陽の光は、かつてと変わらず真田の屋敷に降り注いでいる。
されど、そこに満ちていた人の声、日々の営みの音はことごとく消え失せ、今はただ、静寂が広がっているばかりであった。
主を失い、頼るべき柱をなくした使用人たちも、一人、また一人と暇を乞い、あるいはあてもなく去っていった。
あれほど多くの人間が暮らしていた屋敷は、今や魂の抜け殻のように広大で、寒々しい。
「……」
そんな虚ろな館の奥、陽光がわずかに届く広間に、琴はただ一人、寂しく座していた。
時の感覚さえ曖昧なまま、ただ過ぎゆく日差しをぼんやりと見つめている。
ふと、琴の乾いた唇から、ため息ともつかぬ微かな息が漏れた。
(なんという、諸行無常)
瞼を閉じれば、かつての賑わいが鮮やかに甦る。夫の声、子供たちの騒ぎ声、胡蝶の幼い日の足音、そして忙しなく立ち働く使用人たちの気配。
それらが、つい昨日のことのようにも、遥か遠い昔のことのようにも感じられる。
(あれほど人で溢れ、笑い声と活気に満ちていたこの屋敷が、かくも静まり返り、人気のないものになってしまうとは……まるで、全てが夢まぼろしに思えてくる)
その静寂が、かえって過去の喧騒を、琴の胸の内に鮮明に呼び覚ました。
琴はゆるりと立ち上がり、まるで何かに誘われるように、音もなく屋敷の中を歩き始めた。
一歩、また一歩と、冷えた板の間を踏みしめるたび、そこかしこに染み付いた、今はもう手の届かない家族や、去っていった者たちの温かな面影が、彼女の心に甦ってくる。
琴が、今はもういない家族や使用人たちとの温かな思い出に心を漂わせていた、まさにその時であった。
不意に、背後から穏やかな声が掛かった。
「母上、昼餉の支度が整いましたよ」
はっとして振り返ると、そこにいたのは胡蝶だった。いつもの静かな微笑みを浮かべ、その手には見事な塗り盆が捧げられている。
盆の上には、彩りも鮮やかな小鉢がいくつか行儀よく並び、湯気を立てる椀からは芳しい香りがふわりと漂ってくる。
琴は言葉を失い、ただ目の前の息子を見つめた。夢なのか、現なのか。しかし、胡蝶は確かにそこにいる。
促されるまま、琴は力なく頷く。胡蝶は嬉しそうに目を細め、琴の前に手ずから料理を一つ一つ丁寧に並べていく。
(こんなことをしている場合では、断じてないというのに……!)
琴は、差し出された箸を手に取ったものの、内心は焦燥感で焼け付くようだった。一刻も早くこの子を説得し、ここから逃さねばならない。
武士としての道も捨て、ただ母の側にいると決めたこの優しい息子を、危険な場所に留め置いてはならない。
このような状況で、悠長に食事などしている場合ではないのだ。
だけど……。
その内心の焦りとは裏腹に、琴は目の前の料理に意識を奪われ始めていた。
(なんと……なんと見事な腕前なの)
恐る恐る口にした煮物は、信じられないほど繊細な味わいであった。椀物の出汁も、香り高く深い。
どの品も、熟練の料理人が手間暇かけて作り上げたとしか思えぬほどの出来栄えだ。
だが。
琴は、我が子に料理の手解きをした記憶などまるでない。そもそも、胡蝶が厨房に立ち、このような手の込んだ料理を準備している光景など、一度として見たことがなかった。
だというのに、何故──
「私が、何故このような料理を作れるのか、不思議でございますか、母上」
凛、とした声が、琴の思考を遮った。
