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第二十幕 海野の落日、欺瞞の喝采

海野幸義は、阿鼻叫喚の戦場を燃え盛る炎のような瞳で見渡し、全軍に檄を飛ばした。


「全軍、突撃せよ! 騎兵たちの決死の突撃を援護するのだ! 一歩でも、半歩でも良い! 戦線を押し上げよ!」


少しでも、頼昌率いる騎兵が、敵大将へと辿り着く可能性を上げるために。

海野幸義は自らの身を顧みず、全軍に突撃を命じた。その言葉に海野の軍勢は、驚くほど忠実に応えた。


「これが最後の押し上げだ! 皆、命を燃やすんじゃあ! 」


老兵に至るまで、全ての兵士が悲壮な覚悟を決め刀を握りしめた。命を散らす覚悟で突撃した真田の騎兵たちの負担を減らすために。

彼らはこの海野の地を守るため、必死に戦線を押し上げた。


「くそ、海野の兵どもめ……! まだ、こんな力が残っておるとは……!」

「このままでは、押し切られるぞ! なんとしても、食い止めろ!」


海野の兵たちの最後の輝きのような捨て身の突撃に、諏訪と村上の兵士たちは完全に圧されていた。

矢が雨あられと降り注ぎ、肉を穿ち、骨を砕こうとも、彼らは、一歩も引かない。

槍が喉を貫こうとも、矢に目を穿たれようとも、敵を道連れにしようと最後の力を振り絞り刀を振るう。

諏訪と村上の兵士たちは、恐怖に顔を歪め後退を余儀なくされた。


「さぁさぁ! 海野の大将は、ここにいるぞ! 我こそは、海野幸義! この首、欲しければ、いつでも、掛かってくるが良い!」


そして、海野の兵たちに混じって、自らも最前線で刀を振るい、死闘を繰り広げる海野の若き大将、幸義の姿があった。

総大将が自ら先頭に立ち、雑兵と共に血を浴びるなど常識では考えられない。

しかし、その姿は、まさに本物の武士そのもの。その勇猛果敢な姿に、味方の兵士たちは大いに鼓舞された。


──殿を、お守りしなければ。

──殿を、死なせてはならない。


その一心で、海野の兵たちは死に物狂いで戦った。

幸義を筆頭に、兵たちは信じられないほどの力を発揮し、戦線を押し上げていく。

村上と諏訪の軍は、瞬く間に圧され、陣形を崩し崩れていく。


「いいぞ! もっと押せ! もっと押せ! 我らの意地を、魂を!奴らに見せつけてやるのだ!」


無論、これが一時的な情勢に過ぎないということは、幸義自身が誰よりも理解していた。

この勢いは、所詮は幻──。いつまでも続くはずがない。

相手方もすぐに後続の兵を投入し、陣形を立て直し反撃に転じてくるだろう。

そして海野軍は再び押し込まれ、やがて四方を囲まれ、絶望的な状況に陥るだろう。


しかし……それで、良いのだ。


敵本陣近くの戦力を投入すればするほど、頼昌率いる騎兵の突撃の成功が確かなものになる。

海野軍の総大将である自分に敵の注意を惹きつけ、兵を群がらせれば群がらせるほど、頼昌が敵の大将を討ち取れる、確率が高くなる。

それが幸義の描いた、勝利への道筋。それが、海野家を救う唯一の希望。

それこそが総大将としての自分の役目。


「わ、若様……! 儂はお先に、逝きまする……! 」


その時、一人の老兵が、幸義に、そう告げ、満身創痍の体で、敵へと、突撃していった。

彼の脇腹は敵の槍で無残に抉られ、もはや助かる見込みは万が一にもない。

しかし、老兵は痛みも死への恐怖も微塵も感じさせず、最後の力を振り絞り、敵へと体当たりし、道連れにしようとする。


その老兵は、幸義が幼い頃から親のように慕ってきた武士だった。

幸義にとって彼は親のような、存在だった。

その老兵が、今目の前で命を散らそうとしている。


「 爺……見事だ……俺もすぐに、逝く! 待っておれい!」


幸義は涙を流しながら叫んだ。

そして愛刀を握りしめ、再び死闘に身を投じた。


「若様! わたくしの最期、どうか見届けてくださいませ!」


次には幸義の小姓である、若い武士が刀を構えそう言った。

彼の端麗な顔は、泥と血にまみれ、片目には、敵の放った矢が深々と突き刺さっている。

悲惨としか言いようのない、姿。しかし、彼の残った片方の瞳は、不思議なほど輝いていた。

今まで見たどの光景よりも美しく、そして強く幸義の心を捉えた。


