地を揺るがす轟音。
頼昌を先頭とした海野の騎兵隊が巨大な刃のように、諏訪の軍勢を切り裂きながら、突き進む。
「命が惜しければ道を開けよ! 」
頼昌は鬼のような形相で叫んだ。
その声は戦場の喧騒を切り裂き、諏訪の兵たちの心胆を寒からしめる。
「さぁさぁ! この槍捌き、しかと見届けよ! 冥土の土産に語り継ぐが良い!」
源太左衛門もまた、父に寸分違わず追従し、愛馬と共に縦横無尽に駆け巡り、槍を振るった。
諏訪の兵たちはその気迫に呑まれ、恐怖に顔を歪め次々と後退していく。
「き、騎馬隊だ! 止めろ! 止めろ!」
諏訪の指揮官が血相を変え、必死に叫んだ。だが兵たちは恐怖に足が竦み、槍を構えることすらできない。
わずかに残った勇気ある兵たちが、槍衾を築き立ち向かおうとする。
しかし騎馬隊の圧倒的な突進力の前に、為す術もなく薙ぎ倒され、馬蹄の下に消えていった。
「く、おのれ!海野の、屍どもめ!ならば、矢を浴びせい!」
矢が降り注ぎ、仲間が次々と馬から振り落とされようとも、海野の騎兵たちは一切躊躇しない。
全てを捨て、全てを賭け、ただひたすらに突き進む。
「進め、進め!今こそ好機!」
彼らの視界の先には、諏訪の旗がはっきりと映っていた。
──あの旗印の下に、諏訪の大将がいる。頼昌の瞳が獲物を狙う猛禽のように、鋭く煌めいた。
見渡す限りの、敵、敵、敵。四方八方から、槍が突き出され、矢が降り注ぐ。
それでも頼昌は一切怯まない。恐れることなく、ひたすら前へ前へと、馬を走らせる。
「騎馬を食い止めよ!御屋形様の元へと行かせるな!」
足軽の槍によって、仲間が一人、また一人と無情にも馬から突き落とされていく。
しかし彼らは、最後まで武士としての誇りを手放すことはなかった。
仲間の士気を決して下げまいと悲鳴一つ上げず、静かに落馬し、そのまま命の限り敵に食らいつき、道連れにする。
「おお……なんと、勇壮な、散り際か!」
頼昌のすぐ後ろを駆ける源太左衛門は、仲間の壮絶な最期を目撃し、深く感動していた。
最期まで武士として死力を尽くし、命の限り、舞い散る桜のように、華麗に散っていく。
武士とはかくあるべきだと、教えられた気がした。
自分もあのように、潔く散りたい。散るならば、華々しく散りたい。
そう、願った。
しかし、ふと。
源太左衛門の脳裏に、兄弟のような存在の……胡蝶の端麗な顔が、鮮明に蘇った。
「──」
出立のあの日。
『必ず、生きて、帰る』
そう、約束した。
その時胡蝶が見せた不安げな表情が、源太左衛門の心を締め付ける。
「許せ、胡蝶。どうやら、お前との約束は、反故になりそうだ……」
仲間が次々と脱落していく中、源太左衛門は自嘲気味に小さく呟いた。
その時であった。
「!」
戦場を疾走する頼昌と源太左衛門の視界の端に、何かが紅く煌めいた。
地鳴りのような轟音を響かせ、土煙を上げ、諏訪の軍勢を草を刈るように薙ぎ倒しながら、こちらへ向かってくる一団。
海野の援軍ではない。そんなものは、存在しない。
それは……
「武田の騎兵……!? な、何故、我らまで!」
「き、貴様ら、正気か!? 我らを、巻き添えにするつもりか!?」
「避けろ! 避けろ! 巻き込まれるぞ!」
赤い鎧で統一された、精強なる武田の騎兵隊。
先頭を駆ける武将の赤備えが陽光に照らされ、燃え盛る炎のように輝いている。
味方であるはずの諏訪の軍勢を容赦なく蹴散らしながら、一直線に頼昌率いる海野の騎兵隊へ迫ってきていた。
武田の騎馬隊に馬蹄で踏み潰され、悲鳴を上げる諏訪の兵たちの阿鼻叫喚。
「武田の、騎馬隊……な、なんという突進力……!」
海野の騎兵と比べても、その速さ、力強さは明らかに桁違いであった。
頼昌の瞳が動揺に大きく揺れ動く。
信じ難いことに、彼らは諏訪の兵を雑草のように薙ぎ倒し、血の海を乗り越え、そこが無人の平野であるかのように悠然と疾走してくるのだ。
「雑兵風情が我らの行く手を阻むな! 疾く失せい!」
先頭を駆る、屈強な体躯の武将の、鮮烈な朱色の槍が無情に振るわれた。
一振りするだけで、諏訪の兵が、紙屑のように吹き飛ばされ絶命する。
尋常ならざる武田騎馬隊の圧倒的な力に、海野の騎兵も言葉を失い、諏訪の兵は恐怖に震え上がり、悲鳴を上げる。
味方であるはずの同盟軍の兵を、塵芥のように薙ぎ倒し、ただ任務を遂行せんとする殺気に満ちた気迫。
その異様な光景に戦場全体が、恐れ慄いた。
「父上!」
