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第二十六幕 騒乱の刻、母の覚悟

普段は鳥の声と、畑を耕す音、そして子供たちの屈託ない笑い声だけが響く、静謐な真田の郷。

その長閑な風景は、今、見る影もなかった。

海野家の敗北という凶報は、瞬く間に郷の隅々まで駆け巡り、人々を深い混乱と恐怖の渦へと叩き込んだのだ。


「どけ、どけぇ!」

「きゃあっ!」


土埃の舞う道という道を、人々が右往左往に走り回っている。

その顔には、焦りと絶望の色が濃く浮かんでいた。

武田、諏訪、村上の連合軍が、いつこの郷にまで攻め寄せてくるか分からない。

一刻も早く、この地を離れなければ。その一心だけが、人々を突き動かしていた。


「おいお前、 そんな鍋釜まで持っていくつもりか!」

「当たり前だ!これがなきゃ、どうやって飯を食うんだ!」

「そんな重い物、荷車に積んでたら、敵に追いつかれるのが関の山だぞ! 置いていけ!」


なけなしの家財道具を、必死で荷車に積み込もうとする男。

それを、血相を変えて止めようとする別の男。

あちこちで、怒声や罵声が飛び交う。


「母ちゃん、どこぉ! わーん!」

「こら、しがみつくんじゃないよ! 前を見て歩きなさい!」


母親の手を離し、人波の中で泣き叫ぶ子供。

赤子を背負い、幼子の手を強く引きながら、必死の形相で道を急ぐ女たち。

彼らの目には、住み慣れた家や畑を振り返る余裕など、もはやなかった。

ただ、生き延びること。それだけが、唯一の望みだった。


穏やかだったはずの郷は、今や、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

打ち捨てられた家財。泣き声。怒号。恐怖に歪んだ人々の顔。

戦乱の影は、容赦なく、この小さな郷にも忍び寄っていた。



そして、その喧騒に満ちた郷を一望できる、小高い丘の上。そこに、真田の屋敷は、変わらずに、静かに佇んでいた。

どっしりとした門構え、掃き清められた石畳、手入れの行き届いた庭木。

つい先ほどまで人々が暮らしていた郷の混乱ぶりとはあまりに対照的に、屋敷の中は水を打ったような静寂に包まれている。

外界の騒ぎなど、どこか遠い世界の出来事であるかのように。


「……」


その屋敷の、庭の一角。

一人の青年が、眼下に広がる真田の郷を、じっと見つめていた。

胡蝶である。


「あれほど静かだった郷が、こんなにも騒がしくなってしまった」


ぽつり、と漏れた呟き。

その横顔に、表情らしい表情は浮かんでいない。

ただ、どこまでも澄んだ彼の瞳だけが、遠眼鏡でも使うかのように、郷の喧騒の一つ一つを、悲しみを湛えながら捉えていた。

荷車を押す男たちの怒声。泣きながら走る子供。右往左往する人々の波。


「……」


胡蝶は、その光景に、無言で小さく頷いた。

受け入れがたい現実を、無理やりにでも飲み込もうとしているかのように。

その静かな佇まいとは裏腹に、彼の内心は、今、激しい嵐が吹き荒れていた。

怒り、悲しみ、不安、そして、何もできない自分への無力感。様々な感情が渦巻き、胸を掻きむしる。



──あの後。



海野の武士が、憔悴しきった顔で、あの絶望的な凶報を届けてきた、その直後のことだ。

母・琴が上野へ逃れるようにという父・棟綱の言葉。

それは理解できた。しかし、胡蝶には、それよりも先に、確かめねばならぬことがあった。


『ち、父上と……源太左衛門は、どうなられたのですか!? お二人は、今、いずこに!』


胡蝶は、ほとんど反射的に、伝令の武士の腕に縋りついていた。

声が震えるのを、抑えることができなかった。

その必死の問いかけに、武士は、びくりと肩を震わせ、一瞬、その目を激しく狼狽えさせた。

視線が泳ぎ、何かを言い淀む。


(……っ!)


