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第二十二幕 誇りの果て、安寧の空

「──何故、大将がおらぬ……?」


響き渡る声は、頼昌の声では、なかった。

背後から追い付いた、武田の騎兵──飯富虎昌の声だった。


飯富虎昌は無人の本陣と、無惨に靡く旗印を見て、驚愕に言葉を失った。

瞳を極限まで開き、肩をわなわなと震わせ、信じられないものを見るかのように、周囲を見回している。


「何故大将が、いない! 一体何処へ、消えうせた!?」


その声は怒りとも悲しみとも、失望ともつかない複雑な感情が入り混じった、慟哭にも似た叫び。

頼昌ではなく、飯富虎昌が絞り出した叫び。

尋常ならざる歴戦の武将の殺気を一身に浴びせられた旗持ちは、恐怖に震え上がり、掠れた声で震えながら答えた。


「御屋形様は……て、撤退を……」


その言葉を聞いた瞬間、飯富虎昌の全身から怒気が噴出した。

目は血走り、今にも爆発しそうなほどの怒りを堪え、叫ぶ。


「撤退……?撤退だと……!? 本陣の旗印を捨て置き、尻尾を巻いて戦場から逃げ帰るのを撤退と申すか!? 」


圧倒的な大軍を率いながら、敵の騎兵の突撃に恐れ慄き、本陣を捨て逃げ出す。

それは、武士としての誇りを土足で踏みにじるような、言語道断の愚行。武士として、決して許すことのできない、恥ずべき行為。

飯富虎昌は怒りを通り越して、呆然自失としていた。

そしてそれは、飯富虎昌だけではなかった。彼の後ろに付き従う武田の武士たちも、同じであった。


「なんという臆病者!大将が自らの命惜しさに家臣を捨て、旗を捨て、一目散に逃げ出すか!」

「武士の名を汚す、卑劣な所業よ……」


諏訪の大将を討たれては困るはずの武田の武士たちですら、その余りにも情けない行いには、怒りを隠せなかった。

そうして、武田と諏訪の兵たちが戸惑いと怒りを露わにする、その最中。


「……」


不意に、頼昌が静かに馬から降り立った。

その身に纏う鎧は血と泥に塗れ、満身創痍。先程までの勢いは、見る影もない。


本陣に突入できたのは頼昌ただ一人。他の海野の騎兵たちは皆、武田と諏訪の軍勢に討ち取られてしまった。

風が無情にも本陣を吹き抜け、埃を巻き上げる。諏訪梶葉の旗が、所在なさげに揺れている。

兵士たちは頼昌を一突きで仕留める絶好の機会であるというのに、誰も動くことができない。

何故なら、武士として理解してしまっているからだ。

主家のため、武士としての誇りの為に果敢に突撃した、その先に待ち受けていたのが……この空虚な結末という無念さを。


ここまで死力を尽くし、戦い抜いてきた男の最期を汚すことが憚られた。

敵である武田の兵士ですら、頼昌に対し哀れみの念を抱いていた。

武士であるならば、誰もがその無念さを理解できるのだ……。


「海野の将よ。 悪いことは言わぬ。 降伏……っ!?」


そんな哀れな武士に声をかけようとした飯富虎昌。しかし、その言葉は途中で途絶えた。

振り返った頼昌の瞳を見て、言葉を失ってしまったのだ。


「──」


そこにいたのは、哀れな武士でもない、愚かな将でもない。

武士としての誇りと意地を燃やし尽くそうとする、一人の荒武者の姿だった。


 「──誰ぞ、おるか! この頼昌と、最期の舞を共に舞ってくれる、剛の者は!」


頼昌は静かに、しかし力強く叫んだ。

その声は静寂を切り裂き、兵士たちの魂を揺さぶった。

天高く掲げられた槍。血に染まり、刃こぼれを起こしているが、その輝きは少しも衰えていない。


そして頼昌の瞳は、春の風のように爽やかで清々しかった。

その瞳に射抜かれた、周囲の武士たちの心が、激しく揺り動かされた。

運命を受け入れ、誇り高く散ろうとするその姿。

恨み言一つ言わず、ただ最期まで武士として在りたいと願う、その強い意志。

それは敵である兵たちの心をも、捉えて離さなかった。


「わ、儂が貴殿の相手を務めさせて頂こう! 海野の武士よ!」

「いや、儂だ! 是非とも、その首、この手で頂戴したい!」


周囲にいた兵たちが、我先にと名乗りを上げた。

その瞳は真剣そのもの。誰もが、頼昌の最期の相手を務め、武士としての誉れを与えたいと願っていた。

この高潔な魂を持つ武士に相応しい、華々しい散り際を見届けたい。

それが彼らの、偽らざる本心だった。


だがその時。轟音と共に、地面が大きく揺れた。


「!」


その音に、全ての者の視線が一点に集中する。

音の震源地にいたのは、巨躯の武田兵──飯富虎昌だった。


「……」


朱槍の石突を、地面に叩きつけたのだ。

騒がしかった周辺は嘘のように静まり返り、全ての音が消え去った。

今はただ、飯富虎昌の姿だけが兵士たちの目に焼き付いている。


「海野の将よ。 もし許されるのであれば……この飯富兵部少輔虎昌と、手合わせさせていただきたい」


飯富虎昌の声が静寂を切り裂き、響き渡った。

だが、飯富虎昌は心の中で激しく後悔していた。一瞬でも彼に降伏を呼びかけようとした、己の不明を恥じていた。

武士ならば、このような状況で降伏などという、無様な真似をするはずがない。

