「──何故、大将がおらぬ……?」
響き渡る声は、頼昌の声では、なかった。
背後から追い付いた、武田の騎兵──飯富虎昌の声だった。
飯富虎昌は無人の本陣と、無惨に靡く旗印を見て、驚愕に言葉を失った。
瞳を極限まで開き、肩をわなわなと震わせ、信じられないものを見るかのように、周囲を見回している。
「何故大将が、いない! 一体何処へ、消えうせた!?」
その声は怒りとも悲しみとも、失望ともつかない複雑な感情が入り混じった、慟哭にも似た叫び。
頼昌ではなく、飯富虎昌が絞り出した叫び。
尋常ならざる歴戦の武将の殺気を一身に浴びせられた旗持ちは、恐怖に震え上がり、掠れた声で震えながら答えた。
「御屋形様は……て、撤退を……」
その言葉を聞いた瞬間、飯富虎昌の全身から怒気が噴出した。
目は血走り、今にも爆発しそうなほどの怒りを堪え、叫ぶ。
「撤退……?撤退だと……!? 本陣の旗印を捨て置き、尻尾を巻いて戦場から逃げ帰るのを撤退と申すか!? 」
圧倒的な大軍を率いながら、敵の騎兵の突撃に恐れ慄き、本陣を捨て逃げ出す。
それは、武士としての誇りを土足で踏みにじるような、言語道断の愚行。武士として、決して許すことのできない、恥ずべき行為。
飯富虎昌は怒りを通り越して、呆然自失としていた。
そしてそれは、飯富虎昌だけではなかった。彼の後ろに付き従う武田の武士たちも、同じであった。
「なんという臆病者!大将が自らの命惜しさに家臣を捨て、旗を捨て、一目散に逃げ出すか!」
「武士の名を汚す、卑劣な所業よ……」
諏訪の大将を討たれては困るはずの武田の武士たちですら、その余りにも情けない行いには、怒りを隠せなかった。
そうして、武田と諏訪の兵たちが戸惑いと怒りを露わにする、その最中。
「……」
不意に、頼昌が静かに馬から降り立った。
その身に纏う鎧は血と泥に塗れ、満身創痍。先程までの勢いは、見る影もない。
本陣に突入できたのは頼昌ただ一人。他の海野の騎兵たちは皆、武田と諏訪の軍勢に討ち取られてしまった。
風が無情にも本陣を吹き抜け、埃を巻き上げる。諏訪梶葉の旗が、所在なさげに揺れている。
兵士たちは頼昌を一突きで仕留める絶好の機会であるというのに、誰も動くことができない。
何故なら、武士として理解してしまっているからだ。
主家のため、武士としての誇りの為に果敢に突撃した、その先に待ち受けていたのが……この空虚な結末という無念さを。
ここまで死力を尽くし、戦い抜いてきた男の最期を汚すことが憚られた。
敵である武田の兵士ですら、頼昌に対し哀れみの念を抱いていた。
武士であるならば、誰もがその無念さを理解できるのだ……。
「海野の将よ。 悪いことは言わぬ。 降伏……っ!?」
そんな哀れな武士に声をかけようとした飯富虎昌。しかし、その言葉は途中で途絶えた。
振り返った頼昌の瞳を見て、言葉を失ってしまったのだ。
「──」
そこにいたのは、哀れな武士でもない、愚かな将でもない。
武士としての誇りと意地を燃やし尽くそうとする、一人の荒武者の姿だった。
「──誰ぞ、おるか! この頼昌と、最期の舞を共に舞ってくれる、剛の者は!」
頼昌は静かに、しかし力強く叫んだ。
その声は静寂を切り裂き、兵士たちの魂を揺さぶった。
天高く掲げられた槍。血に染まり、刃こぼれを起こしているが、その輝きは少しも衰えていない。
そして頼昌の瞳は、春の風のように爽やかで清々しかった。
その瞳に射抜かれた、周囲の武士たちの心が、激しく揺り動かされた。
運命を受け入れ、誇り高く散ろうとするその姿。
恨み言一つ言わず、ただ最期まで武士として在りたいと願う、その強い意志。
それは敵である兵たちの心をも、捉えて離さなかった。
「わ、儂が貴殿の相手を務めさせて頂こう! 海野の武士よ!」
「いや、儂だ! 是非とも、その首、この手で頂戴したい!」
周囲にいた兵たちが、我先にと名乗りを上げた。
その瞳は真剣そのもの。誰もが、頼昌の最期の相手を務め、武士としての誉れを与えたいと願っていた。
この高潔な魂を持つ武士に相応しい、華々しい散り際を見届けたい。
それが彼らの、偽らざる本心だった。
だがその時。轟音と共に、地面が大きく揺れた。
「!」
その音に、全ての者の視線が一点に集中する。
音の震源地にいたのは、巨躯の武田兵──飯富虎昌だった。
「……」
朱槍の石突を、地面に叩きつけたのだ。
騒がしかった周辺は嘘のように静まり返り、全ての音が消え去った。
今はただ、飯富虎昌の姿だけが兵士たちの目に焼き付いている。
「海野の将よ。 もし許されるのであれば……この飯富兵部少輔虎昌と、手合わせさせていただきたい」
飯富虎昌の声が静寂を切り裂き、響き渡った。
だが、飯富虎昌は心の中で激しく後悔していた。一瞬でも彼に降伏を呼びかけようとした、己の不明を恥じていた。
武士ならば、このような状況で降伏などという、無様な真似をするはずがない。
