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第二十三幕 凪の海面、深まる葛藤

真田の郷は、深い静寂に包まれていた。

山々に囲まれたこの地は、外界の喧騒とは無縁の、穏やかな空気が流れている。

頼昌が構える屋敷もまた、同じ静謐さを湛えている。手入れの行き届いた庭には、初夏の緑が眩しく、木漏れ日が柔らかな光の斑点を描いていた。


「……」


その静かな庭の一角。

一人の青年が、黙々と木刀を振るっていた。


肩まで伸びた艶やかな黒髪は、邪魔にならぬよう後ろで一つに束ねられている。

日に透けるような白い肌。柳のようにしなやかな肢体。

黙して動かずとも、そこにあるだけで、周囲の空気を変えてしまうような、一種、妖しいまでの美しさを放つ青年。


──胡蝶である。


「はっ……! ふっ……!」


鋭い呼気と共に、木刀が空を切る。

その動きは、単なる鍛錬には見えず……水が流れるように滑らかで、淀みがない。

足捌きは、風に舞う木の葉の如く軽やかで、それでいて大地に根差すかの如く。

木刀を振るう腕は細いが、その軌跡は鋭く、正確無比。体捌きは、まさに蝶の舞。見る者の目を奪い、幻惑する。


「……はぁっ!」


そして、鍛錬は佳境を迎え、胡蝶は一度、深く息を吸い込むと、これまでとは違う鋭い気合を発した。

地を蹴り、天へと舞い上がる。

空中でしなやかに身を翻し、木刀は唸りを上げ、見えぬ敵を両断するかの如き鋭さで振り下ろされる。


そして──ふわり、と。


音もなく、地に降り立つ。

その着地は、花弁が舞い落ちるように、静かで、優美であった。


「ふぅ……」


胡蝶は、乱れた息を整えながら、静かに木刀を下ろした。

額の汗を手の甲で拭う。その、ほんの一瞬の静寂。


──パチ、パチ、パチ。


不意に、背後から、控えめな拍手の音が聞こえてきた。

胡蝶は、はっとして振り向いた。

そこには、三人の男たちが、感心したような、それでいて少し困ったような、複雑な表情を浮かべて立っていた。

屈強というには程遠いが、日々の労苦が滲み出る、逞しい体の男たちだ。


彼らの顔を見て、胡蝶の張り詰めていた表情が、ふっと和らぐ。


「弥助、権太、吉兵衛。どうした、そのようなところに揃って」


常とは違う、少しばかり砕けた口調で胡蝶は問うた。

三人はこの真田の屋敷に仕える者たちであり、胡蝶にとっては気心の知れた存在であった。

弥助と呼ばれた男が、照れたように頭を掻きながら答える。


「いやはや、胡蝶様の御鍛錬は、まるで舞のようで……つい、見惚れておりやした」

「おうよ。いつ見ても惚れ惚れするのぅ。あれほどの動き、俺らにはとても真似できねぇ」


権太と吉兵衛も、口々に同意する。

その素直な賞賛に、胡蝶は少し頬を赤らめ、照れたように視線を逸らした。


「そうかな」


差し出された手拭いを素直に受け取り、玉のような汗を拭う。

その仕草一つにも、どこか優雅さが漂う。

しかし、すぐに表情を引き締め、胡蝶は言った。


「だが、舞のような動きでは、父上や母上のお役には立てぬ。これから、俺は武士になるのだ。真の強さを、この身に纏わねばならん」


その言葉には、確かな決意が滲んでいた。


「またまた御謙遜を」


弥助が苦笑いを浮かべる。


「そうでやす!胡蝶様はその舞のような動きで、あっしら悪党を見事に退治なすったではありやせんか!」


権太が、どこか誇らしげに、しかし少しばつが悪そうに付け加えた。

そう、この三人は、以前はこの辺りで悪事を働いていた、いわゆる野盗であった。

胡蝶に手痛く懲らしめられ、そして、その過酷……いや、不思議な説教によって心を入れ替え、今では真田の郷で真面目に農作業に励み、時折こうして屋敷の手伝いをしているのだ 。

