それは、もう十数年も前の、遠い日の記憶。
山中で拾われたという、名もなき赤子。
夫である頼昌が、そっと差し出した小さな命。
産着とも呼べぬ粗末な布にくるまれたその子は、けれど、息を呑むほどに美しかった。
すやすやと眠る、玉のような白い肌。小さな唇。長い睫毛。
ただそこにいるだけで、周囲の空気までも清らかにするような、不思議な気配を纏っていた。
(ああ……なんて、可愛い……なんて、愛おしい……)
琴は、その時、長男である源太左衛門を産んでまだ間もなかった。
初めての出産、初めての子育て。
何もかもが手探りで、果たして自分に母親が務まるのだろうかと、不安で胸がいっぱいだった日々。
そんな折に、夫が山で赤子を拾ってきた、と聞かされた時は、正直、唖然とするしかなかった。
この大変な時に、どうして……。
だが、腕の中の小さな存在を見た瞬間、そんな不安も、夫への呆れも、どこか遠くへ吹き飛んでしまったのだ。
ただただ、この子を守りたい、育てたい、という強い衝動が、胸の奥から湧き上がってきた。
それから、琴の世界は、色鮮やかに輝き始めた。
源太左衛門の世話だけでも手一杯のはずなのに、不思議と苦にはならなかった。
むしろ、この小さな赤子──胡蝶と名付けたこの子の存在が、琴に力を与えてくれたのだ。
「あぅ……」
赤子が、か細い声を発するだけで、胸が温かくなり、止めどなく母性が湧き上がってくる。
小さな手が、おぼつかない仕草で、自分の方へと伸ばされる。それだけで、天にも昇るような喜びが満ち溢れた。
母として、認識してくれた。頼ってくれている。その事実が、たまらなく愛おしい。
実の子である源太左衛門も、もちろん可愛い。目に入れても痛くないほどだ。
けれど、同じように……いや、時には実子以上に、この子に触れていたい、傍にいたい、という気持ちが勝ってしまうことすらあった。
(この子は、私が守らなければ……)
そんな思いが、常に琴の胸の中にあった。
胡蝶は、驚くほど聡明な子だった。物覚えが早く、手がかからない。
そして、向けられた愛情を、真っ直ぐに受け止め、本当に嬉しそうに、花が綻ぶように笑うのだ。
その笑顔を見るたびに、琴の心は幸福感で満たされた。
初めて「かかさま」と、舌足らずに呼んでくれた日の喜び。
よちよちと歩き始め、後を付いて回るようになった愛らしさ。
少しずつ言葉を覚え、様々なことを吸収していく聡明さ。
そして何より、その類まれなる美しさ。
幼い頃から、その貌は抜きん出て整っており、成長するにつれて、ますます磨きがかかっていった。
その美しさは、時として琴を惑わせた。あまりにも女子のように可憐で、儚げな姿。
出来心で、一度だけ、源太左衛門のお下がりではなく、琴が幼い頃に着ていた、柔らかな絹の小袖を着せてみたことがあった。
すると、どうだろう。衣が人を選ぶのか、人が衣を選ぶのか。
そこには、息を呑むほど美しい童女がいた。
悪戯心に火が付いたのは、琴だけではなかった。屋敷の女中たちも、その愛らしさに夢中になり、あれやこれやと髪を結い、飾りをつけ、まるで着せ替え人形のように扱ってしまった時期がある。
「かかさま。わたしは女子なのですか?」
ある日、色とりどりの簪で飾られ、紅まで差された胡蝶が、こてん、と首を傾げてそう尋ねた。
そのあまりにも無邪気で、曇りのない瞳。
琴は、はっと我に返り、胸がきゅっと締め付けられるような、愛しさと罪悪感を覚えたものだ。
その表情は、今でも琴の脳裏に深く、深く刻まれている。
しかし、胡蝶は、ただ美しいだけの子供ではなかった。
その才は、幼い頃から遺憾なく発揮され、時に大人たちを驚愕させた。
座学においては、まさに神童と呼ぶに相応しかった。
一度教えたことは決して忘れず、どんな難解な書物も、まるで物語を読むかのようにすらすらと読み解いてしまう。
師として付けた学僧が、舌を巻き、「この若君には、もはや教えることなど何もござりませぬ」と、早々に匙を投げてしまったほどだ。
その知識の深さ、理解力の早さは、時に琴ですら畏怖を覚えるほどであった。
更には、武術においても──。
頼昌や源太左衛門が見様見真似で教えた剣術や体術を、胡蝶は瞬く間に吸収し、己のものとしていった。
木刀を持って立ち合えば、屈強な大人でさえ、その幻惑的な動きの前に、あっという間に体勢を崩されてしまう。
父である頼昌ですら、「この子は、儂とは違う天賦の才を持っている」と、感嘆の声を漏らしたほどだった。
あまりの非凡さに、流石に、郷の者たちの中には気味悪がる者もいた。
