いつまでも、こうして郷を見つめているわけにはいかない。
眼下の喧騒は、胡蝶にも他人事ではないのだ。
父と源太左衛門が討死し、主家である海野家は敗れた。
自分もまた、これからどう生きるべきか、その岐路に立たされている。
否──。
(腹は、とうに決まっている)
胡蝶は、静かに息を吐いた。進むべき道は、一つしかない。
母が、あの覚悟を示した時から、迷いはなかった。
胡蝶が、自身の内なる決意を改めて固めようとした、その時だった。
「……?」
ふと、視界の端に動くものを捉えた。
屋敷へと続く、丘の坂道。そこを、複数の人影が、息を切らして駆け上がってくるのが見えた。
こんな時に、誰だ?
まさか、郷の混乱に乗じて、屋敷に押し入ろうという不届き者か。
あるいは、既に敵の斥候が……?
「……」
胡蝶は、すっと腰を落とし、いつでも動けるように身構えた。
油断なく、近づいてくる人影を睨みつける。
やがて、その姿がはっきりと見えてきた。
「……なんだ。お前たちか」
そこにいたのは、見知った顔だった。
いつもの三人組──弥助、権太、吉兵衛である。三人はぜえぜえと肩で息をしながら、汗をだらだらと流している。よほど急いで駆けてきたのだろう。
彼らは、庭先に立つ胡蝶の姿を認めるや否や、最後の力を振り絞るように駆け寄り、その前に詰め寄ってきた。
「胡蝶様!」
弥助が、息も絶え絶えに叫ぶ。
「こ、琴様が……!奥様が、お逃げにならぬというのは、まことですかい!?」
権太が、切羽詰まった声で問いかける。
吉兵衛もこくこくと頷きながら、不安と焦燥感が入り混じった表情で、胡蝶の顔を覗き込んでいる。
(なんだ、そのことか)
胡蝶は彼らの必死の形相を見て、内心で小さくため息をついた。
そしてどこか物憂げに、ふっと顔を伏せた。
母の決断はやはり郷の者たちにも大きな動揺を与えているらしい。
「あぁ、まことだ」
胡蝶は、顔を伏せたまま、力なく肯定した。
その声には、諦めにも似た響きがあった。
「……っ」
胡蝶の言葉に、三人は、揃って息を吞んだ。
噂は、やはり本当だったのだ。
真田の奥方が、この危機的状況において、逃げることを拒否している。
それは彼らのような、戦に明け暮れるわけではない者たちにとっても信じがたいことであった。
「な、なんで……? なんで奥様はそんな……?」
弥助が、絞り出すように問いかけた。
その声には、純粋な疑問と、理解できないものへの恐れが混じっている。
その問いに、胡蝶はふっと顔を上げた。
しかし、その瞳はどこか虚ろで、頼りなく揺れている。
「……俺にも、分からんのだ」
胡蝶は、まるで自分に言い聞かせるように、ぽつりと言った。
そして、縋るような、それでいて途方に暮れたような目で、目の前の三人の顔を順に見回した。
「なぁ、弥助、権太、吉兵衛。お前たちなら、分かるだろうか?どうか、俺に教えてはくれまいか」
その声は、静かだが、切実な響きを帯びていた。
「敵を前にして、死が目前に迫っているというのに……逃げないという選択肢を、なぜ、取れるのだ?何が、母上をそうさせるのだ……?」
その問いは、あまりにも根源的で、そして答えの出ないものだった。
突然、そんな問いを投げかけられた三人は、ただ、ぽかんとして顔を見合わせるしかない。
弥助も、権太も、吉兵衛も、困惑の色を隠せないでいる。
彼らにとって、危機が迫れば逃げるのは、当然の摂理。生きるための本能だ。
それを、なぜ、と問われても、答えられるはずがない。
その困惑しきった表情を見て、胡蝶は、ふ、と自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。
(何を、聞いているんだ。俺は……)
彼らに尋ねたところで、分かるはずがない。
これは、彼らの理解を超えた、母自身の『覚悟』の問題なのだから。
誰かに答えを求めてしまうほどに、自分は、まだ、混乱しているらしい。
胡蝶は、再び、物憂げに視線を落とした。
重苦しい静寂が、再び辺りを包み込んだ。
胡蝶は、答えの出ない問いを胸に抱えたまま、俯いている。
弥助たち三人も、かける言葉を見つけられず、ただ困惑した表情で立ち尽くすばかりだ。
そんな中、ぽつり、と弥助が呟いた。
それは、誰に言うともなく、ただ、思ったことが口をついて出た、というような響きだった。
「……あっしらは、武士じゃねぇだで、本当のところは分かりませんですが……」
弥助は、ごしごしと無精髭の生えた顎を撫でながら、言葉を探すように続ける。
「もしかすっと……やっぱり、武家の一門のお方様がたっちゅうのは、あっしらみてぇなもんとは、違う……何か、大事なもんがあるんじゃねぇですかい? 生き死によりも、もっと……」
その言葉は、素朴で、何の確信もないものだった。
だが、胡蝶の心に、それは、小さく、しかし確かな波紋を広げた。
(武士……武家の一門……違う価値観……)
胡蝶は、眉根を寄せた。
──武士。
それは、自分が焦がれ、目指してきた存在のはずだった。
父のように、兄のように、強く、誇り高く、この乱世を生き抜く。
それが、自分の願いだった。
元服し、名を与えられ、いつか戦場で功を立てる。その日を夢見ていた。
なのに、今、その「武士」というものが、ひどく遠い、理解できない概念のように思えてくる。
(母上の、あの覚悟は……武士の娘であり、武士の妻であり、武士の母であるからこそのものなのか?)