目の前の海野の将のように、最後まで誇りを持ち、意志を貫き通す者こそ真の武人。

虎昌は心からの敬意を込めて、頼昌と対峙した。その巨躯の武士の申し出に、あたりは水を打ったように静まり返った。


「……」


誰もが息を呑み、固唾を飲んで見守っている。

その沈黙を破ったのは、頼昌の朗らかな笑い声だった。


「飯富虎昌どの。 貴殿の勇名は、この信濃の地にまで轟き渡っておりまする。 まさか甲山の猛虎と、相まみえ手合わせできるとは、武士冥利に尽きる光栄至極」


頼昌はそう言うと、一瞬目を閉じた。

そしてゆっくりと目を開けた。そこには先程までの穏やかな表情はなかった。

宿っていたのは、武士としての荒々しい闘志。

頼昌は天高く槍を構えた。


「──さぁ、手合わせ願おう! 我こそは、海野の将、真田右馬之助頼昌! 武士の生き様、しかと見届けよ!」


頼昌の口から真田という言葉を聞いた瞬間、飯富虎昌の巨体が僅かに揺れた。

その瞳の奥に一瞬、悲哀の色が宿った。


「真田…… そうか。 先程の若武者は、貴殿の……」


飯富虎昌はゆっくりと目を伏せた。

しかし、それもほんの一瞬。すぐに顔を上げ、朱槍を構え、頼昌と対峙した。


「……」


対峙する、海野の将と武田の将。


その永遠にも思える時間の中、頼昌の脳裏には家族の顔が過っていた。

後悔はない。

琴は、武士の妻。この過酷な運命を、きっと理解してくれるだろう。

息子、源太左衛門は武士らしく華々しく散った。そしていつか、虎千代が真田の家を再興してくれるだろう。


──だが、唯一心残りなのは……。


胡蝶。あの儚げな、息子。

武士として生きていくことを強く望んでいたのに。元服も済ませぬまま、こうして別れることになるとは。

頼昌は心の中で胡蝶に深く謝罪した。


どうか、どうか。

この過酷な世で、あの優しい青年が逞しく、生き残れますように。

願わくば、平穏な日々を送れますように。頼昌は、天にそう祈った。


「……」


二人が対峙するその最中。一陣の風が、本陣を、吹き抜けた。

埃が舞い上がり、戦場の匂いを強く運んでくる。


「あっ……!」


隅で震えていた旗持ちが、堪えきれずよろめき、諏訪梶葉の馬印を風に煽られ、倒してしまった。

重い旗が地面に倒れる音が合戦開始の狼煙のように、響き渡った。


「やぁーっ!」


頼昌の槍が、一直線に突き進む。

研ぎ澄まされた意識。極限まで高められた集中力。

周囲の喧騒も死の恐怖も、全てが遠ざかっていく。

ただ、目の前にいる、強敵を倒すことだけを考え、己の全てを、槍に込める。

繰り出される、無数の突き。飯富虎昌はその全てを、豪快な槍さばきで防いでみせた。


(見事な槍捌き!流石は武田の猛者!だが、動きが僅かに鈍っておる。好機……!)


頼昌は、飯富虎昌の僅かな隙を見逃さなかった。

次なる一撃に、全ての力を込める。

──狙うは、首。一瞬の油断も許されない、乾坤一擲の勝負。


「はぁっ!」


渾身の力を込めた槍が、飯富虎昌の首元へ向けて放たれた。

その速度は、音をも置き去りにするほど。


「──!」


しかし、百戦錬磨の猛将は、その一撃を間一髪で見切った。

紙一重で首を傾け、致命傷を避ける。


──刹那。


頼昌が槍を引くよりも早く、飯富虎昌は朱槍を逆手に持ち、頼昌の胸へと突き出した。


「!」


飯富虎昌の槍が、頼昌の胸を深々と貫いた。


「がっ……はっ……!」


激痛が全身を駆け巡る。肺を焼かれるような、灼熱感。

頼昌はよろめき、背中から地面に倒れ込む。

視界が歪み、逆転した。目に映るのは、血で染まった鎧ではなく、どこまでも、広がる空。


夕焼け空が、赤く、染まっている。


(綺麗だ)


朦朧とする意識の中で、頼昌はそう思った。

そして、走馬灯のように数々の記憶が脳裏を駆け巡る。

幼き頃、剣の稽古に明け暮れた日々。元服を迎え、武士として初めて戦場に立った日のこと。

妻、琴と出会い、共に笑い合った幸せな日々。

そして……山中で捨てられていた赤子を拾い上げた日のこと。

息子たち、源太左衛門や胡蝶、虎千代の成長を、見守った日々。


長かった戦の人生も、ここで終わりか。


「見事なり、 海野の将よ。 其方の武士としての生き様、しかと見届けた」


飯富虎昌の声が遠く、どこか別世界から聞こえてくるようだった。

血に染まった鎧が、重く、そして不思議と暖かい。

風が静かに吹き、頼昌の髪を優しく揺らした。

耳を澄ませば、遠く戦場の喧騒も、いつしか和らいでいる。


最期の息を吐き出す時、頼昌の口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

武士として、誇りを持って生き、誇りを持って散る。それこそが、真田頼昌の望んだ道。


血で染まった大地に、一陣の風が過ぎ、戦場に散った桜の花びらが舞い降りた。

それは、頼昌の魂を迎えに来たかのように、静かに、儚く──。


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