その、ほんの一瞬の反応。

それだけで、胡蝶は全てを察してしまった。

最悪の可能性が、脳裏をよぎる。全身から、さっと血の気が引いていくのを感じた。

息が詰まり、立っていることすら覚束なくなるような、激しい動揺が、胡蝶を襲ったのだ。

胡蝶の必死の問いかけと、その目に宿る色を失った光に、伝令の武士は観念したように、深く息を吸い込んだ。


『真田頼昌様、並びに、御嫡男・源太左衛門様は……』


言葉が、途切れる。

武士は、一度唇を噛み締め、それでも続けなければならないという義務感からか、再び言葉を紡いだ。


『海野平での、激戦の末……』


ごくり、と武士が唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。


『う、討死に、なされました……』


討死──。


その言葉が、鋭い刃のように、胡蝶の胸を貫いた。

世界から、音が消えた。視界が、歪む。


「ぁ……」


意味のない声が、胡蝶の口から漏れた。

足元が、ふらつく。支えを失ったように、体が、よろり、と傾いだ。

壁に手をつかなければ、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。


(嘘だ……)


心が、必死に叫んでいる。

そんなはずはない。父上が? あの、誰よりも強く、厳しく、そして優しかった父上が?

そして、源太左衛門が? いつも自分の前を歩き、時には厳しく時には優しく導いてくれた、あの源太左衛門が?

死ぬはずがない。あの二人が、討ち死になどするはずがないのだ。

何かの間違いだ。きっと、悪い夢を見ているのだ。


(夢……そうだ、これは夢……)


そう思おうとしても、目の前の憔悴しきった武士の姿が、冷たい現実を突きつけてくる。

全身から、急速に力が抜けていく。手足が鉛のように重くなり、指一本動かすことすら億劫になる。

頭の中が、真っ白な霧に覆われたようだ。


『……!』


だが、その朦朧とした意識の中で、不意に、母・琴の存在が浮かび上がった。

そうだ、この場には、母がいる。

自分以上に、この報せに打ちのめされているはずの母が。

夫と、息子を、同時に失ったのだ。その絶望は、いかほどか。


(しっかりしなければ……母上を、支えなければ……)


胡蝶は、最後の力を振り絞るように、壁から手を離し、母がいるであろう方向へと、反射的に顔を向けた。

今、きっと、悲しみの淵に沈み、涙に暮れているであろう母の姿を、その目に捉えようと──。


──だが。


『──え?』


胡蝶は、自分の目を疑った。

そこにいたのは、悲嘆に暮れる母の姿ではなかった。

あろうことか、母は──その美しい顔に、穏やかな、それでいてどこか近寄りがたいような、不思議な笑みを浮かべていたのだ。


(なぜ……笑って……?)