自分よりも、遥かに若い小姓が、数多の敵兵に、揉まれながらも、必死に、抗っている。

傷だらけの体で刀を振り、槍を弾き、精一杯抵抗している。

しかし、多勢に無勢。やがて力尽き、敵兵の槍に体を貫かれた。

鮮血が、花火のように勢いよく噴き出す。それでも彼は倒れることを拒んだ。


「わ、若様……前に……」


槍を突き刺した敵兵にしがみつき、離れようとしない。

最期の力を振り絞り、懐に隠し持っていた短刀を抜き、敵兵の首筋に突き刺した。

そして力尽き、首を切り落とされ、泥濘の中に崩れ落ちた。


「おぉ、彦助……! お前は最期まで、美しい……!俺には勿体ない、傍仕えよ……!」


若者の壮絶な散り際を目に焼き付けた幸義は、湧き上がる悲しみを力に変え、次々と敵兵を薙ぎ倒しながら前進を続けた。


「若様! お先に、失礼仕ります!」

「若様! 海野の御為に!」


次々と命の華を散らすように。懇意にしてきた旧知の仲の者たちが、散っていく。

その燃え盛る命の渦の中に在って、幸義は奇妙なほど清々しい満足感を覚えていた。


──ああ、これが、武士としての、生き様か。


幸義は最初から生きて帰る気など毛頭なかった。

自分がここで、武田、諏訪、村上の大軍勢を食い止め、敵の戦力を少しでも削ることができれば……海野家が上野の地に、逃れる時間を稼ぐことができる。

そして、この戦で海野の武士としての誇りを示しておけば、関東管領・山内上杉家が海野という武家の価値を認め、再興の機会を与えてくれるかもしれない。

その為ならば、自身の命などいらぬ。


そうだ。

自分は海野家の嫡男として生まれた。ならば、その責務を全うするまで。

海野の血を未来へ繋ぐために。そのためにこの命を使うのだ。

この身は海野家に捧げられた、生贄。その覚悟を今、示さねば。


「進め!進め!命を惜しむな!名を惜しめ!」


頼昌は自分を逃がすために、命を懸けて敵陣を突破しようとしている。

そのことを幸義は痛いほど理解していた。

しかし、幸義もまた海野家の存続という大義の為に、この身を捧げる覚悟を決めている。

だからこそ、愛する友に心の中で深く詫びた。


──お前の献身を、無駄にするわけではない。しかし、俺もお前と一緒に、ここで華々しく散るつもりなのだ。


「ひ、引け! こんなところで、死にたくねぇ!」

「もう、付き合ってられねぇよ……! 化け物か、こいつら……!」


海野の兵たちの死をも厭わぬ、狂気にも似た気迫に村上と諏訪の兵たちは、恐れをなし次々と、逃げ出していく。

その姿は烏合の衆と化した、ただの群れ。それを見て、幸義は、好機だと判断した。


──あと、少し。


──あと、少しだけ前進し、この混乱を長引かせることができれば。


頼昌の騎兵隊が、諏訪の大将首を討ち取るという、目的を達成できる。

そうすれば、海野という武家の価値を示し、ここで負けたとしても、後に繋がる──。

全てはそのために。全ての犠牲を無駄にしないために。

最期の気力を振り絞り、残り僅かとなった海野の軍勢を、鼓舞し、更に前進しようとしたその瞬間。


「……!」


幸義の視界に、異様な光景が飛び込んできた。

赤い鎧を着た精強な徒歩武者の軍勢と、その前方に磐石の構えで、整然と列する足軽の軍勢。

それは赤い壁のように、幸義の行く手を阻んでいた。


村上や諏訪の、烏合の衆とは一線を画す、精強で規律正しい軍勢の威容。

その姿はまさに鉄壁。いかなる攻撃も跳ね返すであろう、堅牢さを感じさせる光景であった。

そして、その軍勢が掲げる旗には──。


「武田の、兵か……!」


赤地に、黒い菱形を四つ並べた武田菱が夕日に照らされ、不気味に翻っていた。

その旗印を見た瞬間、幸義は全身を冷水で浴びせられたような、衝撃を受けた。

今まで戦ってきた、どの兵とも違う。この軍勢は、歴戦の武将たちが率いる、精鋭中の精鋭。

その圧倒的な存在感は、戦場全体を、支配していた。

今まで後方で様子を見ていた軍勢が、ついに前進してきたのだ。


「槍衾、前へ!」

「応っ!」


武田軍の怒号と共に、鉄壁の槍衾が一斉に前進を開始した。

海野の軍勢もまた、最後の力を振り絞り必死に前進しようとする。

しかし、武田の足軽隊は完璧な連携で海野の兵たちの突撃をことごとく食い止めた。

近づくもの全てを、容赦なく、串刺しにしていく。