どくん、と琴の心臓が大きく跳ねた。まるで、心の奥底まで全てを見透かされたかのようだ。何故、この子は自分の考えていることが、手に取るように分かるというのか。
琴は声を発することもできず、ただ胡蝶の顔を見つめ返した。そんな母の焦燥を他所に、胡蝶は少しも表情を変えず、ただ静かな微笑みをたたえたまま、穏やかに言葉を続けた。
「私は……人とは、異なります」
胡蝶は、独り言のように、しかしはっきりとした声でそう告げた。その声には、以前の穏やかさとは裏腹に、どこか自嘲めいた響きと、長年抱えてきたであろう苦悩の色が滲んでいた。
その静かな告白に、琴ははっと息を呑み、思わず身を震わせた。
「幼き頃より神童と持て囃され、周囲の者も、そして何よりこの私自身が、己が常人とは異なることを、嫌というほどに認識しておりました」
その言葉は誇りとは程遠く、むしろ己の特異性を忌み嫌うかのように、苦々しげに紡がれた。
琴は知っていた。心の奥底ではずっと前から。──胡蝶が、ただの「賢い子」という枠には到底収まらない常ならざる存在であることを。
この子は……どこか『異常』なのだ。
──勉学においては、一度聞きかじっただけの異国の言葉を解し、誰も教えていないはずの深遠な知識を、まるで己の記憶を辿るかのように語ることがあった。
──武術の手合わせにおいても、まだ幼い体躯で、歴戦の大人たちをいとも容易く組み伏せる様は、子供の域を遥かに超え、常軌を逸していた。
その並外れた才を、人々は「神童」と称賛し、琴自身もまた「類稀なる秀才」という耳触りの良い言葉で、心のどこかで感じていた名状し難い違和感から目を逸らし、無理やり納得しようと努めてきたのだ。
だが、母である琴には痛いほど分かっていた。そのような陳腐な言葉では、この胡蝶という存在の特異性を、その底知れぬ深淵の欠片も言い表すことなどできぬということを。
気づかぬふりをし、考えないようにしてきた。
そして、聡いこの子もまた、母のそんな臆病さを見抜き、あえてその核心に触れぬよう、ずっと振る舞っていた。
母と子の間に保たれていた、薄氷を踏むような、硝子細工のように脆く、危うい均衡。
それを今、胡蝶自身の手で、打ち壊そうとしている──。
琴は、その峻烈な事実に気づき、全身が粟立つような感覚に襲われた。
「だ、だめ……それ以上は……」
思わず、か細く震える声が、琴の唇から漏れ出た。
これ以上、胡蝶の言葉を聞いてしまえば、今まで必死に守ってきた何かが音を立てて崩れ落ち、この子が、この愛しい息子が、自分の手から永遠に抜け落ちてしまうかのような、抗い難い恐怖に襲われたのだ。
「私は、人ならざる──」
胡蝶が、その決定的な、そしておそらくは琴にとって聞きたくない最後の言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間であった。
パァンと。乾いた鋭い音が、伽藍洞と化した屋敷に虚しく響き渡った。
琴は、己の右の掌が、胡蝶の白く滑らかな頬を力任せに叩いたのを、他人事のように認識していた。熱くジンジンと痺れる掌の感覚だけが、今しがたの出来事が現実であることを告げている。
「あっ……」
反射的に身体が動いてしまったことに、琴自身が最も狼狽し、わなわなと震えが止まらない。熱くなった己の右手を見つめ、そして目の前の息子を見上げる。
(胡蝶に……この子に、手をあげてしまった……?この私が……?)