夫と息子が討死したという、この絶望的な状況で。

なぜ、母は、笑っているのか。

胡蝶の混乱は、極限に達していた。理解が追いつかない。

それは、隣にいる伝令の武士も同じだったようだ。息を呑み、呆然と琴を見つめている。

二人とも、琴から放たれる、静かだが尋常ならざる気配──いや、『圧』とでも言うべきものに押されるように、じり、と後ずさった。


しん、と静まり返った部屋。

窓の外から聞こえる郷の喧騒だけが、やけに遠く響く。

暫しの静寂の後、琴は、ゆっくりと口を開いた。

その声は、鈴を転がすように澄んでいながら、鋼のような強さを秘めていた。


『わたくしは、海野の一門に生を受けた、武士の娘にございます』


すっ、と琴は立ち上がり、まるで舞を舞うかのように、しなやかに、そして優美に身を翻した。

その動きには、一片の淀みもない。


『そして、真田に嫁ぎし後は、武士の妻となり、武士の母として生きてまいりました。その覚悟は、今も、何一つ変わりませぬ』


くるり、と胡蝶と武士の方へ向き直る。

その瞳は、先ほどの穏やかな笑みとは裏腹に、凍てつくような覚悟の色を宿していた。


『……いつか、このような日が参ることは、とうに覚悟の上。今更、取り乱しはしません』


その言葉は、雷鳴のように、胡蝶の心を撃ち抜いた。


──覚悟を、していた


胡蝶の中で、これまで築き上げてきた母の像が、音を立てて崩れ落ちていく。

胡蝶にとって、母は、蝶よ花よと慈しまれ、守られてきた、か弱く、優しいだけの女性だった。

戦のことなど何も知らず、ただ、家族の無事を祈ることしかできない、箱入り娘の延長線上にいる存在だと、そう、思い込んでいたのだ。


だが、違った。


目の前にいる母は、そんな胡蝶の浅はかな認識を、遥かに超えた場所に立っていた。

彼女は、名門・海野の娘として生まれ、武士の家に嫁いだその瞬間から、いや、物心ついた時から、既に『覚悟』を決めていたのだ。

愛する者が戦場で命を落とすこと。それが、武門に生きる者の宿命であることを。

その事実を、受け入れ、乗り越える強さを、ずっと以前から、その胸の内に秘めていたのだ。

胡蝶は、母の本当の姿を、今、初めて知った気がした。


『……』


胡蝶と同じように、伝令の武士もまた、目の前の女性──琴から放たれる、凛とした気迫に完全に気圧されていた。

だが、彼は、はっと我に返ると、自らの使命を思い出したかのように、叫ぶような声を上げた。


『琴御方!さ、左様であれば、拙者が道案内仕りまする故、急ぎお支度を!御屋形様も、きっと上野にて琴様のお越しをお待ちのはず……!』


必死だった。

主君・棟綱の娘を、安全な場所へ送り届ける。それが、己に課せられた役目なのだ、と。

早く、早くこの場を離れなければ。敵が、いつ、ここまで迫ってくるか分からない。

武士の言葉は、焦りからか、尻上がりになっていく。

だが、その必死の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

凛、とした声が、武士の言葉を遮ったのだ。


『いいえ』


たった一言。

しかし、その短い言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。

部屋は、再び水を打ったような静寂に包まれた。

武士も、そして胡蝶も、息をすることさえ忘れたかのように、ただ、琴を見つめる。

そんな中で、琴は、ゆっくりと、しかし、はっきりと告げたのだ。


『私は、逃げませぬ』


穏やかに、けれど、断固として。


『この琴は、既に真田の女。父上にはそのように、お伝えくださいませ』


ゴクリ、と。

誰かの、息を呑む音が、やけに大きく部屋に響いた。

胡蝶のものか、あるいは、伝令の武士のものか。

あるいは、二人同時のものだったのかもしれない。

琴の、あまりにも揺るぎない決意。

それは、胡蝶にとっても、そして主命を帯びた武士にとっても、想像を絶する言葉だったのだ。



ゴクリ、と、息を呑む音の余韻が、まだ耳の奥に残っている。

胡蝶は、はっと我に返り、回想の淵から意識を現実へと引き戻した。


目の前には、変わらず、手入れの行き届いた屋敷の庭が広がっている。

そして、その向こうには、騒乱に包まれた真田の郷。

先ほどまで見ていた、凛とした母の姿も、憔悴した伝令の武士の姿も、そこにはない。


(母上は……)


胡蝶は、再び眼下の郷へと視線を落とした。

必死で逃げ惑う人々。彼らは、生きるために、故郷を捨てていく。

それが、当然の選択のはずだ。

なのに、母は……。


「母上は……なぜ、お逃げにならぬのだ……」


力なく、疑問の言葉が唇からこぼれ落ちた。

父・頼昌も、兄・源太左衛門も、もういない。守るべき真田の家も、風前の灯火。

それなのに、なぜ、母は、真田の女として、ここに留まることを選んでいるのか。

その覚悟は、理解できた。しかし、その選択の意味が、胡蝶にはまだ、分からなかった。


「なぜ……」


胡蝶の呟きは、誰に聞かれることもなく、郷の喧騒の中へと吸い込まれていく。

眼下では、荷車を押す男の怒声、子供の泣き声、人々の足音が、途切れることなく続いている。

その全てが、ひどく遠い世界の出来事のように感じられた。


胡蝶は、ただ立ち尽くす。

その悲しみを湛えた瞳で、混乱の中にある故郷を、静かに見つめ続けることしかできなかった。


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