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第二十一幕 空蝉の如く、武士の誇り

息子、源太左衛門は武田の赤備えに向かって行った。

その姿を確かに捉えながらも、頼昌は決して振り返らなかった。


今、為すべきことは、ただ一つ。

諏訪頼重の首を討ち取り、この戦に終止符を打つこと。

それこそが、息子の犠牲を無駄にしない唯一の道。


(源太左衛門……すまぬ。父はお前を救うことができない。せめて、お前の死を無駄にはしない。必ずや諏訪頼重の首を討ち取り、海野を救ってみせよう)


頼昌の心は悲しみと後悔と、決意で激しく揺さぶられていた。

しかし、その全てを押し殺し、ただ前へ前へと馬を走らせた。

風が耳を切り裂くように唸り、血の匂いが鼻腔を刺激する。


「騎馬を止めい!御屋形様の元に向かわせるな!」


迫り来る敵兵の群れ。

しかし頼昌の瞳には、ただ諏訪頼重の首だけが、鮮明に浮かび上がっていた。


「諏訪の犬ども! 道を開けよ!」


頼昌は鬼のような形相で叫んだ。

その声は戦場の喧騒を切り裂き、諏訪の兵たちの心胆を冷えさせる。

頼昌率いる海野の騎兵隊はその勢いを、衰えさせることなく、諏訪の軍勢を蹴散らしながら突き進む。


槍を振るい刀を抜き、敵兵を次々と斬り伏せていく。


諏訪の大将首を討ち取ったところで、生きて帰ることは、もはや、不可能。

それは、頼昌本人が一番分かっている。しかし頼昌の心は、不思議なほどに……凪のように静かだった。

覚悟を決めた武士の心境とは、斯くも静謐なものなのか。

自らの死を、目前にしても、恐怖も後悔も、湧き上がってこない。

ただ成すべきことを、成すのみ。それだけが頼昌の心を、支えていた。


(──静かだ)


戦場の喧騒も、怒号も悲鳴も、何も聞こえない。

頼昌の耳に届くのは、愛馬の蹄の音と自らの呼吸音のみ。

研ぎ澄まされた意識。研ぎ澄まされた感覚。

頼昌はただひたすらに突き進んだ。

諏訪の軍勢を蹴散らし切り裂き、諏訪の陣地奥深くまで侵入していく。

しかし、奥へ行けば行くほど、諏訪の兵の層は厚く、頑強になっていく。

本陣の近くには諏訪の精鋭たちが、控えているのだ。


「ここは通さん!いざ尋常に!」


諏訪の精兵が行く手を阻むたびに、頼昌の騎兵たちは躊躇なく自らの身を挺し、頼昌の前に躍り出て道を切り開こうとする。


「右馬之助様!最期まで、駆け抜けることができ、この命、本望にございます!」


先頭に躍り出た騎兵が槍兵に突っ込み、蜂の巣にされながらも叫んだ。


「 貴方様のような武士にお仕えできたこと、心より誇りに思いますぞ!」


別の騎兵は、頼昌を庇い、矢の雨に打たれ血まみれになりながら、満面の笑みを浮かべ、そのまま身体を崩し落馬する。

一人、また、一人と。騎兵は命を散らし、脱落していく。


それでも、彼らの顔には、後悔の色は、微塵もなかった。ただ、こうして戦場で死ねることを、誇りに思っている。

そして息子、源太左衛門を犠牲にし、それでも尚、前へ進もうとする頼昌の武士としての魂……。

その生き様に心揺さぶられ、突き動かされているからこそ、彼らはこうして躊躇いもなく、進んで犠牲になるのだ。


「誰か奴を止めい!このままでは旗印が倒されるぞ!」


愛馬を走らせ、前へ。数多の屍を乗り越え、ただひたすらに。

その先にこそ、武士の誉れがある。


その時であった。


「……!」


頼昌の背後から、地鳴りのような轟音と共に、騎馬の軍勢が迫ってくる音がけたたましく響き渡った。

振り返るまでもない。赤い鎧に身を包んだ、武田の騎馬軍団。

源太左衛門を討ち果たし、追撃してきたのだ。彼らは圧倒的な速度で、頼昌率いる騎馬隊に迫ってくる。


「奴らを、行かせるな! 今、ここで、諏訪の大将を討たれてはならぬ!」


先頭を駆ける、朱槍を掲げた巨躯の武将が怒号を飛ばす。

その声を聞き、頼昌は、息子・源太左衛門が武田勢に討ち取られたことを悟った。


(源太左衛門……先に、逝ったか。……だが、心配するな。すぐに、父もそちらへ行く。お前を一人にはさせん)