頼昌の前に、源太左衛門の駆る騎馬が躍り出た。
「──」
その一瞬、父と息子の視線が交錯する。
源太左衛門の瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
その覚悟をしかと受け止めた頼昌は、戸惑いを押し殺し、小さく頷いた。
ほんの一瞬。
そう、ほんの一瞬であったが、その刹那には数十年間の様々な想いが、凝縮されていた。
「武田の赤備え、相手にとって不足なし! 」
「若様! 我等も、共に行きまする!」
源太左衛門と数人の屈強な騎兵が、武田の騎馬隊へ果敢に挑んでいく。
父、頼昌を、そして仲間を前に進ませる為に。
それを阻む武田の騎兵の進軍を少しでも遅らせようと、自らの命を犠牲にする覚悟で。
「……」
頼昌は何も言わなかった。
ただ、息子と部下たちを誇らしく思った。
彼らの勇敢な行動は、海野の……真田の武士の誇りを体現している。
その姿を目に焼き付けながら、頼昌は再び愛馬を走らせた。
去り行く父の背を見送りながら、源太左衛門は、数人の騎兵と共に武田の赤備えへ突貫した。
眼前に迫る、赤い軍勢。血の海を彷彿とさせる軍勢が凄まじい気迫で、自分たちを飲み込もうと迫ってくる。
「……っ」
心臓が、激しく、脈打った。
全身の血が沸騰し、武者震いが止まらない。
しかし、それも、ほんの一瞬。
源太左衛門の心は、すぐに凪のように、静まり返った。
そして──目を閉じた。
敵を前にして、目を瞑るなど武士にあるまじき愚行。
しかし源太左衛門の脳裏には、家族の温かい笑顔が鮮やかに浮かんでいた。
母、琴の優しさに満ちた微笑み。弟、虎千代の無邪気な笑顔。そして、何よりも胡蝶の憂いを帯びた美しい顔。
郷のみんなと、桜並木を歩いた日のこと。川辺で、を焼いて食べた日のこと。
秋祭りでは夜通し、踊り明かしたこと。数々の思い出が、走馬灯のように、駆け巡った。
そしてゆっくりと目を開けた。その瞳には先程までの迷いは微塵もなかった。
宿っていたのは、死をも恐れぬ武士の強い光。鋼のように研ぎ澄まされた覚悟。
静かに力強く、武田の軍勢を射抜いた。
「我こそは真田源太左衛門幸綱! 武田の赤備え、何するものぞ! 貴様ら如きに、この真田の槍を、止めることなど、断じて、不可能!」
鬼のような、赤い騎兵の群れ。
その圧倒的な迫力に臆することなく、果敢に立ち向かう源太左衛門の姿に、海野の騎兵たちは大いに鼓舞された。
源太左衛門の勇猛な姿に呼応し、彼らの士気も最高潮に達した。
「なんと勇敢な若者よ。海野方にあのような者がいようとは」
それと同時に、武田の騎兵の強者たちも源太左衛門の並外れた胆力に、舌を巻いた。
その心中には武士として源太左衛門を認め、敬意を抱いている気持ちがあった。
敵ながら、天晴。武士として、敬意を抱かざるを得なかった。
しかし、ここは戦場。情もなにもなく、あるのはただ命の奪い合いだけ。
そして、武田の騎兵の先頭を走る巨躯の武将が、誇らしげに朱塗りの槍を天高く掲げ、源太左衛門の勇気を称えるように高らかに名乗りを上げた。
「若武者よ、見事な心意気である! その名をしかと記憶に刻もう! 我こそは武田家家臣、飯富兵部少輔虎昌!」
その声は戦場を震わせ、源太左衛門の胸に深く突き刺さった。
武田の精鋭中の精鋭。数多の戦場を駆け抜け、その名を轟かせてきた歴戦の勇将。
一目見ただけで、源太左衛門は本能的に悟った。
自分とはまるで格が違う。経験も、練度も、そして、武力も……全てにおいて、遥かに凌駕している。
しかし、源太左衛門は少しも怯むことなく、朗らかに笑った。
「上等だ! 腕自慢の剛の者と手合わせできるとは、光栄の至り! いざ、尋常に、勝負!」
源太左衛門は雄叫びを上げながら、飯富虎昌率いる武田の騎兵隊へ真っ直ぐに突貫していった。
大地が揺れ、空気が震えた。二人が率いる騎兵隊は、互いの雄叫びを合図に、激しくぶつかり合った。
鋼と鋼がぶつかり合い、火花を散らす。人馬の絶叫が、戦場にこだまする。
凄まじい衝撃と共に、源太左衛門の身体が、大きく揺さぶられた。
「──!」
あらゆる音が遠ざかり、時が緩やかに流れていくような感覚。
源太左衛門の視界に朱塗りの槍が迫り──刹那、空が妙に青く感じられた。
胡蝶との約束が、風のように心を掠める。
馬上から見下ろす大地は、血に染まりながらも、どこか懐かしく思えた。
「胡蝶……」
か細い声が、静かに戦場に響き渡った。