日が、西の山へと傾き始めている。
あれほど慌ただしかった真田の屋敷は、今や嘘のように静まり返っていた。
避難していった者たちの喧騒は遠のき、残されたのは、がらんどうとなった家屋と、長く伸びた影だけ。
時が止まってしまったかのような、深い静寂……その誰もいない閑散とした屋敷の、広い縁側。
そこに、一人の女性が、ぽつんと腰を下ろしていた。
琴である。
傾いた陽の光が、彼女の横顔を柔らかく照らし出す。
夕陽を浴びた貌は、普段にも増して白く見え、豊かな黒髪は、糸を織り交ぜたかのように煌めいている。
「……」
琴は、ただ黙って、前を見つめている。
そして、その隣には胡蝶が座っていた。彼は、母と同じように、前を見据えている。
その表情は、驚くほど穏やかで、動揺や葛藤は、今はどこにも見られない。ただ、静かな湖面のように、落ち着き払っていた。
母と子。
二人は、言葉を交わすことなく、ただ、縁側に並んで座り、ゆっくりと沈みゆく、茜色の夕日を、じっと見つめていた。
風が、そっと庭の木々を揺らし、遠くでひぐらしが鳴く声だけが、静寂の中に、微かに響いていた。
夕陽が、屋敷の瓦や庭の木々を、一層深く、濃い茜色に染め上げていく。
刻一刻と、夜の闇が近づいてくる。それは、、この地に迫る危機そのものを象徴しているかのようで……。
「母上」
そんな、張り詰めた静寂の中で。
不意に、隣に座る胡蝶が、口を開いた。
「庭の桔梗が、もうすぐ咲きそうです」
その声は、驚くほど穏やかで、普段と何も変わらない。
琴は、思わず隣の息子を見た。
──桔梗?何故、今、そのような話をするのか?
「先日、弥助が畑で妙な形の瓜が採れたと、笑っておりました」
「……」
「そういえば、この間読んだ書物に、面白い一節が……」
何事もなかったかのように。
頼昌や源太左衛門が討死したことも。この郷が滅びの淵にあることも、全てが嘘であったかのように。
胡蝶は、ただ、とりとめもなく、日常の、ささやかな出来事を語り続ける。
琴は、ただ、困惑するしかなかった。
なぜ、この子は、今、このような話をするのだろう。
この期に及んで、そんな悠長な……。
ふと、琴の脳裏に、先ほどの、部屋でのやり取りが蘇った。
あの時の、胡蝶の言葉。
『母上、私のお願いを、聞いてはくれませぬか』
『え……?』
『昔日のように、縁側にて母上とお話がしとうございます。それが、貴方の子、胡蝶の、たっての願いでございます』
これが、胡蝶の「お願い」だというのか。
ただ、昔のように、母と子が、縁側で他愛ない話をする。
それが、この子の、たった一つの願いだと?
(なぜ……なぜ、今、このようなことを……)
琴には、胡蝶の真意が、やはり理解できなかった。
あまりにも、場違いで、あまりにも、呑気で……。
しかし、隣で穏やかに語り続ける息子の横顔を見ていると、反論する気力も、問いただす気力も、なぜか湧いてこなかった。
そうして、胡蝶が立ち上がり、庭に佇む。
その凛とした背中を眺めながら、琴の脳裏には、過ぎ去りし日の光景が甦っていた。
初めて腕に抱いた時、自分の胸の中にすっぽりと収まってしまうほど小さかった赤子が、いつの間にかこんなにも逞しく成長し、今や自分の背丈をとうに追い越している──。
歳月の流れの早さと、息子の成長への感慨に、琴はそっと目を細めた。
琴がそんな静かな感傷に浸っていた、まさにその時であった。
庭の景色を見つめていた胡蝶が、不意に、しかし落ち着いた声で言った。
「私は、ずっと母上のお側に、おります」
予期せぬ言葉に、琴は一瞬、息を呑んだ。聞き間違いかと思った。
「胡蝶……?それは、どういう……」
戸惑いを隠せない琴に、胡蝶は静かに続けた。その声には、揺るぎない決意のようなものが滲んでいた。
「元服の儀も、もはや私には必要ございません」
追い打ちをかけるようなその言葉は、先ほど以上の衝撃となって琴を襲った。
元服を、しない……?
それは、武家の男子として生を受けた者が、当然のように迎えるべき節目ではないか。それを不要だと言い放つことは、すなわち──武士としての道を、捨てるということか?
全てを投げ出すと、この子はそう言っているのか……?