(父上や兄上の死は……武士としての本望だったというのか? あのように、あっけなく……)
(死を、受け入れること。あるいは、死地に赴くことを、恐れないこと。それが、武士の『覚悟』というものなのか?)
もし、そうだとしたら。
自分は、本当に、武士になれるのだろうか。
なりたいと願うだけで、その覚悟が、自分にあるのだろうか。
死の恐怖よりも、守るべきものがある。家の名誉、主君への忠義、武士としての矜持。
それらは、確かに尊いものなのかもしれない。
だが、それらは、自らの命よりも、重いものなのだろうか。
胡蝶には、分からなかった。
あれほど憧れていたはずの「武士」という生き方が、今、まるで理解できない、異質なもののように感じられる。
その価値観を、自分は、受け入れることができるのだろうか。
(私は……一体、何になりたかったのだろう……)
胡蝶は、深い葛藤の渦の中で、答えを見つけられずにいた。
ただ、胸の中に、重苦しい鉛のようなものが、ずしりと居座っている感覚だけがあった。
その表情は、苦悩の色に深く染まっていた。
思考の海に深く沈み込んでいた胡蝶だったが、ふと、じっと自分に向けられている三対の視線に気づき、はっと我に返った。
弥助、権太、吉兵衛が、心配そうに、あるいは戸惑ったように、自分の一挙手一投足を見守っている。
(いけない……)
胡蝶は、内心でかぶりを振った。
自分の悩みや葛藤に、彼らを巻き込んではいけない。
彼らは、この危急の時に、自分や母のことを心配して、わざわざ危険を冒してここまで駆けつけてくれたのだ。
その優しさに、今は応えなければ。胡蝶は、すっと表情を和らげ、穏やかな笑みを浮かべた。
それは、どこか吹っ切れたような、それでいて少し寂しげな、複雑な色合いを帯びた笑みだった。
(この者たちも、変わったものだ)
ふと、彼らがかつて、食うに困って野盗働きをしていた頃の、荒んだ瞳を思い出す。
だが、今の彼らの顔に、その頃の面影は微塵もない。
真田の家と、この郷に仕える者としての、実直さと懸命さが滲み出ている。
「さぁ」
胡蝶は、努めて明るい声で言った。
「お前たちも、早く逃げろ。郷の者たちに合流するんだ。いつまでもこんな所にいたら、本当に逃げ切れなくなってしまうぞ」
それは、彼らの身を案じての、心からの言葉だった。
しかし、その言葉に、権太が弾かれたように顔を上げた。
「こ、胡蝶様はっ! 胡蝶様はどうなさるおつもりですかい!?」
その声は、ほとんど叫びに近かった。
懇願するような響き。それでいて、どこか、答えを予期しているかのような、悲痛な色を含んでいる。
弥助と吉兵衛も、同じ思いなのだろう。固唾を呑んで、胡蝶の言葉を待っている。
その必死の問いかけに、胡蝶は一瞬、言葉に詰まった。
そして、無意識のうちに、視線が、母がいるであろう屋敷の方角へと流れる。
そこには、揺るぎない覚悟を決めた、一人の女性がいる。
胡蝶は、ゆっくりと視線を三人に戻した。
その瞳には、もう迷いの色はなかった。
ただ、静かな決意だけが宿っている。
「俺か。俺は……」
一陣の風が、丘の上を吹き抜けた。
庭の木々が葉を擦れさせ、胡蝶の黒髪を柔らかく揺らす。
風は、眼下の郷から、逃げ惑う人々の喧騒と、土埃の匂いを運んできた。
そして、胡蝶の言葉を、まるでどこか遠くへ攫っていくかのように、風の中に溶かしていった。