男たちの喧騒が消えた真田の屋敷は、がらんとした静けさに包まれていた。
当主である頼昌、そして嫡男の源太左衛門が出陣していったのは、つい先日のこと。
彼らに付き従い、多くの家臣や使用人たちも戦場へと向かった。
残された者は少なく、広大な屋敷には、どこか寂寥とした空気が漂っている。
その静寂が支配する屋敷の一角。
琴は、自らの部屋で、文机に向かっていた。
手には筆を持ち、広げられた白い和紙に、墨を含ませた穂先を近づける。
「……」
窓から差し込む柔らかな陽光が、琴の腰まで届く豊かな黒髪を照らし、艶やかな光の輪を描いている。
整った顔立ちは、憂いを帯びて、どこか影がある。
彼女は、何かを書き留めようと、一心に筆を進めようとするのだが……。
いつもなら、すらすらと動くはずの筆が、途中で止まる。
美しい眉が、わずかに寄せられた。
「あぁ、だめ……」
小さく呟き、はぁ、と深く長い溜息が漏れた。
その息は、遣る瀬無い思いが込められているかのように、切ない。
琴は、ゆっくりと筆を置くと、書きかけの和紙をくしゃりと無造際に丸め、傍らの屑籠へと投げ捨てた。
かさりと乾いた音が、部屋に響く。
琴御方。
海野の姫として生を受け、真田家に嫁ぎ、今は頼昌の妻として、そして源太左衛門と胡蝶の母として、この屋敷を守る女性。
彼女は今、深い悩みの淵に沈んでいた。
夫と息子が戦場へ赴いたことへの不安。それも勿論、彼女の心を苛む一因ではある。
しかし、今、彼女の思考を占めているのは、それとはまた別の、切実な悩みであった。
「あの子には、どのような名が……似合うのでしょう」
ぽつり、と琴は呟いた。
そう。琴は、胡蝶の元服名を考えていたのだ。
父より、胡蝶の元服を執り行うよう命じられたあの日から。
そして、あの子が、ただ美しいだけでなく、内に秘めた聡明さ、そして武への強い意志を持っていると知った時から、琴はこの子の未来を想い、その門出に相応しい名を、ずっと探し続けていた。
だが、これが中々決まらない。
素晴らしい名を思いついた、と思っても、一夜明けると「やはり、あの子には違う気がする」と思い直してしまう。
また一から考え直し、新たな名を紙に書き出す。
そんな堂々巡りが、もう何日も続いていた。
「やはり、武士として立つからには、武骨でも逞しい名が良いのかしら……。『昌』や『頼』の字を使って……」
真田家の者として、あるいは海野の血を引く者として、力強く、勇ましい名。
武士として生きる決意を固めたあの子には、それが相応しいのかもしれない。
琴は、いくつかの候補を思い浮かべ、筆を取ろうとした。
しかし──
「いいえ……」
すぐに、その考えを打ち消す。
「あの子に、そのような名は似合わない」
脳裏に浮かぶのは、胡蝶の姿。
日に透けるような白い肌、柳のようにしなやかな肢体、そして、どこか憂いを秘めた美しい貌。
武士らしい、荒々しさや猛々しさとは、あまりにもかけ離れている。
男臭い、武骨な名など、あの繊細な美しさの前では、不釣り合いに響くだろう。
では、と琴は思考を切り替える。
あの子の持つ、あの雅やかな雰囲気に合わせた名はどうだろうか。
琴の調べのように優雅で、月のように静謐で、花のように華やかな響きを持つ名。
「……駄目ね」
再び、琴は溜息をついた。
「これでは、まるで女子の名」
優美さを求めすぎると、今度は武士としての力強さが失われてしまう。
それでは、元服して武士として生きようとするあの子の名としては、あまりに頼りない。
(強く、逞しく、それでいて、あの子の持つ美しさや聡明さを損なわない名……)
(雄々しく、勇ましく、それでいて、どこか雅やかで、気品のある名……)
考えれば考えるほど、迷宮に迷い込んでいくようだ。
『信』、『綱』、『幸』……海野や真田に縁のある文字。
あるいは、あの子の持つ雰囲気を表す文字……『月』、『景』、『秀』……?
いや、どれも違う気がする。
琴は、深く、深く考え込む。美しい顔には、苦悩の色が濃く浮かんでいた。
琴は、文机に突っ伏し、深く、深く、溜息をついた。胡蝶に相応しい名は、一体どこにあるというのだろうか。
刻一刻と、元服の儀の日は近づいているというのに……。
琴が、出口の見えない思考の迷路で頭を抱えていた、まさにその時だった。
「母上、おられますか」
凛、とした、それでいて耳に心地よい声が、襖の向こうから聞こえてきた。
胡蝶の声だ。
「っ!」
琴は、びくりと身を震わせた。
咄嗟に、書き損じて屑籠に捨てた紙や、文机の上に散らばっていた元服名の案を書き付けた紙を、慌てて手許の文箱へと仕舞い込む。
ふぅ、と一つ、浅く息をつき、乱れた心を落ち着かせる。そして、常の穏やかな母の声色を取り繕って、返事をした。
「まぁ、胡蝶……どうしたのですか? 入りなさい」
静かに襖が開き、胡蝶が入ってくる。
その一挙手一投足が、まるで舞のように流麗で、無駄がない。
障子から差し込む光を受けて、その姿は淡く輝いて見える。
すらりとした立ち姿、障子に手をかける指先の優美さ、畳を踏む足音の静けさ。
(……ああ)
琴は思わず、息を呑んだ。
見慣れているはずの息子の姿なのに、その美しさに、心が囚われる。
男子だというのに、そこらの女子など足元にも及ばない、この世のものならぬ美貌。
それだけではない。まだ元服前の、子供と言っていい年齢のはずなのに、その洗練された物腰、静かな瞳の奥には、底知れぬ深慮が潜んでいるように見える。
どうして、この子は、これほどまでに……。
それは、単なる「可愛い」という言葉では言い表せない。まるで、何十年、何百年もの時をかけて磨き上げられたかのような、完成された美。
その存在は、いつも琴の心を強く揺さぶるのだ。
「母上?」
じっと自分を見つめる琴の視線に気づいたのだろう。
胡蝶が、きょとんとした表情で、小さく首を傾げた。
その無垢な仕草に、琴は、はっと我に返った。
内心の動揺を悟られぬよう、琴は努めて平静を装い、胡蝶と向き直った。
「何用ですか? 胡蝶」
声が、少しだけぎこちなく震えてしまったかもしれない。
しかし、胡蝶は気にした様子もなく、ふわりと、どこか穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ……。ただ、母上のお顔が見たくなっただけです」
そして、悪戯っぽく、言葉を続ける。
「……用がなければ、子は母に会いに来てはなりませぬか?」
琴は僅かに眉を動かした。
その問いかけは──先日、自分が言った言葉ではないか。
琴が、かつての自分と胡蝶のやり取りを思い出し、返答に窮していると、胡蝶はふっと、薄く笑みを浮かべて言った。
「冗談です」
その一言に、琴は思わず目を丸くした。
冗談……? この子が、冗談を?