凄まじい衝撃に、琴は全身の血の気が引くのを感じた。身体は石のように硬直し、ただ唖然として、目の前に立つ息子の横顔を見つめることしかできなかった。
琴の荒れ狂う内心など露知らず、胡蝶はなおも静かに言葉を紡いだ。その声は、縁側の静寂に溶けるように響く。
「私めが武士の道を志したのは……ひとえに、父上と、そして母上がおられたからにございます」
そう言うと、胡蝶はふわりと、まるで舞を舞うかのように身を翻した。
夕暮れの柔らかな光を浴びて、その衣の袖がはらりと宙を掻く。
「真田の家をお守りし……母上をお守りし……そして父上のお力添えとなる……ただそれだけが、私めの願いでございました」
夕陽に照らされ、庭を背景に佇むその姿は、儚くも美しく、どこかこの世ならざる幻想的な気配さえ纏っていた。
琴は、息子のその幽玄な様に、ただ息をのみ、しばし目を離すことができなかった。
やがて胡蝶は、ゆるやかに動きを止め、再び母に向き直る。その表情は穏やかだが、強い意志を宿しているのが見て取れた。
「父上や源太左衛門が討死なされた今、私めが生きる理由は、ただ母上、貴方様お一人にございます」
そして、真っ直ぐに、射抜くように琴の目を見据え、胡蝶は言い切った。
その瞳には、一点の曇りも、迷いもなかった。
「なればこそ──私めが母上のお側を離れるなどという道が、ありえましょうか」
その言葉は、雷に打たれたかのような衝撃となって、琴の全身を貫いた。
ぶるりと、身体の芯から震えが込み上げる。
──そうか。そうだったのか。
この子が武士の道を望んだのは、己の立身のためではなかったのだ。
ただ……ただ、この母のために。父の期待に応え、自分を守る力を持つために……その一心であったのか。
なんと、哀しく、そして愚かしいすれ違いであったことか。この期に及んで、ようやく息子の真の心根に思い至るとは。
そして今も、この母のために……武家の男子としての誇りも、その若く輝かしい未来も、舞うように美しいその才能さえも、全てを捨て去り、犠牲になろうとしている──。
「な、なりません……! それだけは……!」
気づけば、琴の唇から、抑えきれない叫びが漏れていた。
衝き動かされるように、よろめきながら立ち上がり、庭に佇む息子の元へと歩み寄る。
その肩に、背に、必死に手を伸ばしながら。
だが、必死に伸ばされた母の手を、胡蝶はひらり、と柳に風と受け流すように身をかわして避ける。
そして、まるで幼子が母に悪戯を仕掛けるような、無邪気とも、どこか妖しいともとれる不可解な笑みをふと浮かべ、再び舞い始めた。
夕陽を浴びて、その姿は燃えるような金色の輪郭を帯びている。
「私は、母上の写し身」
囁くような声と共に、衣の袖が翻る。軽やかに、流れるように、時に激しく。
それは単なる舞ではなかった。琴の心をかき乱し、捕らえようとする手をすり抜け、翻弄する幻なのだ。
「お、お待ち……!お待ちなさい、胡蝶……!聞いて……!」
琴は息を切らしながら、必死にその幻影を捕まえようと手を伸ばし続ける。しかし、胡蝶はするりするりとその手を逃れ、決して捕まらない。
伸ばした指先は、ただもどかしく空を切るばかり。息子との距離は、縮まるどころか、遠のいていくようにさえ感じられた。
舞いながら、時に琴を振り返り、悪戯っぽい笑みを深めながら、胡蝶は続ける。その声は、風に乗る歌のように、どこか楽しげに響いた。
「母上がどのような道を選ばれようとも、私めは影のごとく付き従いましょう。それこそが、私めを育ててくださった母上、そして父上への、せめてもの御恩返しにございます」
追いかけるうちに、琴の足はもつれ、膝から力が抜けていく。これ以上は、もう追えない。
息も絶え絶えになり、ついに、琴はその場にくずおれるようにへたり込んでしまった。
ぜえぜえと荒い息をつきながら、ただ、舞い続ける息子の姿を見上げるしかできなかった。
その時、琴は見た。
「──ぁ……」
どこからともなく現れた無数の蝶が。金色の、あるいは瑠璃色の翅を持つ美しい蝶たちが、舞い続ける胡蝶の周りを、まるで彼に呼び寄せられたかのように、あるいは彼自身から生まれいずるかのように、共に乱れ舞い踊っているではないか。
夕暮れの光の中で舞う息子と、彼に寄り添うように舞う蝶たち。それはあまりにも美しく、あまりにも幻想的な光景だった。
琴は、声も出せず、ただその奇跡のような、それでいてどこか恐ろしい情景に心を奪われ、呆然と見入るばかりであった。
幻想的な蝶の乱舞がいつしか収まり、庭には夕暮れの静寂が再び降りてくる。舞いを終えた胡蝶は、音もなく、座り込む母の背後へと歩み寄った。
そして、そっと、壊れ物を扱うかのように優しく、しかし力強く、その華奢な肩を後ろから抱きしめた。
温かい体温が、琴の背中に伝わる。
「──どうか、母上のお心のままになされませ」
胡蝶の声が、すぐ耳元で囁くように響いた。
それは、諦観とも、絶対的な覚悟ともとれる響きを持っていた。
「この胡蝶、何処までも、お供いたします。たとえそれが、黄泉路であったとしても」
黄泉路──死。
その冷たく、決定的な言葉に、琴は全身を強張らせた。
違う、そうではない。そんなことを望んでいるわけではないのだ。
息子に、そのような道を歩ませるつもりなど、決して、なかった。
「駄目! 胡蝶、お前は逃げ……!」
琴は弾かれたように振り返り、叫んだ。息子をここから遠くへ逃がさなければと、その一心で。
しかし、振り返った先に、先ほどまで確かに感じていたはずの胡蝶の温もりも、気配も、すでに掻き消えていた。
ただ、遠く、屋敷の角を曲がっていく名残の袖が、ひらりと夕闇に翻るのが最後に見えただけだった。
「……」
一人、広い庭に取り残された琴は、しばらくの間、息子が消えた方をただ見つめ、無言で佇んでいた。
全身から力が抜け落ち、立ち上がる気力も、何かを考える力も、もはや残されていない。
「わ、私は……」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほどか細く、弱々しく震えていた。
そうして、こらえきれなくなった感情が堰を切ったように、琴の瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ち始めた。
止めようとしても、止まらない。
「私は、どうすれば……どうすれば、いいの……」
膝を抱え、その場に顔を伏せる。止めどなく流れる涙が、乾いた土を次々と濡らしていく。
夕闇が静かに庭を包み込んでいく中、琴の、ただ悲しいすすり泣きの声だけが、いつまでも、いつまでも、寂しく響き渡っていた。