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第二十五幕 追憶の竹蜻蛉、運命の槌音


それは、もう十数年も前の、遠い日の記憶。


山中で拾われたという、名もなき赤子。

夫である頼昌が、そっと差し出した小さな命。

産着とも呼べぬ粗末な布にくるまれたその子は、けれど、息を呑むほどに美しかった。

すやすやと眠る、玉のような白い肌。小さな唇。長い睫毛。

ただそこにいるだけで、周囲の空気までも清らかにするような、不思議な気配を纏っていた。


(ああ……なんて、可愛い……なんて、愛おしい……)


琴は、その時、長男である源太左衛門を産んでまだ間もなかった。

初めての出産、初めての子育て。

何もかもが手探りで、果たして自分に母親が務まるのだろうかと、不安で胸がいっぱいだった日々。

そんな折に、夫が山で赤子を拾ってきた、と聞かされた時は、正直、唖然とするしかなかった。

この大変な時に、どうして……。


だが、腕の中の小さな存在を見た瞬間、そんな不安も、夫への呆れも、どこか遠くへ吹き飛んでしまったのだ。

ただただ、この子を守りたい、育てたい、という強い衝動が、胸の奥から湧き上がってきた。


それから、琴の世界は、色鮮やかに輝き始めた。

源太左衛門の世話だけでも手一杯のはずなのに、不思議と苦にはならなかった。

むしろ、この小さな赤子──胡蝶と名付けたこの子の存在が、琴に力を与えてくれたのだ。


「あぅ……」


赤子が、か細い声を発するだけで、胸が温かくなり、止めどなく母性が湧き上がってくる。

小さな手が、おぼつかない仕草で、自分の方へと伸ばされる。それだけで、天にも昇るような喜びが満ち溢れた。

母として、認識してくれた。頼ってくれている。その事実が、たまらなく愛おしい。


実の子である源太左衛門も、もちろん可愛い。目に入れても痛くないほどだ。

けれど、同じように……いや、時には実子以上に、この子に触れていたい、傍にいたい、という気持ちが勝ってしまうことすらあった。


(この子は、私が守らなければ……)


そんな思いが、常に琴の胸の中にあった。


胡蝶は、驚くほど聡明な子だった。物覚えが早く、手がかからない。

そして、向けられた愛情を、真っ直ぐに受け止め、本当に嬉しそうに、花が綻ぶように笑うのだ。

その笑顔を見るたびに、琴の心は幸福感で満たされた。


初めて「かかさま」と、舌足らずに呼んでくれた日の喜び。

よちよちと歩き始め、後を付いて回るようになった愛らしさ。

少しずつ言葉を覚え、様々なことを吸収していく聡明さ。


そして何より、その類まれなる美しさ。

幼い頃から、その貌は抜きん出て整っており、成長するにつれて、ますます磨きがかかっていった。

その美しさは、時として琴を惑わせた。あまりにも女子のように可憐で、儚げな姿。

出来心で、一度だけ、源太左衛門のお下がりではなく、琴が幼い頃に着ていた、柔らかな絹の小袖を着せてみたことがあった。

すると、どうだろう。衣が人を選ぶのか、人が衣を選ぶのか。

そこには、息を呑むほど美しい童女がいた。

悪戯心に火が付いたのは、琴だけではなかった。屋敷の女中たちも、その愛らしさに夢中になり、あれやこれやと髪を結い、飾りをつけ、まるで着せ替え人形のように扱ってしまった時期がある。