目の前の海野の将のように、最後まで誇りを持ち、意志を貫き通す者こそ真の武人。
虎昌は心からの敬意を込めて、頼昌と対峙した。その巨躯の武士の申し出に、あたりは水を打ったように静まり返った。
「……」
誰もが息を呑み、固唾を飲んで見守っている。
その沈黙を破ったのは、頼昌の朗らかな笑い声だった。
「飯富虎昌どの。 貴殿の勇名は、この信濃の地にまで轟き渡っておりまする。 まさか甲山の猛虎と、相まみえ手合わせできるとは、武士冥利に尽きる光栄至極」
頼昌はそう言うと、一瞬目を閉じた。
そしてゆっくりと目を開けた。そこには先程までの穏やかな表情はなかった。
宿っていたのは、武士としての荒々しい闘志。
頼昌は天高く槍を構えた。
「──さぁ、手合わせ願おう! 我こそは、海野の将、真田右馬之助頼昌! 武士の生き様、しかと見届けよ!」
頼昌の口から真田という言葉を聞いた瞬間、飯富虎昌の巨体が僅かに揺れた。
その瞳の奥に一瞬、悲哀の色が宿った。
「真田…… そうか。 先程の若武者は、貴殿の……」
飯富虎昌はゆっくりと目を伏せた。
しかし、それもほんの一瞬。すぐに顔を上げ、朱槍を構え、頼昌と対峙した。
「……」
対峙する、海野の将と武田の将。
その永遠にも思える時間の中、頼昌の脳裏には家族の顔が過っていた。
後悔はない。
琴は、武士の妻。この過酷な運命を、きっと理解してくれるだろう。
息子、源太左衛門は武士らしく華々しく散った。そしていつか、虎千代が真田の家を再興してくれるだろう。
──だが、唯一心残りなのは……。
胡蝶。あの儚げな、息子。
武士として生きていくことを強く望んでいたのに。元服も済ませぬまま、こうして別れることになるとは。
頼昌は心の中で胡蝶に深く謝罪した。
どうか、どうか。
この過酷な世で、あの優しい青年が逞しく、生き残れますように。
願わくば、平穏な日々を送れますように。頼昌は、天にそう祈った。
「……」
二人が対峙するその最中。一陣の風が、本陣を、吹き抜けた。
埃が舞い上がり、戦場の匂いを強く運んでくる。
「あっ……!」
隅で震えていた旗持ちが、堪えきれずよろめき、諏訪梶葉の馬印を風に煽られ、倒してしまった。
重い旗が地面に倒れる音が合戦開始の狼煙のように、響き渡った。
「やぁーっ!」
頼昌の槍が、一直線に突き進む。
研ぎ澄まされた意識。極限まで高められた集中力。
周囲の喧騒も死の恐怖も、全てが遠ざかっていく。
ただ、目の前にいる、強敵を倒すことだけを考え、己の全てを、槍に込める。
繰り出される、無数の突き。飯富虎昌はその全てを、豪快な槍さばきで防いでみせた。
(見事な槍捌き!流石は武田の猛者!だが、動きが僅かに鈍っておる。好機……!)
頼昌は、飯富虎昌の僅かな隙を見逃さなかった。
次なる一撃に、全ての力を込める。
──狙うは、首。一瞬の油断も許されない、乾坤一擲の勝負。
「はぁっ!」
渾身の力を込めた槍が、飯富虎昌の首元へ向けて放たれた。
その速度は、音をも置き去りにするほど。
「──!」
しかし、百戦錬磨の猛将は、その一撃を間一髪で見切った。
紙一重で首を傾け、致命傷を避ける。
──刹那。
頼昌が槍を引くよりも早く、飯富虎昌は朱槍を逆手に持ち、頼昌の胸へと突き出した。
「!」
飯富虎昌の槍が、頼昌の胸を深々と貫いた。
「がっ……はっ……!」
激痛が全身を駆け巡る。肺を焼かれるような、灼熱感。
頼昌はよろめき、背中から地面に倒れ込む。
視界が歪み、逆転した。目に映るのは、血で染まった鎧ではなく、どこまでも、広がる空。
夕焼け空が、赤く、染まっている。
(綺麗だ)
朦朧とする意識の中で、頼昌はそう思った。
そして、走馬灯のように数々の記憶が脳裏を駆け巡る。
幼き頃、剣の稽古に明け暮れた日々。元服を迎え、武士として初めて戦場に立った日のこと。
妻、琴と出会い、共に笑い合った幸せな日々。
そして……山中で捨てられていた赤子を拾い上げた日のこと。
息子たち、源太左衛門や胡蝶、虎千代の成長を、見守った日々。
長かった戦の人生も、ここで終わりか。
「見事なり、 海野の将よ。 其方の武士としての生き様、しかと見届けた」
飯富虎昌の声が遠く、どこか別世界から聞こえてくるようだった。
血に染まった鎧が、重く、そして不思議と暖かい。
風が静かに吹き、頼昌の髪を優しく揺らした。
耳を澄ませば、遠く戦場の喧騒も、いつしか和らいでいる。
最期の息を吐き出す時、頼昌の口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
武士として、誇りを持って生き、誇りを持って散る。それこそが、真田頼昌の望んだ道。
血で染まった大地に、一陣の風が過ぎ、戦場に散った桜の花びらが舞い降りた。
それは、頼昌の魂を迎えに来たかのように、静かに、儚く──。