真田の郷は、深い静寂に包まれていた。
山々に囲まれたこの地は、外界の喧騒とは無縁の、穏やかな空気が流れている。
頼昌が構える屋敷もまた、同じ静謐さを湛えている。手入れの行き届いた庭には、初夏の緑が眩しく、木漏れ日が柔らかな光の斑点を描いていた。
「……」
その静かな庭の一角。
一人の青年が、黙々と木刀を振るっていた。
肩まで伸びた艶やかな黒髪は、邪魔にならぬよう後ろで一つに束ねられている。
日に透けるような白い肌。柳のようにしなやかな肢体。
黙して動かずとも、そこにあるだけで、周囲の空気を変えてしまうような、一種、妖しいまでの美しさを放つ青年。
──胡蝶である。
「はっ……! ふっ……!」
鋭い呼気と共に、木刀が空を切る。
その動きは、単なる鍛錬には見えず……水が流れるように滑らかで、淀みがない。
足捌きは、風に舞う木の葉の如く軽やかで、それでいて大地に根差すかの如く。
木刀を振るう腕は細いが、その軌跡は鋭く、正確無比。体捌きは、まさに蝶の舞。見る者の目を奪い、幻惑する。
「……はぁっ!」
そして、鍛錬は佳境を迎え、胡蝶は一度、深く息を吸い込むと、これまでとは違う鋭い気合を発した。
地を蹴り、天へと舞い上がる。
空中でしなやかに身を翻し、木刀は唸りを上げ、見えぬ敵を両断するかの如き鋭さで振り下ろされる。
そして──ふわり、と。
音もなく、地に降り立つ。
その着地は、花弁が舞い落ちるように、静かで、優美であった。
「ふぅ……」
胡蝶は、乱れた息を整えながら、静かに木刀を下ろした。
額の汗を手の甲で拭う。その、ほんの一瞬の静寂。
──パチ、パチ、パチ。
不意に、背後から、控えめな拍手の音が聞こえてきた。
胡蝶は、はっとして振り向いた。
そこには、三人の男たちが、感心したような、それでいて少し困ったような、複雑な表情を浮かべて立っていた。
屈強というには程遠いが、日々の労苦が滲み出る、逞しい体の男たちだ。
彼らの顔を見て、胡蝶の張り詰めていた表情が、ふっと和らぐ。
「弥助、権太、吉兵衛。どうした、そのようなところに揃って」
常とは違う、少しばかり砕けた口調で胡蝶は問うた。
三人はこの真田の屋敷に仕える者たちであり、胡蝶にとっては気心の知れた存在であった。
弥助と呼ばれた男が、照れたように頭を掻きながら答える。
「いやはや、胡蝶様の御鍛錬は、まるで舞のようで……つい、見惚れておりやした」
「おうよ。いつ見ても惚れ惚れするのぅ。あれほどの動き、俺らにはとても真似できねぇ」
権太と吉兵衛も、口々に同意する。
その素直な賞賛に、胡蝶は少し頬を赤らめ、照れたように視線を逸らした。
「そうかな」
差し出された手拭いを素直に受け取り、玉のような汗を拭う。
その仕草一つにも、どこか優雅さが漂う。
しかし、すぐに表情を引き締め、胡蝶は言った。
「だが、舞のような動きでは、父上や母上のお役には立てぬ。これから、俺は武士になるのだ。真の強さを、この身に纏わねばならん」
その言葉には、確かな決意が滲んでいた。
「またまた御謙遜を」
弥助が苦笑いを浮かべる。
「そうでやす!胡蝶様はその舞のような動きで、あっしら悪党を見事に退治なすったではありやせんか!」
権太が、どこか誇らしげに、しかし少しばつが悪そうに付け加えた。
そう、この三人は、以前はこの辺りで悪事を働いていた、いわゆる野盗であった。