あの子は普通ではない。どこか人間離れしている。山の物の怪か、あるいは天女か何かの類なのではないか、と。
そんな心無い陰口が、琴の耳に入ることもあった。
だが、胡蝶自身は、そんな周囲の目を気にする様子もなく、誰に対しても分け隔てなく、純粋無垢な態度で接した。
子供たちとは泥んこになって遊び、老人たちの話には静かに耳を傾ける。
その邪気のない振る舞いに、いつしか、あれこれと噂していた者たちも口をつぐむようになり、胡蝶は、その不思議な魅力で、自然と郷に溶け込んでいったのだ。
そんな穏やかな日々が続いていた、ある日の昼下がり。
琴は、幼い胡蝶と二人、屋敷の縁側に座り、ぼんやりと庭を眺めていた。
澄み渡った秋の空には、白い雲がゆっくりと流れていく。
「かかさま、あの鳥のように、空を飛べたら、どこまで行けるのでしょうか」
胡蝶が、ぽつりと呟いた。その小さな横顔には、遠い空への憧れが滲んでいる。
「どこまで、行けるのでしょうね……」
琴も、つられて空を見上げる。
どこまでも続く青い空。もし本当に飛べたなら、どこへ行けるだろうか。
(そうだ……)
ふと、琴は自身の幼い頃を思い出した。
年の離れた兄が、不器用な手つきで、小さな玩具を作ってくれた日のことを。
「胡蝶、少し待っていて」
琴は立ち上がると、小刀と、庭先に転がっていた手頃な竹切れを持ってきた。
そして、縁側に座り直し、慣れない手つきで竹を削り始める。
兄が作ってくれた時の記憶を、懸命に手繰り寄せながら。
指先を傷つけたり、思うような形にならなかったり。それでも、一心不乱に手を動かした。
隣で胡蝶が、興味深そうに、じっとその手元を見つめている。
やがて、不格好ながらも、一つの竹とんぼが出来上がった。
兄が作ってくれたものには、到底及ばない。歪で、ささくれだっていて、お世辞にも上手とは言えない代物だ。
「ほら、できたわ。あまり上手ではないけれど……」
少し照れながら、琴がそれを差し出すと、胡蝶はぱあっと顔を輝かせた。
「わぁ……!」
その小さな手で、宝物のように竹とんぼを受け取る。
その満面の笑みに、琴の心も温かくなる。
「こうやって、飛ばすの」
琴は、竹とんぼを両手で挟み、くるくると回して勢いをつけ、空へと放った。
不格好な竹とんぼは、それでも健気に、ふわりと宙を舞い、ゆっくりと庭の芝生へと落ちていった。
「わあ!とんだ!」
胡蝶は、きゃっきゃと歓声を上げ、短い足を動かして、芝生の上へと駆けていく。
落ちた竹とんぼを拾い上げ、また琴の元へ戻ってくる。
「もういっかい!」
「ええ、いいわよ」
夕陽に照らされながら、楽しそうに竹とんぼを追いかける、幼い胡蝶の姿。
その光景は、琴の記憶の中で、色褪せることなく輝き続けている。
そして──
♢ ♢ ♢
「母上?」
「!」
不意にかけられた声。
琴は、はっとして、甘い追憶の淵から現実へと引き戻された。
目の前にいるのは、もう、あの日のあどけない少年ではない。
すっかり背丈も伸び、凛々しく成長した、美しい青年としての胡蝶。
その静かな瞳が、心配そうに自分を見つめている。夢と現実の境が、一瞬、曖昧になるような感覚。
琴は、目の前に差し出された、古びた竹とんぼをじっと見つめた。
指先でそっと触れると、竹の乾いた感触が伝わってくる。
「ええ、もちろん覚えておりますよ」
琴は、掠れた声で答えた。
「それは……確かに、この母が作った竹とんぼ」
正直、驚いていた。
あの時の、間に合わせで作ったような竹とんぼを、まさかこの子が、今でも大切に持っていたとは。
あれはもう、遥か遠い昔の、ささやかな出来事だったはずなのに。
それを持っていて、更にはっきりと覚えていてくれるなんて……。
込み上げてくる懐かしさと共に、少しばかり気恥ずかしさが胸をよぎる。
「恥ずかしいわ。こんな、不格好なものを……まだ持っていたなんて」
照れくささと、少しの戸惑い。
ぽつり、と漏れ出た言葉は、琴の本心だった。
もっと綺麗なもの、価値のあるものは、他にいくらでも与えてきたはずなのに。
その時だった。
胡蝶が、勢いよく琴の手を取った。
華奢に見えるその手に、思いがけず強い力が込められている。
「──そのようなことは、決してございません」
胡蝶の声は、低く、真剣だった。
その瞳は、一点の曇りもなく、真っ直ぐに琴を見据えている。
普段の穏やかな表情とは違う、強い意志を宿した光。
突然の行動と、その剣幕に、琴は息を呑んだ。しかし、胡蝶は構わず、熱のこもった言葉を紡ぐ。
「この竹とんぼは、母上が、あの時、私のために一生懸命作ってくださった、大切な賜物」