「かかさま。わたしは女子なのですか?」


ある日、色とりどりの簪で飾られ、紅まで差された胡蝶が、こてん、と首を傾げてそう尋ねた。

そのあまりにも無邪気で、曇りのない瞳。

琴は、はっと我に返り、胸がきゅっと締め付けられるような、愛しさと罪悪感を覚えたものだ。

その表情は、今でも琴の脳裏に深く、深く刻まれている。


しかし、胡蝶は、ただ美しいだけの子供ではなかった。

その才は、幼い頃から遺憾なく発揮され、時に大人たちを驚愕させた。


座学においては、まさに神童と呼ぶに相応しかった。

一度教えたことは決して忘れず、どんな難解な書物も、まるで物語を読むかのようにすらすらと読み解いてしまう。

師として付けた学僧が、舌を巻き、「この若君には、もはや教えることなど何もござりませぬ」と、早々に匙を投げてしまったほどだ。

その知識の深さ、理解力の早さは、時に琴ですら畏怖を覚えるほどであった。


更には、武術においても──。

頼昌や源太左衛門が見様見真似で教えた剣術や体術を、胡蝶は瞬く間に吸収し、己のものとしていった。

木刀を持って立ち合えば、屈強な大人でさえ、その幻惑的な動きの前に、あっという間に体勢を崩されてしまう。

父である頼昌ですら、「この子は、儂とは違う天賦の才を持っている」と、感嘆の声を漏らしたほどだった。


あまりの非凡さに、流石に、郷の者たちの中には気味悪がる者もいた。

あの子は普通ではない。どこか人間離れしている。山の物の怪か、あるいは天女か何かの類なのではないか、と。

そんな心無い陰口が、琴の耳に入ることもあった。


だが、胡蝶自身は、そんな周囲の目を気にする様子もなく、誰に対しても分け隔てなく、純粋無垢な態度で接した。

子供たちとは泥んこになって遊び、老人たちの話には静かに耳を傾ける。

その邪気のない振る舞いに、いつしか、あれこれと噂していた者たちも口をつぐむようになり、胡蝶は、その不思議な魅力で、自然と郷に溶け込んでいったのだ。


そんな穏やかな日々が続いていた、ある日の昼下がり。

琴は、幼い胡蝶と二人、屋敷の縁側に座り、ぼんやりと庭を眺めていた。

澄み渡った秋の空には、白い雲がゆっくりと流れていく。


「かかさま、あの鳥のように、空を飛べたら、どこまで行けるのでしょうか」


胡蝶が、ぽつりと呟いた。その小さな横顔には、遠い空への憧れが滲んでいる。


「どこまで、行けるのでしょうね……」


琴も、つられて空を見上げる。

どこまでも続く青い空。もし本当に飛べたなら、どこへ行けるだろうか。


(そうだ……)


ふと、琴は自身の幼い頃を思い出した。

年の離れた兄が、不器用な手つきで、小さな玩具を作ってくれた日のことを。


「胡蝶、少し待っていて」


琴は立ち上がると、小刀と、庭先に転がっていた手頃な竹切れを持ってきた。

そして、縁側に座り直し、慣れない手つきで竹を削り始める。

兄が作ってくれた時の記憶を、懸命に手繰り寄せながら。

指先を傷つけたり、思うような形にならなかったり。それでも、一心不乱に手を動かした。

隣で胡蝶が、興味深そうに、じっとその手元を見つめている。


やがて、不格好ながらも、一つの竹とんぼが出来上がった。

兄が作ってくれたものには、到底及ばない。歪で、ささくれだっていて、お世辞にも上手とは言えない代物だ。


「ほら、できたわ。あまり上手ではないけれど……」


少し照れながら、琴がそれを差し出すと、胡蝶はぱあっと顔を輝かせた。


「わぁ……!」


その小さな手で、宝物のように竹とんぼを受け取る。

その満面の笑みに、琴の心も温かくなる。


「こうやって、飛ばすの」


琴は、竹とんぼを両手で挟み、くるくると回して勢いをつけ、空へと放った。

不格好な竹とんぼは、それでも健気に、ふわりと宙を舞い、ゆっくりと庭の芝生へと落ちていった。


「わあ!とんだ!」


胡蝶は、きゃっきゃと歓声を上げ、短い足を動かして、芝生の上へと駆けていく。

落ちた竹とんぼを拾い上げ、また琴の元へ戻ってくる。


「もういっかい!」

「ええ、いいわよ」


夕陽に照らされながら、楽しそうに竹とんぼを追いかける、幼い胡蝶の姿。

その光景は、琴の記憶の中で、色褪せることなく輝き続けている。


そして──




♢   ♢   ♢




「母上?」

「!」


不意にかけられた声。

琴は、はっとして、甘い追憶の淵から現実へと引き戻された。


目の前にいるのは、もう、あの日のあどけない少年ではない。

すっかり背丈も伸び、凛々しく成長した、美しい青年としての胡蝶。

その静かな瞳が、心配そうに自分を見つめている。夢と現実の境が、一瞬、曖昧になるような感覚。


琴は、目の前に差し出された、古びた竹とんぼをじっと見つめた。

指先でそっと触れると、竹の乾いた感触が伝わってくる。


「ええ、もちろん覚えておりますよ」


琴は、掠れた声で答えた。


「それは……確かに、この母が作った竹とんぼ」


正直、驚いていた。

あの時の、間に合わせで作ったような竹とんぼを、まさかこの子が、今でも大切に持っていたとは。

あれはもう、遥か遠い昔の、ささやかな出来事だったはずなのに。

それを持っていて、更にはっきりと覚えていてくれるなんて……。

込み上げてくる懐かしさと共に、少しばかり気恥ずかしさが胸をよぎる。


「恥ずかしいわ。こんな、不格好なものを……まだ持っていたなんて」


照れくささと、少しの戸惑い。

ぽつり、と漏れ出た言葉は、琴の本心だった。

もっと綺麗なもの、価値のあるものは、他にいくらでも与えてきたはずなのに。


その時だった。

胡蝶が、勢いよく琴の手を取った。

華奢に見えるその手に、思いがけず強い力が込められている。


「──そのようなことは、決してございません」


胡蝶の声は、低く、真剣だった。

その瞳は、一点の曇りもなく、真っ直ぐに琴を見据えている。

普段の穏やかな表情とは違う、強い意志を宿した光。

突然の行動と、その剣幕に、琴は息を呑んだ。しかし、胡蝶は構わず、熱のこもった言葉を紡ぐ。


「この竹とんぼは、母上が、あの時、私のために一生懸命作ってくださった、大切な賜物」


胡蝶は、琴の手を握る自身の手に、さらに力を込めた。


「……私の持つどんな宝よりも、これこそが、一番の宝なのです」


その真摯な瞳。曇りのない、純粋な輝き。

琴は、吸い込まれるように、胡蝶の瞳に見入ってしまった。

そこには、ただただ、母への深い感謝と愛情が映し出されている。


「あの日の夕暮れの光景は……」


胡蝶は、少しだけ遠い目をして続けた。


「この命尽きる、その瞬間まで、決して忘れることはないでしょう」


(ああ……この子も……)