止めどない罪悪感と、深い悲しみが、嵐のように琴の胸中を席巻した。
どんな理由があろうと、決して許されることではない。ましてや、今まさにその心の奥底を明かそうとしていた息子に対して──。
叩かれた胡蝶は、一瞬、大きく目を見開き、純粋な驚愕に染まった表情を浮かべた。その美しい瞳が、わずかに揺らいだのを琴は見た。
しかし、それもほんの束の間。すぐにふっと息を吐くと、常のあの静かな微笑みに戻った。
そして、わずかに赤みを帯びたであろう自身の頬にそっと手をやりながら、何事もなかったかのように、穏やかにこう言ったのだ。
「思えば、母上にこのように打たれるのは、初めてのことにございますね」
その声は、どこまでも優しく、穏やかであった。今の出来事など存在しなかったかのように、あるいは、母のその行為すらも、慈しむかのように。
「──」
琴には、もう何も分からなかった。
理解の範疇を遥かに超えた息子の反応に、これまでかろうじて張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、立っている力さえ失い、その場にくずおれるように崩れ落ちた。
床に手をつき、ただただ息子の顔を見上げるばかりであった。
暫くの静寂の後、琴はわなわなと震える唇で、途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。その瞳は、目の前の息子を捉えているようで、どこか遠くを見ている。
「あ、貴方は……貴方はいつも、そう……」
そして、次の瞬間、まるで心の堰が一度に決壊したかのように、抑え込んでいた感情が激しい言葉となって溢れ出した。
「どうしてっ……どうして、私の心を、私の決意を、そうまでしてかき乱すの!」
それは、問いかけではなく、魂からの悲痛な叫びであった。
幼子が大声で泣きじゃくるように、琴は叫び続けた。それは、何一つ飾らぬ、心の底からの叫び、偽りのない本音であった。
「貴方さえ……貴方がいなければ、私はとうの昔に、武家の女として、潔く自刃したのにっ!」
もう、夫はいない。源太左衛門も共に討死したと聞かされた。この海野の家も、先祖代々守り抜いてきたこの地も、風前の灯火。
幼い虎千代が一人残されたとて、あのいたいけな幼子に一体何ができるというのか──。
未来など、どこにも見えぬ、深い絶望の底にいる。本来ならば、夫と、そして子の訃報に接したあの日に、とうに命を絶っているはずだった。
武家の女の矜持として、それが当然の道であったのだ。
それをしていないのは、ただ、ただ一つ……この、胡蝶という存在が、心の重しとなり、死出の旅路への歩みを鈍らせているからに他ならない──。
この子とこうして言葉を交わし、その顔を見てしまうと、どうしても、どうしても抗いがたい感情が、心の奥底から湧き上がってきてしまうのだ。
生きたい、と。
まだ、生きねばならぬ、と。そんな、浅ましいまでの生への執着が……。
これ以上、生き恥を晒し続けるわけにはいかない。武家の女として、それは許されぬこと。誇りを失い、ただ生き永らえるなど、死よりも辛い。
なのに、どうして……どうしてこの子は、私に生きることを望ませるようなことばかりするのか──!
その存在そのものが、覚悟を鈍らせ、弱らせてしまう。
言葉は、やがて嗚咽に変わり、琴の瞳からは堰を切ったように大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
武家の妻としての矜持も、これまでの苦悩も、胸の内に渦巻いていた全ての感情が、涙と共に流れ落ちる。
そんな母の姿を、胡蝶は静かに見つめていた。
「どうか……母上のお心のままを、お聞かせくださいませ」
胡蝶は、床に崩れたままの琴の傍らにそっと膝をつき、囁くように、しかしはっきりとした声で言った。
「どのような道を選ばれようとも、この胡蝶、どこまでも貴方様と共に歩む覚悟はできておりますゆえ」
胡蝶のその言葉が、琴の心の最後の箍を外した。琴は、しゃくりあげながら、途切れ途切れに、心の奥底にしまい込んでいた本心を吐き出した。
それは、誰にも聞かせるつもりのなかった、弱く、しかし切実な願いであった。
「し……死にとう、ない……。わたくしは……まだ、死にたくない……!」
嗚咽が言葉を遮る。それでも琴は、必死に続けた。
「せめて……せめて、胡蝶…そなたと、そして虎千代の……あの子たちの成長を、この目で見届けたい……。ただ、それだけを……。それだけが、わたくしの……」
それは、幼子が母に縋りつくような、痛切な願いであった。ひとたび口にすると、もう止めることはできない。
「ああ……なんと、なんと恥ずかしい女なのでしょう、わたくしは……この期に及んで、武家の妻としての覚悟も捨て、前言を翻し、生き恥を晒そうなどと……!」
琴は、自らを責めるように言い募りながらも、嗚咽を止めることができない。
「で、でも……涙が、この涙が……どうしても、止まらぬのです……!止められぬのです……!」
泣き叫び、身をよじる琴を、胡蝶は、まるで壊れやすい雛を腕に抱くように、迷子の我が子をようやく見つけ出したかのように、そっと、しかし力強く抱きしめた。
母の震える背中を、胡蝶は優しく、あやすようにさする。その腕の中は、不思議なほどに温かく、琴は次第に荒い呼吸を落ち着かせていった。胡蝶の衣に顔を埋め、ただただ涙を流し続ける。
そして、琴の耳元で、胡蝶は静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「──ならばこの胡蝶、貴方様のためにこそ、生きましょう」