真田の屋敷の中は、かつてないほどの慌ただしさに満ちていた。
廊下を走り抜ける足音、重い荷物を運ぶ音、そして、不安と焦りを隠せない囁き声。
海野家の敗北と、当主・頼昌、嫡男・源太左衛門の討死という凶報は、この屋敷にも大きな衝撃を与え、使用人たちは、一刻も早くこの地を離れようと、必死に避難の準備を進めていたのだ。
「……」
しかし、その喧騒の中にあって、屋敷の奥、琴御方の居室だけは、異様なほどの静寂を保っていた。
琴は、背筋を伸ばし、静かに座している。
その周りには、彼女が海野家から嫁ぐ際に、共に真田家へとやってきた、年配の女中たちが数人、心配そうな顔で控えていた。
「琴様……どうか、お考え直しくださいませ。一刻も早く、ここをお発ちになりませんと……」
女中頭であろうか、一番年嵩の女中が、涙を浮かべながら懇願する。
その声は、震えていた。
「どうか、お逃げを……」
別の女中も、か細い声で続ける。
しかし、琴は、ただ、穏やかに微笑むだけだった。
その表情には、悲しみも、不安も、微塵も感じられない。ただ、深く、静かな湖面のような落ち着きがあるだけだ。
(ああ……やはり、お聞き入れくださらない……)
女中たちは、心の中でため息をついた。
彼女たちは、幼い頃から琴に仕えてきた。
この姫君が、見かけの優美さとは裏腹に、一度こうと決めたら決して意志を曲げぬ、強い芯を持った女性であることを、誰よりもよく知っているのだ。
海野の血筋、そして武家の娘としての誇りが、それを許さないのだろう。
「琴様!これは、御屋形様からの、たってのご命令でもあるのです!姫様のお身に何かあっては、我らは海野の者たちに顔向けできませぬ……」
「左様でございます!真田の旦那様も、若様も、お討死なさった今、琴様まで失うわけには……!」
女中たちは、次々に言葉を重ね、必死に説得を試みる。
姫であり、今は亡き頼昌の妻である琴を守ること。それが、彼女たちに残された最後の務めなのだ、と。
しかし、琴の決意は、岩のように固かった。
「そなたたちの気持ちは、有り難く思います」
琴は、静かに首を横に振った。その声は、穏やかだが、有無を言わせぬ響きを持っている。
「けれど、私は行けませぬ。この地を離れるわけにはまいりませぬ」
「しかし……!」
「私は、もう、海野の姫ではない。真田の妻であり、母なのです」
その言葉に、女中たちは、ぐっと言葉を詰まらせた。
琴の瞳には、揺るぎない光が宿っている。
それは、悲壮な覚悟というよりは、むしろ、自らの選んだ道に対する、静かで、そして誇り高い受容の光だった。
もはや、何を言っても無駄であろうことを、女中たちは悟らざるを得なかった。
ただ、はらはらと涙を流しながら、主の前にひれ伏すことしかできなかった。
「……さぁ、貴方たちはお逃げなさい。私に、構っている暇などないはずです」
琴は、そう静かに告げた。
その声には、もう、説得を試みる余地など残されていない響きがあった。
女中たちは、もはや何も言うことができず、ただ、涙を袖で拭いながら、一人、また一人と、深々と頭を垂れ、名残惜しそうに部屋を後にしていく。
やがて、最後の一人が部屋を出て襖を閉める音が、やけに大きく響いた。
しん、と静まり返った部屋に、琴は一人、取り残された。
ふぅ、と小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
そして、窓辺へと歩み寄り、障子をわずかに開けて、外の景色を眺めた。
(これで、いいの)
琴は、心の中で静かに呟いた。
自分のこの選択が、父・棟綱の意に背き、多くの者を困惑させる我儘であることは、重々承知している。
しかし、海野の姫として生まれ、真田の妻となった自分の価値観と信念が、ここから逃げることを、どうしても許してくれないのだ。
武士の妻として、夫が、そして息子が命を散らしたこの地を、自分だけが後にして生き永らえるなど、到底できることではなかった。
だからこそ、あの忠実な女中たちを、自分の我儘に付き合わせるわけにはいかなかった。彼女たちには、生きて、それぞれの道を歩んでほしい。
──そして、ここに残れば、どうなるか。
聡明な琴には、その結末が手に取るように分かっていた。
やがて、敵がこの郷にも攻め寄せてくるだろう。武田か、諏訪か、あるいは村上か。
いずれにせよ、この屋敷も、郷も、蹂躙される。
そして、海野棟綱の娘であり、真田頼昌の妻である自分が、敵の手に落ちれば、どのような扱いを受けるか……。
「……」
琴の脳裏に、想像するだに悍ましい、凄惨な光景が浮かぶ。
辱めを受け、弄ばれる。敵将の、あるいは雑兵たちの、手慰みになる。
武家の女として、それだけは、決して……。
(手慰みになど、なるものですか)
琴の瞳に、強い光が宿った。彼女は、すっと視線を脇へと移す。
そこには、いつからか用意されていたのであろう、白鞘の小刀が、静かに置かれていた。
琴は、ごくり、と乾いた喉で唾を飲み込んだ。指先が、微かに震える。
最期まで、誇り高く。海野の娘として、そして、真田頼昌の妻として。
その誇りを、汚されるくらいならば──。
ただ、それだけが、今の琴の心を、強く、強く支配している想いだった。
そうして、琴が一人、窓辺に佇み、静かな覚悟を胸に秘めていた、その時だった。
背後で、かすかな衣擦れの音と共に、人の気配がした。
まだ、誰か残っていたのか。諦めきれずに、説得をしに来たのだろうか──。
琴は、小さくため息をつき、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、しかし、涙にくれる女中ではなかった。
「母上」
静かに、けれど、芯のある声。
部屋の入り口に、胡蝶が、いつの間にか音もなく佇んでいた。
「胡蝶……?」
琴は、思わず息子の名を呼んだ。
いつもの、あの穏やかで、少し儚げな雰囲気とは違う。
何か、強い意志を秘めたような、それでいて、どこか凪いだ湖面のような静けさを纏っている。
その、いつもと違う胡蝶の様子に、琴は言い知れぬ困惑を覚えた。
しかし、すぐに母としての顔を取り戻し、心配そうな声色で言った。
「胡蝶、貴方も早く、逃げる支度をなさい。私になど、構っていないで……」
早く、この場を離れて。安全な場所へ。
そう続けようとした琴の言葉は、しかし、胡蝶の静かな微笑みの前で、意味をなさなかった。
彼は、ただ、穏やかに微笑んでいるだけ。その美しい顔を見ていると、琴の胸に、妙なざわめきが広がっていく。
「胡蝶……?」
しばしの静寂。部屋には、外の喧騒が嘘のように、張り詰めた空気が流れている。
やがて、胡蝶が、静かに口を開いた。
「母上、私のお願いを、聞いてはくれませぬか」
その声は、常のように穏やかだったが、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「え……?」
琴は、ただ、戸惑いの声を漏らすことしかできなかった。
お願い? この、切羽詰まった状況で、一体、何を──。
胡蝶の真意が読めず、琴は、ただ、その美しい貌を、見つめ返すばかりだった。