琴は、ようやく理解した。

あの日の夕暮れは、自分だけにとっての特別な記憶ではなかったのだ。

この子にとっても……胡蝶にとっても、忘れられない、大切な一場面として、その心に深く、深く刻み込まれていたのだ。

琴は、込み上げてくる温かな感情を、ゆっくりと胸の内にしまい込む。

そして、目の前の息子に、穏やかに問いかけた。


「胡蝶。どうして、今、この竹とんぼを?」


この大切な思い出の品を、なぜ、この時に自分に見せようと思ったのか。

その問いに、胡蝶は、ふい、と視線を逸らした。

先ほどまでの真剣な眼差しはどこへやら、見る間にその白い頬が、耳朶まで、ぽっと赤く染まっていく。

そして、子供のように、小さく俯いてしまった。


「その……」


胡蝶は、もじもじと指を弄びながら、たどたどしく言葉を探す。


「これを、ご覧になれば、母上も昔のことを思い出してくださるかと……」


声が、 小さくなっていく。


「そうすれば、近頃の……その、少し遠い感じも、昔のように……戻ってはいただけるかな、と」


言い終えると、胡蝶はさらに深く俯き、琴から顔を隠すようにしてしまった。

その姿を見て、琴の胸は再び、締め付けられた。

やはり、自分の態度を、深く気に病んでいたのだ。

そして、どうすれば母の心が和らぐか、どうすれば昔のような関係に戻れるか、自分なりに一生懸命考えて、この古い竹とんぼを持ち出してきた。

幼い頃の、幸せだった記憶を共有することで、今のぎこちない空気を壊そうと……。


(私はこの子に、こんな心配を……)


母親として情けない、という自省の念。


琴は、そっと手を伸ばし、俯いたままの胡蝶の頭を、優しく撫でた。

母の手の温もりに、胡蝶の体が、一瞬、小さく震えた。

だが、すぐに力を抜き、目を閉じて、その心地よさに身を委ねる。

まるで、幼い頃に戻ったかのように、安心しきった、穏やかな寝息のような呼吸。

琴は、その柔らかな髪を、指で優しく梳いた。


(もうすぐ、元服するというのに。このようなこと……)


成人を間近に控えた男子にするような触れ合いではない。

それは、分かっている。けれど、今だけは。この一瞬だけは。

ただの母として、この愛しい子を、こうして慈しんでいたい。


昔のように──。




しかし、その淡く、切ない願いは、無情にも打ち砕かれた。




ダン、ダン……と。


静寂を切り裂くように、廊下を駆けてくる、慌ただしい足音。

それは尋常ではない速さと乱れ方で、部屋の中にまで緊迫した空気を運んできた。


「琴御方!琴御方はおられますか!」


切羽詰まった、荒い声。

琴と胡蝶は、同時に顔を上げた。

胡蝶は、まだ少し夢見心地な表情だったが、すぐに状況を察し、顔を起こす。


襖が、勢いよく開け放たれた。

そこに立っていたのは、武士の出で立ちをした一人の男。

その顔は土気色で、額には脂汗が滲み、息は激しく乱れている。


「某、御屋形様の遣いにございます!」


男は、ぜえぜえと息を切らしながら、そう名乗った。

海野の……父の遣い?

琴と胡蝶は、顔を見合わせた。困惑と、言い知れぬ不安が胸をよぎる。


「何事です? 何かあったのですか」


琴が、努めて冷静に問いかける。男は、一瞬、言葉に詰まり、口を結んだ。

何か、非常によくない報せであることは、その表情から明らかだった。

やがて、意を決したように、男は顔を上げ、絞り出すように言った。


「此度の戦……我ら海野勢の敗北!」


その瞬間、琴と胡蝶の動きが止まった。


「御屋形様より、琴様には、急ぎ上野の長野様のもとへと逃げおおせよ、とのことにございます! どうか、一刻も早く!」


敗北──

逃げよ──。

あまりにも衝撃的な言葉が、琴の耳朶を打った。

頭の中が、真っ白になる。

隣にいた胡蝶も、息を呑み、その美しい顔から血の気が引いていくのが分かった。


カラン、と。


静まり返った部屋に、乾いた、小さな音が響いた。

胡蝶の手から、先ほどまで大切に握られていた、あの古びた竹とんぼが、力なく床に転がり落ちた音だった。


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