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第二十四幕 母の迷い路、思い出の風

男たちの喧騒が消えた真田の屋敷は、がらんとした静けさに包まれていた。

当主である頼昌、そして嫡男の源太左衛門が出陣していったのは、つい先日のこと。

彼らに付き従い、多くの家臣や使用人たちも戦場へと向かった。

残された者は少なく、広大な屋敷には、どこか寂寥とした空気が漂っている。


その静寂が支配する屋敷の一角。

琴は、自らの部屋で、文机に向かっていた。

手には筆を持ち、広げられた白い和紙に、墨を含ませた穂先を近づける。


「……」


窓から差し込む柔らかな陽光が、琴の腰まで届く豊かな黒髪を照らし、艶やかな光の輪を描いている。

整った顔立ちは、憂いを帯びて、どこか影がある。

彼女は、何かを書き留めようと、一心に筆を進めようとするのだが……。


いつもなら、すらすらと動くはずの筆が、途中で止まる。

美しい眉が、わずかに寄せられた。


「あぁ、だめ……」


小さく呟き、はぁ、と深く長い溜息が漏れた。

その息は、遣る瀬無い思いが込められているかのように、切ない。

琴は、ゆっくりと筆を置くと、書きかけの和紙をくしゃりと無造際に丸め、傍らの屑籠へと投げ捨てた。

かさりと乾いた音が、部屋に響く。


琴御方。

海野の姫として生を受け、真田家に嫁ぎ、今は頼昌の妻として、そして源太左衛門と胡蝶の母として、この屋敷を守る女性。

彼女は今、深い悩みの淵に沈んでいた。

夫と息子が戦場へ赴いたことへの不安。それも勿論、彼女の心を苛む一因ではある。

しかし、今、彼女の思考を占めているのは、それとはまた別の、切実な悩みであった。


「あの子には、どのような名が……似合うのでしょう」


ぽつり、と琴は呟いた。

そう。琴は、胡蝶の元服名を考えていたのだ。


父より、胡蝶の元服を執り行うよう命じられたあの日から。

そして、あの子が、ただ美しいだけでなく、内に秘めた聡明さ、そして武への強い意志を持っていると知った時から、琴はこの子の未来を想い、その門出に相応しい名を、ずっと探し続けていた。


だが、これが中々決まらない。

素晴らしい名を思いついた、と思っても、一夜明けると「やはり、あの子には違う気がする」と思い直してしまう。

また一から考え直し、新たな名を紙に書き出す。

そんな堂々巡りが、もう何日も続いていた。


「やはり、武士として立つからには、武骨でも逞しい名が良いのかしら……。『昌』や『頼』の字を使って……」


真田家の者として、あるいは海野の血を引く者として、力強く、勇ましい名。

武士として生きる決意を固めたあの子には、それが相応しいのかもしれない。

琴は、いくつかの候補を思い浮かべ、筆を取ろうとした。

しかし──


「いいえ……」


すぐに、その考えを打ち消す。


「あの子に、そのような名は似合わない」


脳裏に浮かぶのは、胡蝶の姿。

日に透けるような白い肌、柳のようにしなやかな肢体、そして、どこか憂いを秘めた美しい貌。

武士らしい、荒々しさや猛々しさとは、あまりにもかけ離れている。

男臭い、武骨な名など、あの繊細な美しさの前では、不釣り合いに響くだろう。


では、と琴は思考を切り替える。

あの子の持つ、あの雅やかな雰囲気に合わせた名はどうだろうか。

琴の調べのように優雅で、月のように静謐で、花のように華やかな響きを持つ名。


「……駄目ね」


再び、琴は溜息をついた。


「これでは、まるで女子の名」


優美さを求めすぎると、今度は武士としての力強さが失われてしまう。

それでは、元服して武士として生きようとするあの子の名としては、あまりに頼りない。


(強く、逞しく、それでいて、あの子の持つ美しさや聡明さを損なわない名……)

(雄々しく、勇ましく、それでいて、どこか雅やかで、気品のある名……)


考えれば考えるほど、迷宮に迷い込んでいくようだ。

『信』、『綱』、『幸』……海野や真田に縁のある文字。

あるいは、あの子の持つ雰囲気を表す文字……『月』、『景』、『秀』……?

いや、どれも違う気がする。

琴は、深く、深く考え込む。美しい顔には、苦悩の色が濃く浮かんでいた。


琴は、文机に突っ伏し、深く、深く、溜息をついた。胡蝶に相応しい名は、一体どこにあるというのだろうか。

刻一刻と、元服の儀の日は近づいているというのに……。


琴が、出口の見えない思考の迷路で頭を抱えていた、まさにその時だった。


「母上、おられますか」


凛、とした、それでいて耳に心地よい声が、襖の向こうから聞こえてきた。

胡蝶の声だ。


「っ!」


琴は、びくりと身を震わせた。

咄嗟に、書き損じて屑籠に捨てた紙や、文机の上に散らばっていた元服名の案を書き付けた紙を、慌てて手許の文箱へと仕舞い込む。

ふぅ、と一つ、浅く息をつき、乱れた心を落ち着かせる。そして、常の穏やかな母の声色を取り繕って、返事をした。


「まぁ、胡蝶……どうしたのですか? 入りなさい」


静かに襖が開き、胡蝶が入ってくる。

その一挙手一投足が、まるで舞のように流麗で、無駄がない。

障子から差し込む光を受けて、その姿は淡く輝いて見える。

すらりとした立ち姿、障子に手をかける指先の優美さ、畳を踏む足音の静けさ。


(……ああ)