胡蝶に手痛く懲らしめられ、そして、その過酷……いや、不思議な説教によって心を入れ替え、今では真田の郷で真面目に農作業に励み、時折こうして屋敷の手伝いをしているのだ 。
彼らにとって胡蝶は、命の恩人であり、恐ろしくも、そして尊敬すべき存在であった。
「その話は、もう良い」
胡蝶は、ぴしゃりと言った。その声には、わずかに咎める響きが含まれている。
「お前たちは、もうただの悪党ではない。真面目に働く、この郷の者だ。過去をいつまでも口にするな」
そう言いながらも、胡蝶は彼らのことを好ましく思っていた。
一度は道を踏み外した者たちが、自分の拙い説教(というよりは拷問に近い尋問だったかもしれないが)で、こうして立ち直り、日々懸命に生きている。
言うは易く行うは難し。その心の強さを、胡蝶は密かに尊敬すらしていたのだ。彼らこそ、この乱世を生き抜く強さを持つ者たちなのかもしれない。
しかし、胡蝶のそんな内心を知ってか知らずか、男たちは興奮冷めやらぬ様子で続ける。
「いやはや、胡蝶様、あれはあっしらにとっちゃあ、一生忘れられやせん出来事なんで」
弥助が、目を輝かせながら言った。
「そうそう。山道でひょろっとした童が現れたんで、こりゃあ楽な仕事だと思ったら……とんでもねぇ。あれは、人の動きじゃなかった……」
権太が、当時の恐怖を思い出したかのように、身震いしながら付け加える。
「ああ……。一瞬で、三人がのされちまった。あの時は、本気で死んだと思ったぜ」
吉兵衛が、遠い目をして呟いた。
三人の脳裏には、あの日の光景が鮮明に蘇っていた。
油断しきって襲い掛かった、華奢な少年。しかし次の瞬間には、まるで幻影か舞を見るかのように、人間離れした動きで翻弄され、為す術もなく打ちのめされた。
その美しくも恐ろしい戦いぶりは、今でも彼らの記憶に強く焼き付いている。
「もう良い、その話は。忘れろ」
胡蝶は、顔を赤らめ、ぶっきらぼうに言い放った。
過去の武勇伝(?)を語られるのは、どうにも気恥ずかしい。しかも、相手はその当事者たちなのだ。
(大体、あの時は必死だったのだ。あんな動き、自分でもどうやったのか……)
内心の動揺を隠すように、胡蝶はそっぽを向いた。
そんな胡蝶の様子を見て、三人の男たちは、顔を見合わせ、朗らかに笑い出した。
「ははは、こりゃ失礼」
「胡蝶様は、照れておいでなさる」
彼らにとって胡蝶は、命の恩人であり、恐るべき強さを持つ存在であり、そして、尊敬すべき師のような存在でもある。
しかし、同時に、時折見せるこのような年相応の反応は、彼らにとって、どこか弟を見守るような、あるいは親しい友と接するような、温かな気持ちを抱かせるのだった。
この不思議な青年との出会いが、自分たちの人生を大きく変えた。そのことを、彼らは改めて感じていた。
胡蝶への信頼と親しみを込めた彼らの笑い声が、静かな庭に響き渡った。
男たちの朗らかな笑い声が一段落した頃、ふと、胡蝶は何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば……一つ、聞きたいことがあるのだが」
改まった胡蝶の口調に、三人は笑いを収め、居住まいを正す。
「へい、胡蝶様、何でございましょう?」
弥助が代表して答えた。
「近頃……いや、ここ数日、母上の御様子が、どうにも妙なのだ」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。琴御方の様子が妙、とは一体?
