた、同じように槍を掲げ騎馬を駆り、雷霆の如き勢いで駆け出した。

それに呼応し、百騎ほどの騎馬隊が砂塵を巻き上げながら、怒涛の如く後続する。


「この槍で、諏訪と村上を貫いてくれるわ!」

「儂は、武田の首魁を討ち取ってくれよう!」


彼らの胸には武士としての、熱い意地が燃え盛っていた。

海野家への報恩の想い。何の罪もない領民を苦しめる侵略者たちへの、激しい憤り。

それら全ての感情が、彼らの身体を突き動かし、死をも恐れぬ、強さを与えていた。


夕日に照らされた海野の騎馬隊は、血路を切り開くべく大軍へと駆け出した。


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