胡蝶は、琴の手を握る自身の手に、さらに力を込めた。
「……私の持つどんな宝よりも、これこそが、一番の宝なのです」
その真摯な瞳。曇りのない、純粋な輝き。
琴は、吸い込まれるように、胡蝶の瞳に見入ってしまった。
そこには、ただただ、母への深い感謝と愛情が映し出されている。
「あの日の夕暮れの光景は……」
胡蝶は、少しだけ遠い目をして続けた。
「この命尽きる、その瞬間まで、決して忘れることはないでしょう」
(ああ……この子も……)
琴は、ようやく理解した。
あの日の夕暮れは、自分だけにとっての特別な記憶ではなかったのだ。
この子にとっても……胡蝶にとっても、忘れられない、大切な一場面として、その心に深く、深く刻み込まれていたのだ。
琴は、込み上げてくる温かな感情を、ゆっくりと胸の内にしまい込む。
そして、目の前の息子に、穏やかに問いかけた。
「胡蝶。どうして、今、この竹とんぼを?」
この大切な思い出の品を、なぜ、この時に自分に見せようと思ったのか。
その問いに、胡蝶は、ふい、と視線を逸らした。
先ほどまでの真剣な眼差しはどこへやら、見る間にその白い頬が、耳朶まで、ぽっと赤く染まっていく。
そして、子供のように、小さく俯いてしまった。
「その……」
胡蝶は、もじもじと指を弄びながら、たどたどしく言葉を探す。
「これを、ご覧になれば、母上も昔のことを思い出してくださるかと……」
声が、 小さくなっていく。
「そうすれば、近頃の……その、少し遠い感じも、昔のように……戻ってはいただけるかな、と」
言い終えると、胡蝶はさらに深く俯き、琴から顔を隠すようにしてしまった。
その姿を見て、琴の胸は再び、締め付けられた。
やはり、自分の態度を、深く気に病んでいたのだ。
そして、どうすれば母の心が和らぐか、どうすれば昔のような関係に戻れるか、自分なりに一生懸命考えて、この古い竹とんぼを持ち出してきた。
幼い頃の、幸せだった記憶を共有することで、今のぎこちない空気を壊そうと……。
(私はこの子に、こんな心配を……)
母親として情けない、という自省の念。
琴は、そっと手を伸ばし、俯いたままの胡蝶の頭を、優しく撫でた。
母の手の温もりに、胡蝶の体が、一瞬、小さく震えた。
だが、すぐに力を抜き、目を閉じて、その心地よさに身を委ねる。
まるで、幼い頃に戻ったかのように、安心しきった、穏やかな寝息のような呼吸。
琴は、その柔らかな髪を、指で優しく梳いた。
(もうすぐ、元服するというのに。このようなこと……)
成人を間近に控えた男子にするような触れ合いではない。
それは、分かっている。けれど、今だけは。この一瞬だけは。
ただの母として、この愛しい子を、こうして慈しんでいたい。
昔のように──。
しかし、その淡く、切ない願いは、無情にも打ち砕かれた。
ダン、ダン……と。
静寂を切り裂くように、廊下を駆けてくる、慌ただしい足音。
それは尋常ではない速さと乱れ方で、部屋の中にまで緊迫した空気を運んできた。
「琴御方!琴御方はおられますか!」
切羽詰まった、荒い声。
琴と胡蝶は、同時に顔を上げた。
胡蝶は、まだ少し夢見心地な表情だったが、すぐに状況を察し、顔を起こす。
襖が、勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、武士の出で立ちをした一人の男。
その顔は土気色で、額には脂汗が滲み、息は激しく乱れている。
「某、御屋形様の遣いにございます!」
男は、ぜえぜえと息を切らしながら、そう名乗った。
海野の……父の遣い?
琴と胡蝶は、顔を見合わせた。困惑と、言い知れぬ不安が胸をよぎる。
「何事です? 何かあったのですか」
琴が、努めて冷静に問いかける。男は、一瞬、言葉に詰まり、口を結んだ。
何か、非常によくない報せであることは、その表情から明らかだった。
やがて、意を決したように、男は顔を上げ、絞り出すように言った。
「此度の戦……我ら海野勢の敗北!」
その瞬間、琴と胡蝶の動きが止まった。
「御屋形様より、琴様には、急ぎ上野の長野様のもとへと逃げおおせよ、とのことにございます! どうか、一刻も早く!」
敗北──
逃げよ──。
あまりにも衝撃的な言葉が、琴の耳朶を打った。
頭の中が、真っ白になる。
隣にいた胡蝶も、息を呑み、その美しい顔から血の気が引いていくのが分かった。
カラン、と。
静まり返った部屋に、乾いた、小さな音が響いた。
胡蝶の手から、先ほどまで大切に握られていた、あの古びた竹とんぼが、力なく床に転がり落ちた音だった。