いつも冷静で、どこか大人びていて、感情をあまり表に出さない胡蝶が、人をからかうようなことを言うなど。
源太左衛門とは、時折、子供らしい言い合いをしているのを見かけるが、自分に対して、このような戯けた口を利くのは、初めてかもしれない。
琴は、少しばかり戸惑いを覚えた。どう反応したものか、と。
「その……」
そんな琴の困惑をよそに、胡蝶はすっと表情を改め、ぽつり、と言葉を紡いだ。
先ほどの穏やかな笑みとは違う、どこか翳りのある声で。
「母上が、近頃、私を避けておられる気がして。申し訳ございません、つい軽い口を」
どきり、と琴の心臓が大きく跳ねた。
胡蝶の真っ直ぐな視線が、琴の心を見透かすように、静かに注がれる。
(避け……ている……?)
違う。決して、避けているわけではないのだ。
ただ……この子の顔を見ると、どうしようもなく、胸が締め付けられるような、物悲しい気持ちになってしまう。
それが何故なのか、自分でもよく分からない。
あの美しい貌を向けられると。あの清らかな瞳に見つめられると。胸の奥の柔らかな部分を掻きむしるような、痛みを覚えるのだ。
もしかしたら……。
もうすぐ元服を迎え、この子が本当の意味で自分の手元から離れていってしまう。
父や兄と同じように、武士として、いつ戦場へ赴いてもおかしくない存在になる。
その未来を思うと、無意識のうちに、この子との間に距離を作ろうとしてしまっているのかもしれない。
失うことを、恐れている……のかもしれない。
だが、それを、この聡い子が「避けられている」と感じていたとは。
琴は、自省した。
自分の勝手な感傷で、この子に寂しい思いをさせていた。
母親として、なんと未熟なことか。息子に、避けられているなどと思わせてしまうとは……母親失格ではないか。
「……」
琴は、胡蝶の視線から逃れるように、僅かに俯いた。
「胡蝶」
琴は、努めて冷静な声で、俯いた顔を上げた。いや、冷静であるように、必死に自分に言い聞かせながら。
「いいえ、胡蝶。母が……あなたを避けるなど、あるはずがないでしょう?」
唇に、柔らかな笑みを湛える。それは、いつもの優しい母の笑み。
「子を避ける母など、この世におりますまい」
そう言って、琴は穏やかな眼差しで胡蝶を見据えた。
その、いつもの優しい母の視線を受けて、胡蝶の表情から、ふっと翳りが消えた。張り詰めていたものが解けたように、安堵の息が小さく漏れるのが分かる。
「……そうですか。良かった」
胡蝶は、どこかほっとしたように呟いた。
「てっきり、私が何か、母上のお気に障るようなことをしてしまったのかと……案じておりました」
その言葉が、ちくり、と琴の胸を刺した。
(……この子は、自分のせいだと思っていたのね)
違う。違うのだ。貴方が悪いわけでは、決してない。
ただ、母であるこの私が、自分の心に折り合いをつけられずにいるだけ。
その弱さが、彼を不安にさせてしまった。
「胡蝶……いえ、違うの、それは……」
謝りたい。弁解したい。だが、言葉にならない。
自分の心の弱さを、どう説明すればいいのか。
元服を控えた息子への、感傷にも似たこの複雑な感情を、どう伝えればいいのか。
琴が、そんなもどかしさの中で言葉を探していると、不意に、胡蝶がすっと背後に手を回した。
そして、何かを取り出し、そっと琴の目の前に差し出した。
それは、古びた、小さな竹とんぼだった。
所々ささくれ立ち、色褪せてはいるが、丁寧に作られたものであることが分かる。
「母上、これを覚えておりますか」
胡蝶は、穏やかな声で問いかけた。
その竹とんぼは──。
まだ胡蝶が幼かった頃、手慰みに琴が作り、縁側で二人、飽きもせず飛ばして遊んだ、品だった。
夕暮れの光の中で、きゃっきゃと笑いながら竹とんぼを追いかける幼い胡蝶の姿が、琴の脳裏に鮮やかに蘇る。
琴は、目の前の小さな竹とんぼと、それを差し出す胡蝶の顔を、ただ黙って見つめることしかできなかった。