彼らにとって胡蝶は、命の恩人であり、恐ろしくも、そして尊敬すべき存在であった。


「その話は、もう良い」


胡蝶は、ぴしゃりと言った。その声には、わずかに咎める響きが含まれている。


「お前たちは、もうただの悪党ではない。真面目に働く、この郷の者だ。過去をいつまでも口にするな」


そう言いながらも、胡蝶は彼らのことを好ましく思っていた。

一度は道を踏み外した者たちが、自分の拙い説教(というよりは拷問に近い尋問だったかもしれないが)で、こうして立ち直り、日々懸命に生きている。

言うは易く行うは難し。その心の強さを、胡蝶は密かに尊敬すらしていたのだ。彼らこそ、この乱世を生き抜く強さを持つ者たちなのかもしれない。


しかし、胡蝶のそんな内心を知ってか知らずか、男たちは興奮冷めやらぬ様子で続ける。


「いやはや、胡蝶様、あれはあっしらにとっちゃあ、一生忘れられやせん出来事なんで」


弥助が、目を輝かせながら言った。


「そうそう。山道でひょろっとした童が現れたんで、こりゃあ楽な仕事だと思ったら……とんでもねぇ。あれは、人の動きじゃなかった……」


権太が、当時の恐怖を思い出したかのように、身震いしながら付け加える。


「ああ……。一瞬で、三人がのされちまった。あの時は、本気で死んだと思ったぜ」


吉兵衛が、遠い目をして呟いた。


三人の脳裏には、あの日の光景が鮮明に蘇っていた。

油断しきって襲い掛かった、華奢な少年。しかし次の瞬間には、まるで幻影か舞を見るかのように、人間離れした動きで翻弄され、為す術もなく打ちのめされた。

その美しくも恐ろしい戦いぶりは、今でも彼らの記憶に強く焼き付いている。


「もう良い、その話は。忘れろ」


胡蝶は、顔を赤らめ、ぶっきらぼうに言い放った。

過去の武勇伝(?)を語られるのは、どうにも気恥ずかしい。しかも、相手はその当事者たちなのだ。


(大体、あの時は必死だったのだ。あんな動き、自分でもどうやったのか……)


内心の動揺を隠すように、胡蝶はそっぽを向いた。

そんな胡蝶の様子を見て、三人の男たちは、顔を見合わせ、朗らかに笑い出した。


「ははは、こりゃ失礼」

「胡蝶様は、照れておいでなさる」


彼らにとって胡蝶は、命の恩人であり、恐るべき強さを持つ存在であり、そして、尊敬すべき師のような存在でもある。

しかし、同時に、時折見せるこのような年相応の反応は、彼らにとって、どこか弟を見守るような、あるいは親しい友と接するような、温かな気持ちを抱かせるのだった。

この不思議な青年との出会いが、自分たちの人生を大きく変えた。そのことを、彼らは改めて感じていた。

胡蝶への信頼と親しみを込めた彼らの笑い声が、静かな庭に響き渡った。

男たちの朗らかな笑い声が一段落した頃、ふと、胡蝶は何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば……一つ、聞きたいことがあるのだが」


改まった胡蝶の口調に、三人は笑いを収め、居住まいを正す。


「へい、胡蝶様、何でございましょう?」


弥助が代表して答えた。


「近頃……いや、ここ数日、母上の御様子が、どうにも妙なのだ」


その言葉に、三人は顔を見合わせた。琴御方の様子が妙、とは一体?


「妙、と申されますと?」

「うむ……。俺が話しかけても、どこか上の空で……。かと思えば、ふとした時に、遠くからじっと俺のことを見つめている、いざ目が合うと、さっと視線を逸らして、何処かへ行ってしまわれるのだ」