琴は思わず、息を呑んだ。

見慣れているはずの息子の姿なのに、その美しさに、心が囚われる。

男子だというのに、そこらの女子など足元にも及ばない、この世のものならぬ美貌。

それだけではない。まだ元服前の、子供と言っていい年齢のはずなのに、その洗練された物腰、静かな瞳の奥には、底知れぬ深慮が潜んでいるように見える。


どうして、この子は、これほどまでに……。

それは、単なる「可愛い」という言葉では言い表せない。まるで、何十年、何百年もの時をかけて磨き上げられたかのような、完成された美。

その存在は、いつも琴の心を強く揺さぶるのだ。


「母上?」


じっと自分を見つめる琴の視線に気づいたのだろう。

胡蝶が、きょとんとした表情で、小さく首を傾げた。

その無垢な仕草に、琴は、はっと我に返った。

内心の動揺を悟られぬよう、琴は努めて平静を装い、胡蝶と向き直った。


「何用ですか? 胡蝶」


声が、少しだけぎこちなく震えてしまったかもしれない。

しかし、胡蝶は気にした様子もなく、ふわりと、どこか穏やかな笑みを浮かべた。


「いえ……。ただ、母上のお顔が見たくなっただけです」


そして、悪戯っぽく、言葉を続ける。


「……用がなければ、子は母に会いに来てはなりませぬか?」


琴は僅かに眉を動かした。

その問いかけは──先日、自分が言った言葉ではないか。

琴が、かつての自分と胡蝶のやり取りを思い出し、返答に窮していると、胡蝶はふっと、薄く笑みを浮かべて言った。


「冗談です」


その一言に、琴は思わず目を丸くした。

冗談……? この子が、冗談を?


いつも冷静で、どこか大人びていて、感情をあまり表に出さない胡蝶が、人をからかうようなことを言うなど。

源太左衛門とは、時折、子供らしい言い合いをしているのを見かけるが、自分に対して、このような戯けた口を利くのは、初めてかもしれない。

琴は、少しばかり戸惑いを覚えた。どう反応したものか、と。


「その……」


そんな琴の困惑をよそに、胡蝶はすっと表情を改め、ぽつり、と言葉を紡いだ。

先ほどの穏やかな笑みとは違う、どこか翳りのある声で。


「母上が、近頃、私を避けておられる気がして。申し訳ございません、つい軽い口を」


どきり、と琴の心臓が大きく跳ねた。

胡蝶の真っ直ぐな視線が、琴の心を見透かすように、静かに注がれる。


(避け……ている……?)


違う。決して、避けているわけではないのだ。

ただ……この子の顔を見ると、どうしようもなく、胸が締め付けられるような、物悲しい気持ちになってしまう。

それが何故なのか、自分でもよく分からない。

あの美しい貌を向けられると。あの清らかな瞳に見つめられると。胸の奥の柔らかな部分を掻きむしるような、痛みを覚えるのだ。


もしかしたら……。

もうすぐ元服を迎え、この子が本当の意味で自分の手元から離れていってしまう。

父や兄と同じように、武士として、いつ戦場へ赴いてもおかしくない存在になる。

その未来を思うと、無意識のうちに、この子との間に距離を作ろうとしてしまっているのかもしれない。

失うことを、恐れている……のかもしれない。


だが、それを、この聡い子が「避けられている」と感じていたとは。

琴は、自省した。

自分の勝手な感傷で、この子に寂しい思いをさせていた。

母親として、なんと未熟なことか。息子に、避けられているなどと思わせてしまうとは……母親失格ではないか。


「……」


琴は、胡蝶の視線から逃れるように、僅かに俯いた。


「胡蝶」


琴は、努めて冷静な声で、俯いた顔を上げた。いや、冷静であるように、必死に自分に言い聞かせながら。


「いいえ、胡蝶。母が……あなたを避けるなど、あるはずがないでしょう?」


唇に、柔らかな笑みを湛える。それは、いつもの優しい母の笑み。


「子を避ける母など、この世におりますまい」


そう言って、琴は穏やかな眼差しで胡蝶を見据えた。

その、いつもの優しい母の視線を受けて、胡蝶の表情から、ふっと翳りが消えた。張り詰めていたものが解けたように、安堵の息が小さく漏れるのが分かる。


「……そうですか。良かった」


胡蝶は、どこかほっとしたように呟いた。


「てっきり、私が何か、母上のお気に障るようなことをしてしまったのかと……案じておりました」


その言葉が、ちくり、と琴の胸を刺した。


(……この子は、自分のせいだと思っていたのね)


違う。違うのだ。貴方が悪いわけでは、決してない。

ただ、母であるこの私が、自分の心に折り合いをつけられずにいるだけ。

その弱さが、彼を不安にさせてしまった。


「胡蝶……いえ、違うの、それは……」


謝りたい。弁解したい。だが、言葉にならない。

自分の心の弱さを、どう説明すればいいのか。

元服を控えた息子への、感傷にも似たこの複雑な感情を、どう伝えればいいのか。

琴が、そんなもどかしさの中で言葉を探していると、不意に、胡蝶がすっと背後に手を回した。


そして、何かを取り出し、そっと琴の目の前に差し出した。

それは、古びた、小さな竹とんぼだった。

所々ささくれ立ち、色褪せてはいるが、丁寧に作られたものであることが分かる。


「母上、これを覚えておりますか」


胡蝶は、穏やかな声で問いかけた。

その竹とんぼは──。

まだ胡蝶が幼かった頃、手慰みに琴が作り、縁側で二人、飽きもせず飛ばして遊んだ、品だった。

夕暮れの光の中で、きゃっきゃと笑いながら竹とんぼを追いかける幼い胡蝶の姿が、琴の脳裏に鮮やかに蘇る。


琴は、目の前の小さな竹とんぼと、それを差し出す胡蝶の顔を、ただ黙って見つめることしかできなかった。


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