「ぐっ……! 何たる重さ……!?」

「お、おのれ……!武田め!」


海野の兵たちは次々と槍衾に、突き刺され絶命していく。

武田の槍の穂先の前には、覚悟も、意志も、全てが貫かれた。


「なんと、精強な……! これほどの軍勢が、存在したとは……!」


幸義は目の前で繰り広げられる惨劇を、信じられない思いで見つめた。

海野の兵たちは勇敢に戦った。死を恐れず、持てる力の限りを尽くし突撃を繰り返した。

しかし、武田の軍勢は、それをいとも容易く、跳ね返した。


それでも海野の兵たちは諦めることなく、死地へと飛び込んでいく。

武田の軍勢に少しでも傷を負わせようと、最後の力を振り絞り、武田の槍衾に、挑み続けた。

その決死の覚悟が功を奏し、武田の槍衾の一画が僅かに、崩れた。

海野の兵たちはその隙を逃さず、一気に突撃を仕掛けようとする。


──しかしそれも、一瞬の出来事。


「二隊、前へ!穴を埋めよ!」


すぐに後続の兵士が崩れた穴を埋め、元通りに鉄壁の槍衾が蘇る。


「お……おぉ……なんという……なんということだ……」


幸義は目の前の光景に圧倒されていた。巨大な壁に立ち向かっているような無力感。

今や完全に勢いを止められた海野の兵たちは、着実にその数を減らしていった。


「囲め!今が好機だ!」


そして、気がつけば海野の兵たちは、態勢を立て直した村上と諏訪の軍勢に、完全に包囲されていた。

四方八方を敵に囲まれ、逃げ場はどこにもない。


「……」


先程までの激しい戦闘が嘘のように、静寂が辺りを包み込んでいた。


風の音。鳥の鳴き声。


そして、兵士たちの荒い息遣いだけが、静かに響き渡る。


大量の槍が四方八方から突きつけられ、もはや幸義たちは、身動き一つ取ることができない。


「!」


その時、幸義はふと気がついた。

武田の鉄壁の布陣の遥か後方に、一人の若武者が騎馬に乗り、自分たちを冷たい瞳で見下ろしている。


「……」


兜の下の精悍な顔つきをした青年。

その顔には感情が一切読み取れない。ただ、冷酷な瞳が幸義たちを見つめているだけ。


暫くの間、見つめ合う二人。

この戦場にあって、それは奇妙な時間であった。しかし、幸義はやがて気がついた。


あの青年の瞳には、何も映っていない。

目の前で繰り広げられている、激戦も。海野の兵たちが見せた、壮絶な覚悟も。

その瞳は虚空を見つめているかのように、どこまでも冷たく、無機質。

その事実に気づいた瞬間、幸義は言いようのない感覚に襲われた。

答えはどこにも、ない。ただ、底知れぬ恐怖だけが、義の心を蝕んでいく。


「海野の兵たちよ。 貴殿らの、奮戦、まこと、見事であった。 誉めてつかわす」


若武者が静かに言葉を紡いだ。

能面のように、感情の起伏が一切感じられない表情と、平坦な声音。

見ているようで、何も見ていない。この戦場の惨状も、兵士たちの覚悟も。

何もかも見透かしているような、冷たい瞳で、何も通していない、ただ俯瞰するだけの眼差し。


──一体、何が、見事だというのか。

──何を、誉めているというのか。

──その、何も見ていない瞳で。


心にもないことを宣う青年に、知らず、刀を握る力が強まった。


「──だが、そろそろ、終わりにしよう。 猿芝居はもう飽きた故に」


そうして、青年──武田晴信が、静かに、手を振りかざした。

瞬間、幸義の周囲で、無数の槍が一斉に動き出した。


(頼昌よ……許せ)


時が緩やかに流れるその刹那、天を仰ぐと、夕陽に赤く染まった空が、不思議なほど美しく感じられた。

最期の瞬間、幸義の脳裏に親友の姿が鮮明に浮かんだ。最期の最期で、力及ばず。

もはや逃げ場なく、四方八方から徐々に迫り来る槍の穂先。


幸義は最後の力を振り絞り、愛刀を高く掲げた。

鮮血に染まった刀身が、夕陽を受けて輝いている。

全身に痛みが走り、視界は血で霞み、力は尽きようとしていた。それでも、刀を下ろすことはなかった。


「海野幸義、ここに在り!最後の雄姿、とくと見よ!」


迫りくる槍の群れを前に、幸義は武士として、最期の一太刀を放つべく刀を振り下ろし──


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