胡蝶は、困惑した表情で続けた。

その仕草は、まるで……。


「はぁ……」

「さぁ……」

「うーむ……」


三人の男たちも、胡蝶の話を聞き、腕を組んで首を捻った。

琴御方が胡蝶を溺愛していることは、屋敷の者……いや、郷の者なら誰もが知っている。

しかし、確かに胡蝶の言う琴の様子は、どこか不可解で、まるで思春期の娘のような、不可解な行動に思える。

しかし、母が子に対して、そのような感情を抱くとは到底考えられない。


「さっぱり、見当もつきやせんが……」


吉兵衛が正直に言う。


「まるで、思春期の娘御のようじゃが……まさか、琴様が胡蝶様に、そのような……いやいや、そんな馬鹿な」


権太が口走り、慌てて自分の口を塞いだ。


「……やはり、戦のことではないですかい?」


考え込んでいた弥助が、ぽつりと言った。


「戦、か」


胡蝶は、吉兵衛の言葉に、はっとした表情を浮かべた。

そうだ。父、頼昌と兄、源太左衛門は、つい先日、戦へと赴いたのだ 。

諏訪勢の不穏な動きに対応するためだと聞いた 。

琴にとっては、愛する夫と、嫡男である息子が同時に戦場へ向かったことになる。

その胸の内は、いかばかりか。家でただ寂しく、案じながら二人の帰りを待つ母の姿は、胡蝶にとっても辛いものがあった。その不安や心細さは、痛いほど理解できる。


しかし──


「戦の心配は分かる。だが、それが母上のあの奇妙な振る舞いとどう繋がるのだ?」


胡蝶は首を傾げた。

夫や息子の無事を祈り、気を病むのは分かる。だが、それが何故、自分に対して奇妙な態度を取ることに繋がるのか。


「そりゃあ……」


弥助が、言いにくそうに口を開いた。


「胡蝶様も元服なさったら、いずれは若様や旦那様のように、戦に出られることになりやすから……」

「……」


弥助の言葉に、胡蝶は息を呑んだ。


「琴様の胡蝶様への可愛がりようは、あっしらでも知ってやす。戦場なんぞに、行かせたくないんでございましょう……。だから、こう……顔を合わせるのが、辛いんじゃ……」


権太が、さらに言葉を継いだ。吉兵衛も、黙って頷いている。


そこまで聞いて、胡蝶はようやく彼らの言わんとすることを理解した。

自分の元服の儀は、棟綱の命により、間近に迫っている 。しかし、運悪く、その矢先に父と源太左衛門が出陣してしまった。

自分が元服し、一人前の武士となれば、いずれ父や兄のように戦場へ行くことになる……。


──母は、その未来を想像し、耐えきれなくなっているのではないか。

だから、自分の顔をまともに見られない。目を合わせることから逃げるように、去ってしまうのだ。


(……そうか……そういう、ことか……)