「妙、と申されますと?」
「うむ……。俺が話しかけても、どこか上の空で……。かと思えば、ふとした時に、遠くからじっと俺のことを見つめている、いざ目が合うと、さっと視線を逸らして、何処かへ行ってしまわれるのだ」
胡蝶は、困惑した表情で続けた。
その仕草は、まるで……。
「はぁ……」
「さぁ……」
「うーむ……」
三人の男たちも、胡蝶の話を聞き、腕を組んで首を捻った。
琴御方が胡蝶を溺愛していることは、屋敷の者……いや、郷の者なら誰もが知っている。
しかし、確かに胡蝶の言う琴の様子は、どこか不可解で、まるで思春期の娘のような、不可解な行動に思える。
しかし、母が子に対して、そのような感情を抱くとは到底考えられない。
「さっぱり、見当もつきやせんが……」
吉兵衛が正直に言う。
「まるで、思春期の娘御のようじゃが……まさか、琴様が胡蝶様に、そのような……いやいや、そんな馬鹿な」
権太が口走り、慌てて自分の口を塞いだ。
「……やはり、戦のことではないですかい?」
考え込んでいた弥助が、ぽつりと言った。
「戦、か」
胡蝶は、吉兵衛の言葉に、はっとした表情を浮かべた。
そうだ。父、頼昌と兄、源太左衛門は、つい先日、戦へと赴いたのだ 。
諏訪勢の不穏な動きに対応するためだと聞いた 。
琴にとっては、愛する夫と、嫡男である息子が同時に戦場へ向かったことになる。
その胸の内は、いかばかりか。家でただ寂しく、案じながら二人の帰りを待つ母の姿は、胡蝶にとっても辛いものがあった。その不安や心細さは、痛いほど理解できる。
しかし──
「戦の心配は分かる。だが、それが母上のあの奇妙な振る舞いとどう繋がるのだ?」
胡蝶は首を傾げた。
夫や息子の無事を祈り、気を病むのは分かる。だが、それが何故、自分に対して奇妙な態度を取ることに繋がるのか。
「そりゃあ……」
弥助が、言いにくそうに口を開いた。
「胡蝶様も元服なさったら、いずれは若様や旦那様のように、戦に出られることになりやすから……」
「……」
弥助の言葉に、胡蝶は息を呑んだ。
「琴様の胡蝶様への可愛がりようは、あっしらでも知ってやす。戦場なんぞに、行かせたくないんでございましょう……。だから、こう……顔を合わせるのが、辛いんじゃ……」
権太が、さらに言葉を継いだ。吉兵衛も、黙って頷いている。
そこまで聞いて、胡蝶はようやく彼らの言わんとすることを理解した。
自分の元服の儀は、棟綱の命により、間近に迫っている 。しかし、運悪く、その矢先に父と源太左衛門が出陣してしまった。
自分が元服し、一人前の武士となれば、いずれ父や兄のように戦場へ行くことになる……。
──母は、その未来を想像し、耐えきれなくなっているのではないか。
だから、自分の顔をまともに見られない。目を合わせることから逃げるように、去ってしまうのだ。
(……そうか……そういう、ことか……)
胡蝶は、静かに俯いた。
長い睫毛が伏せられ、その表情は窺い知れない。
母を残し、戦場へ赴く。それは、自分にとっても辛いことだ。
あの優しい母を、一人、この郷に残していくのは……。
だが、それ以上に。
胡蝶は、一人前の武士となりたいと、強く願っていた。
父のように、源太左衛門のように。
この郷を、そして……何よりも、あの優しい母を守れるような、強い男になりたいのだ。
そのためならば、この身がどうなろうとも構わない。
俯いた胡蝶の肩が、かすかに震えていた。
その内心の葛藤は、傍らの男たちにも痛いほど伝わっていた。
静寂が、重く庭にのしかかる。俯いた胡蝶の周りだけ、空気が澱んでいるかのようだ。
その様子に、三人の男たちは慌てて顔を見合わせ、何とか場を和ませようと、努めて明るい声を上げた。
「ま、まあまあ、胡蝶様!」
弥助が、わざとらしく陽気に言う。
「まあまあ、胡蝶様! 元服の儀はもうすぐでございましょう! きっと琴様も、その……凛々しいお姿をご覧になれば、武士としての門出を、お喜びになりますって!」
