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第二十八幕 誇り高く、ただ凛と

真田の屋敷の中は、かつてないほどの慌ただしさに満ちていた。

廊下を走り抜ける足音、重い荷物を運ぶ音、そして、不安と焦りを隠せない囁き声。

海野家の敗北と、当主・頼昌、嫡男・源太左衛門の討死という凶報は、この屋敷にも大きな衝撃を与え、使用人たちは、一刻も早くこの地を離れようと、必死に避難の準備を進めていたのだ。


「……」


しかし、その喧騒の中にあって、屋敷の奥、琴御方の居室だけは、異様なほどの静寂を保っていた。

琴は、背筋を伸ばし、静かに座している。

その周りには、彼女が海野家から嫁ぐ際に、共に真田家へとやってきた、年配の女中たちが数人、心配そうな顔で控えていた。


「琴様……どうか、お考え直しくださいませ。一刻も早く、ここをお発ちになりませんと……」


女中頭であろうか、一番年嵩の女中が、涙を浮かべながら懇願する。

その声は、震えていた。


「どうか、お逃げを……」


別の女中も、か細い声で続ける。

しかし、琴は、ただ、穏やかに微笑むだけだった。

その表情には、悲しみも、不安も、微塵も感じられない。ただ、深く、静かな湖面のような落ち着きがあるだけだ。


(ああ……やはり、お聞き入れくださらない……)


女中たちは、心の中でため息をついた。

彼女たちは、幼い頃から琴に仕えてきた。

この姫君が、見かけの優美さとは裏腹に、一度こうと決めたら決して意志を曲げぬ、強い芯を持った女性であることを、誰よりもよく知っているのだ。

海野の血筋、そして武家の娘としての誇りが、それを許さないのだろう。


「琴様!これは、御屋形様からの、たってのご命令でもあるのです!姫様のお身に何かあっては、我らは海野の者たちに顔向けできませぬ……」

「左様でございます!真田の旦那様も、若様も、お討死なさった今、琴様まで失うわけには……!」


女中たちは、次々に言葉を重ね、必死に説得を試みる。

姫であり、今は亡き頼昌の妻である琴を守ること。それが、彼女たちに残された最後の務めなのだ、と。

しかし、琴の決意は、岩のように固かった。


「そなたたちの気持ちは、有り難く思います」


琴は、静かに首を横に振った。その声は、穏やかだが、有無を言わせぬ響きを持っている。


「けれど、私は行けませぬ。この地を離れるわけにはまいりませぬ」

「しかし……!」

「私は、もう、海野の姫ではない。真田の妻であり、母なのです」


その言葉に、女中たちは、ぐっと言葉を詰まらせた。

琴の瞳には、揺るぎない光が宿っている。

それは、悲壮な覚悟というよりは、むしろ、自らの選んだ道に対する、静かで、そして誇り高い受容の光だった。

もはや、何を言っても無駄であろうことを、女中たちは悟らざるを得なかった。

ただ、はらはらと涙を流しながら、主の前にひれ伏すことしかできなかった。


「……さぁ、貴方たちはお逃げなさい。私に、構っている暇などないはずです」


琴は、そう静かに告げた。

その声には、もう、説得を試みる余地など残されていない響きがあった。

女中たちは、もはや何も言うことができず、ただ、涙を袖で拭いながら、一人、また一人と、深々と頭を垂れ、名残惜しそうに部屋を後にしていく。

やがて、最後の一人が部屋を出て襖を閉める音が、やけに大きく響いた。


しん、と静まり返った部屋に、琴は一人、取り残された。

ふぅ、と小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。

そして、窓辺へと歩み寄り、障子をわずかに開けて、外の景色を眺めた。


(これで、いいの)


琴は、心の中で静かに呟いた。

自分のこの選択が、父・棟綱の意に背き、多くの者を困惑させる我儘であることは、重々承知している。

しかし、海野の姫として生まれ、真田の妻となった自分の価値観と信念が、ここから逃げることを、どうしても許してくれないのだ。

武士の妻として、夫が、そして息子が命を散らしたこの地を、自分だけが後にして生き永らえるなど、到底できることではなかった。

だからこそ、あの忠実な女中たちを、自分の我儘に付き合わせるわけにはいかなかった。彼女たちには、生きて、それぞれの道を歩んでほしい。


──そして、ここに残れば、どうなるか。


聡明な琴には、その結末が手に取るように分かっていた。

やがて、敵がこの郷にも攻め寄せてくるだろう。武田か、諏訪か、あるいは村上か。

いずれにせよ、この屋敷も、郷も、蹂躙される。

そして、海野棟綱の娘であり、真田頼昌の妻である自分が、敵の手に落ちれば、どのような扱いを受けるか……。


「……」


琴の脳裏に、想像するだに悍ましい、凄惨な光景が浮かぶ。

辱めを受け、弄ばれる。敵将の、あるいは雑兵たちの、手慰みになる。

武家の女として、それだけは、決して……。


(手慰みになど、なるものですか)


琴の瞳に、強い光が宿った。彼女は、すっと視線を脇へと移す。

そこには、いつからか用意されていたのであろう、白鞘の小刀が、静かに置かれていた。

琴は、ごくり、と乾いた喉で唾を飲み込んだ。指先が、微かに震える。


最期まで、誇り高く。海野の娘として、そして、真田頼昌の妻として。

その誇りを、汚されるくらいならば──。

ただ、それだけが、今の琴の心を、強く、強く支配している想いだった。


そうして、琴が一人、窓辺に佇み、静かな覚悟を胸に秘めていた、その時だった。

背後で、かすかな衣擦れの音と共に、人の気配がした。

まだ、誰か残っていたのか。諦めきれずに、説得をしに来たのだろうか──。

琴は、小さくため息をつき、ゆっくりと振り返った。


そこにいたのは、しかし、涙にくれる女中ではなかった。


「母上」


静かに、けれど、芯のある声。

部屋の入り口に、胡蝶が、いつの間にか音もなく佇んでいた。


「胡蝶……?」


琴は、思わず息子の名を呼んだ。

いつもの、あの穏やかで、少し儚げな雰囲気とは違う。

何か、強い意志を秘めたような、それでいて、どこか凪いだ湖面のような静けさを纏っている。

その、いつもと違う胡蝶の様子に、琴は言い知れぬ困惑を覚えた。

しかし、すぐに母としての顔を取り戻し、心配そうな声色で言った。


「胡蝶、貴方も早く、逃げる支度をなさい。私になど、構っていないで……」


早く、この場を離れて。安全な場所へ。

そう続けようとした琴の言葉は、しかし、胡蝶の静かな微笑みの前で、意味をなさなかった。

彼は、ただ、穏やかに微笑んでいるだけ。その美しい顔を見ていると、琴の胸に、妙なざわめきが広がっていく。


「胡蝶……?」


しばしの静寂。部屋には、外の喧騒が嘘のように、張り詰めた空気が流れている。

やがて、胡蝶が、静かに口を開いた。


「母上、私のお願いを、聞いてはくれませぬか」


その声は、常のように穏やかだったが、有無を言わせぬ響きを持っていた。


「え……?」


琴は、ただ、戸惑いの声を漏らすことしかできなかった。

お願い? この、切羽詰まった状況で、一体、何を──。

胡蝶の真意が読めず、琴は、ただ、その美しい貌を、見つめ返すばかりだった。


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