頼昌は溢れ出す涙をぐっと堪え、愛馬を激しく打ち、脇目も振らずひたすら疾走した。

彼の目に映るのは、すぐそこにまで迫った、諏訪の御大将の旗印だけ。

諏訪梶葉の紋が鮮やかに染め抜かれた、あの旗印こそ、武将の、所在を知らせるもの。


武将の命とも言える、あの下に諏訪頼重が必ずいる──!


背後から迫る、武田の騎兵の足音が、すぐそこまで、近づいてくる。

遂に、地響きのような轟音を立てながら、赤い軍勢が横に並び、並走を始めた。


「落ちろ!」


武田の騎兵が容赦なく、槍を繰り出してくる。その槍は鋭く、頼昌の命を確実に奪おうとしていた。

頼昌は研ぎ澄まされた感覚で、迫り来る槍を紙一重で躱し、その勢いのまま渾身の力を込め、槍を突き出した。

敵方の武者は咄嗟に身を躱そうとしたが、僅かに間に合わず、鎧の隙間を槍が貫いた。


「ぐぁっ!」


絶叫と共に武田の武者は、馬から力なく墜落していった。

しかし、次々と新たな敵が襲い掛かってくる。

頼昌の配下の騎兵たちも必死に、武田の騎兵に応戦するが、多勢に無勢。

数で勝る武田の騎兵に徐々に圧され、討ち取られていく。

それでも海野の武士たちは決して、諦めなかった。自らの命を顧みず、ただ頼昌のために道を切り開こうとする。


「くっ……! 間に合わぬ……!」


武田方の騎兵が焦燥感を露わに呟いた。

もはや頼昌は、諏訪の本陣に突入寸前。

諏訪頼重のいる場所まで、あとわずか。陣幕が張り巡らされたあの奥に、諏訪の大将がいる──。


頼昌の瞳が決意と覚悟を宿し、強く煌めいた。


「止まれ! 止まれ! 決して、御屋形様に、近づけるな!」

「おのれ、止まれぃーっ!!」


諏訪の、そして武田の兵たちが必死に叫んだ。しかし、その声も虚しく空を切るばかり。

頼昌の勢いは、誰にも、止めることはできない。

もはや諏訪の兵たちは為す術もなく、見ていることしかできなかった。


「諏訪頼重!その首、貰い受ける──!」


遂に頼昌の騎馬が陣幕を破り、旗印の下へと辿り着き──。


「──な……に……?」


それは、一体、誰の呟きだったのだろうか。

戦場の喧騒の中に紛れ、誰の耳にも届くことなく、消え去った、小さな小さな、呟き。


頼昌が、陣幕をなぎ倒し、飛び込んだその先にあったのは──

がらんどうとした、空間だった。大将も、兵士の姿も、何もない。


ただ、旗印を支える、旗持ちが一人、青ざめた顔で震えながら立ち尽くしているだけ。

あたりに響き渡るのは、静寂のみ。

風に吹かれた諏訪梶葉の旗印が、嘲笑うかのように虚しく揺らめいている。


──旗印とは、戦場において、大将の居場所を示す、重要な標。

それを、下げることは、すなわち、敗北を認めること。

あるいは、その下から逃亡することは、武士にとって何よりも恥ずべき行為であり、武将としての誇りを完全に失墜させるもの。


だというのに、肝心の大将は、どこにもいない。

頼昌の槍が、振るう場所を失い、力なく、ぶら下がった。


「──何故、大将がおらぬ……?」


響き渡る声は、頼昌の声では、なかった。

背後から追い付いた、武田の騎兵──飯富虎昌の声だった。



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