「そうだとも! あっしらだって、胡蝶様の晴れ姿、楽しみにしてるんで!」
権太も、力強く頷く。
「へえ。きっと、凛々しくて雄々しいお姿で……」
吉兵衛がそう言いかけた時、三人の脳裏には、元服の儀に臨む胡蝶の姿が、ありありと浮かんでいた。
美しい絹の直垂(ひたたれ)に身を包み、髪を結い上げ、烏帽子を戴いた胡蝶。
父・頼昌と母・琴、そして家臣や領民たちに見守られながら、杯を交わし、新たな名を賜る……。
凛として立つその姿は、まさに新たな門出を迎える若武者。
その姿は、儚げでありながらも、どこか神々しいほどの美しさを放ち……。
「……いや、待てよ。凛々しいってよりゃあ……」
吉兵衛の呟きに、弥助が首を振っていった。
「……やっぱり天女様みてぇかもしれねぇなぁ」
「お、おう。そう言われりゃあ、そうかも……。あの白い肌に、黒髪……」
権太も、その想像に乗っかり始める。
「こりゃあ、どっかの大名様のお姫様みてぇだ……いや、嫁入りする姫君か……?」
弥助の妄想は、もはや明後日の方向へと飛躍していた。
「はは、そうだな。きっと良いお屋敷に……」
「うーん、胡蝶姫は実に美しい……」
三人が、あらぬ妄想を繰り広げ、顔を赤らめながら口角泡を飛ばし始めた、その時。
ふと、異様なまでの静けさと、肌を刺すような視線を感じ、彼らは我に返った。
そろり、と視線を向けると──。
「……」
胡蝶が、いつの間にか彼らのすぐ目の前に立っていた。
その美しい顔は、能面のように無表情。
しかし、頬は微かにひくつき、白皙の額には、くっきりと青筋が浮かんでいた。
「おい」
地を這うような、低く、冷たい声。
三人の背筋を、冷たいものが駆け上がった。
びくり、と肩を震わせ、体が石のように硬直する。
「……今、『天女』だの『嫁入り』だの、なにやら不穏な言葉が聞こえた気がするが」
胡蝶は、ゆっくりと言葉を続けた。
その声は静かだが、底知れぬ怒りが込められているのが分かる。
「──俺の聞き間違いか?」
にっこり、と。
胡蝶は笑みを浮かべた。それは、凍てつくような、恐ろしくも美しい笑みだった。
その目は全く笑っていない。
氷のように冷たい光が、三人を射抜いていた。
「「「ひぃっ!!」」」
三人は、蛙のように飛び上がり、背筋を凍らせた。
その顔は、恐怖で真っ青になっている。
やってしまった。また、この方を怒らせてしまった……!
彼らの脳裏には、以前の、三日三晩続く恐怖の「お説教」を受けた記憶が、鮮明に蘇っていた。
「ち、違うんでさぁ!胡蝶様!」
弥助が、冷や汗をだらだらと流しながら、必死に弁明を始めた。
その声は恐怖で上ずっている。
「そ、そうでやす!あっしらは、ただ、その、立派な武士になられた胡蝶様のお姿を想像して……見惚れていただけなんで!」
権太も、吉兵衛も、ぶんぶんと首を縦に振り、必死に同意する。
しかし、その言葉は胡蝶の凍てつくような怒りの前では、何の効力も持たない。
「武士、ねぇ」
胡蝶は、ゆっくりと口を開いた。
「この俺には、どうすれば武士の元服から『天女』や『嫁入り』などという言葉が出てくるのか、皆目見当もつかぬのだが……」
胡蝶は、わざとらしく首を傾げ、続ける。
「この無知蒙昧な俺に、教えてはくれぬか? 三人揃ってな」
その言葉には、底知れぬ怒りと、痛烈な皮肉が込められていた。
「ひっ……!」
三人は、短い悲鳴を上げ、完全に凍り付いた。
胡蝶の放つ、静かな、しかし圧倒的な怒りの気に、もはや弁明の言葉すら出てこない。
ただ、青ざめた顔で、ぶるぶると震えるばかりだ。
美しい顔立ちから放たれる凄みに、彼らは改めて、目の前の青年がただの美しいだけの存在ではないことを、骨身に染みて思い知らされていた。
ひゅう、と。
一陣の風が、この奇妙なやり取りを嘲笑うかのように、庭を吹き抜けていった。
その風は、午後の気怠さと共に、三人の男たちの冷や汗を、少しだけ乾かしていったのかもしれない──。