胡蝶は、静かに俯いた。

長い睫毛が伏せられ、その表情は窺い知れない。


母を残し、戦場へ赴く。それは、自分にとっても辛いことだ。

あの優しい母を、一人、この郷に残していくのは……。


だが、それ以上に。


胡蝶は、一人前の武士となりたいと、強く願っていた。

父のように、源太左衛門のように。

この郷を、そして……何よりも、あの優しい母を守れるような、強い男になりたいのだ。

そのためならば、この身がどうなろうとも構わない。


俯いた胡蝶の肩が、かすかに震えていた。

その内心の葛藤は、傍らの男たちにも痛いほど伝わっていた。


静寂が、重く庭にのしかかる。俯いた胡蝶の周りだけ、空気が澱んでいるかのようだ。

その様子に、三人の男たちは慌てて顔を見合わせ、何とか場を和ませようと、努めて明るい声を上げた。


「ま、まあまあ、胡蝶様!」


弥助が、わざとらしく陽気に言う。



「まあまあ、胡蝶様! 元服の儀はもうすぐでございましょう! きっと琴様も、その……凛々しいお姿をご覧になれば、武士としての門出を、お喜びになりますって!」

「そうだとも! あっしらだって、胡蝶様の晴れ姿、楽しみにしてるんで!」


権太も、力強く頷く。


「へえ。きっと、凛々しくて雄々しいお姿で……」


吉兵衛がそう言いかけた時、三人の脳裏には、元服の儀に臨む胡蝶の姿が、ありありと浮かんでいた。


美しい絹の直垂(ひたたれ)に身を包み、髪を結い上げ、烏帽子を戴いた胡蝶。

父・頼昌と母・琴、そして家臣や領民たちに見守られながら、杯を交わし、新たな名を賜る……。

凛として立つその姿は、まさに新たな門出を迎える若武者。

その姿は、儚げでありながらも、どこか神々しいほどの美しさを放ち……。


「……いや、待てよ。凛々しいってよりゃあ……」


吉兵衛の呟きに、弥助が首を振っていった。


「……やっぱり天女様みてぇかもしれねぇなぁ」

「お、おう。そう言われりゃあ、そうかも……。あの白い肌に、黒髪……」


権太も、その想像に乗っかり始める。


「こりゃあ、どっかの大名様のお姫様みてぇだ……いや、嫁入りする姫君か……?」


弥助の妄想は、もはや明後日の方向へと飛躍していた。


「はは、そうだな。きっと良いお屋敷に……」

「うーん、胡蝶姫は実に美しい……」


三人が、あらぬ妄想を繰り広げ、顔を赤らめながら口角泡を飛ばし始めた、その時。

ふと、異様なまでの静けさと、肌を刺すような視線を感じ、彼らは我に返った。


そろり、と視線を向けると──。


「……」


胡蝶が、いつの間にか彼らのすぐ目の前に立っていた。

その美しい顔は、能面のように無表情。

しかし、頬は微かにひくつき、白皙の額には、くっきりと青筋が浮かんでいた。


「おい」


地を這うような、低く、冷たい声。

三人の背筋を、冷たいものが駆け上がった。

びくり、と肩を震わせ、体が石のように硬直する。


「……今、『天女』だの『嫁入り』だの、なにやら不穏な言葉が聞こえた気がするが」


胡蝶は、ゆっくりと言葉を続けた。

その声は静かだが、底知れぬ怒りが込められているのが分かる。


「──俺の聞き間違いか?」


にっこり、と。

胡蝶は笑みを浮かべた。それは、凍てつくような、恐ろしくも美しい笑みだった。


その目は全く笑っていない。

氷のように冷たい光が、三人を射抜いていた。


「「「ひぃっ!!」」」


三人は、蛙のように飛び上がり、背筋を凍らせた。

その顔は、恐怖で真っ青になっている。

やってしまった。また、この方を怒らせてしまった……!

彼らの脳裏には、以前の、三日三晩続く恐怖の「お説教」を受けた記憶が、鮮明に蘇っていた。


「ち、違うんでさぁ!胡蝶様!」


弥助が、冷や汗をだらだらと流しながら、必死に弁明を始めた。

その声は恐怖で上ずっている。


「そ、そうでやす!あっしらは、ただ、その、立派な武士になられた胡蝶様のお姿を想像して……見惚れていただけなんで!」


権太も、吉兵衛も、ぶんぶんと首を縦に振り、必死に同意する。

しかし、その言葉は胡蝶の凍てつくような怒りの前では、何の効力も持たない。


「武士、ねぇ」


胡蝶は、ゆっくりと口を開いた。


「この俺には、どうすれば武士の元服から『天女』や『嫁入り』などという言葉が出てくるのか、皆目見当もつかぬのだが……」


胡蝶は、わざとらしく首を傾げ、続ける。


「この無知蒙昧な俺に、教えてはくれぬか? 三人揃ってな」


その言葉には、底知れぬ怒りと、痛烈な皮肉が込められていた。


「ひっ……!」


三人は、短い悲鳴を上げ、完全に凍り付いた。

胡蝶の放つ、静かな、しかし圧倒的な怒りの気に、もはや弁明の言葉すら出てこない。

ただ、青ざめた顔で、ぶるぶると震えるばかりだ。

美しい顔立ちから放たれる凄みに、彼らは改めて、目の前の青年がただの美しいだけの存在ではないことを、骨身に染みて思い知らされていた。


ひゅう、と。


一陣の風が、この奇妙なやり取りを嘲笑うかのように、庭を吹き抜けていった。

その風は、午後の気怠さと共に、三人の男たちの冷や汗を、少しだけ乾かしていったのかもしれない──。


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