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第三十一幕 月下の麻衣、山麓の邂逅

月影だけが頼りの闇夜であった。

家々の窓から温かな灯火が漏れ、人々の笑い声や語り合う声が響いていた真田の郷も、今は人の気配が絶え、死んだように静まり返っている。

冷たい夜風が、主をなくした家々の間を吹き抜ける音が、やけに大きく、そして寂しく耳に届いた。


その静寂を破るように、二つの人影が、息を潜めながら郷の小道を駆け抜けていた。

先を行くのは胡蝶、そしてその後ろを追う、琴。


常ならば絢爛たる絹の衣を身に纏い、その姿は遠目にも華やかであった二人。

しかし今宵は、夜陰に溶け込むかのように、ごわごわとした素朴な麻の着流しを窮屈そうに纏っている。

袖や裾も動きやすいように端折られ、その姿は、隠れる身であることを如実に物語っていた。


「はぁっ……はぁっ……」


琴のか細い肩が大きく上下し、口からは白い息が苦しげに漏れる。慣れぬ夜道と、絶え間ない緊張、足元もおぼつかず、時折よろめきそうになるのを、必死に堪えている。

前方を駆けていた胡蝶が、ふと足を止め、月明かりの下、穏やかな微笑みをたたえて振り返った。その息は、琴ほど乱れてはいない。


「母上、この先少し開けた場所がございます。そこで一息入れましょう」


その声は、琴の荒い息遣いを気遣うように優しかった。


「ごめんなさい。足を引っ張ってしまって……」


琴は、途切れ途切れの息の下からか細い声で詫び、促されるままに近くの大きな木の根元に力なく座り込んだ。背中を武骨な木の幹に預けると、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じる。

胡蝶もまた、音もなく母の隣に腰を下ろし、そっと身を寄せた。冷たい夜気が二人を包むが、寄り添うことでわずかな温もりが感じられる。

しばしの沈黙の後、胡蝶がふと、夜空を見上げながら遠い目をして呟いた。


「こうしていると、昔のことを思い出します。私がまだ幼かった頃、一度、祭りの帰りに道に迷い、このような夜更けに母上が血相を変えて探しに来てくださったことがございましたね。あの時も、確かこんな風に月が出ておりました」


胡蝶の言葉に、琴の脳裏にも、ぼんやりと霞んでいた遠い日の記憶が甦った。

そうだ、確かにそんなことがあった。あの時は、この子を見失った恐怖と不安で、一時も生きた心地がしなかったものだ……。

そして、ようやく見つけ出した時の安堵感と、この腕に抱きしめた温もりを、今でも鮮明に思い出せる。


「……」


そして琴は気づく。胡蝶は、今のこの極限の状況の中で、必死に母を不安がらせまいと、心を和ませようと、努めて明るい話題を選んでいるのだということに。

この優しい息子は、いつだってそうなのだ。


(この子は……いつもこうして、私のことを第一に考えてくれる。この子に、これ以上心配をかけてはならない……。守られるばかりではなく、母として、私もこの子を支えねば)


琴は、胸の奥から込み上げてくる熱いものをぐっとこらえ、知らず背筋を伸ばそうとしていた。

琴が、息子の気遣いに胸を熱くし、改めて気を引き締めようとした、まさにその時であった。


「……!」


鋭い気配を察したのか、胡蝶が瞬時に琴の腕を掴み、声もなく力強く引き寄せると、そのまま母の身体に覆いかぶさるようにして、傍らの大木の深い闇へと身を潜めた。


「胡蝶……?」


何事かと動揺する琴の耳に、次の瞬間、複数の馬蹄の音が硬い地面を叩くように響き渡ってきた。

音は次第に大きくなり、数騎の騎馬武者が月光を浴びながら、郷の中心へと向かっていくのが、木の葉の隙間から見えた。

夜の闇に紛れてその姿は判然としなかったが、先頭を行く者の鎧に描かれた紋は、少なくとも海野のものではなかった。


(あ、あれは……敵方の騎兵……?もう、こんなところにまで……?)


その事実に気づいた琴は、息を呑み、恐怖に小さく身を震わせた。

そんな母の肩を、胡蝶は背後から強く抱きしめ、耳元で囁いた。


「ご安心なさいませ、母上。今の貴女は、ただの村の娘。高貴なる琴御方ではございませぬゆえ、仮に気付かれても、大丈夫でしょう」


常の穏やかな声に、どこか悪戯っぽい響きが混じっている。

思いもよらぬ言葉に、琴は一瞬、目を丸くして息子を見上げたが、その真剣な表情の中に潜む茶目っ気のある光に気づき、ふと強張っていた口元が緩んだ。


「ふふ……もう、娘と呼べるような歳ではありませぬけれどね」


小さく、しかし確かな笑みが漏れた。


「何を仰せられます。私めにとっては、母上はいつまでもお若く、美しいお方でございますよ」


胡蝶は、芝居がかった口調でそう返し、悪戯っぽく笑った。

その軽口に、琴の心からも、先ほどまでの凍てつくような恐怖がいくらか薄らいでいくのを感じた。

この子のそばにいれば、どんな困難も乗り越えられるような、不思議な勇気が湧いてくる。


やがて馬蹄の音が遠ざかり、完全に騎馬武者たちの気配が消え去ったのを確認すると、二人は再び音もなく立ち上がり、先ほどとは逆の方向へ、より一層身を隠すようにして郷の外れへと急いだ。

ほどなくして、彼らは郷を抜け出し、鬱蒼とした木々が迫る山の麓へと辿り着いた。目の前には、夜空に黒々とした影を落とす、険しい山塊がそびえ立っている。


「この山を……幾つか越えれば、そこはもう上野の国……」


琴は、天を突くかのような山並みを見上げ、絞り出すようにそう呟いた。

上野国──それは、関東管領たる上杉憲政が治める地であり、古くからの由緒を持つ名門大名である。

そして、海野家にとっても、実質的な後ろ盾とも言える存在であった。彼らにとって、今は唯一頼れるかもしれない場所だった。


「……」


胡蝶もまた、母の隣で険しい山容を静かに見上げていた。

その涼やかな横顔は常と変わらぬように見えたが、内心では先ほど通り過ぎた騎馬武者のことで思考を巡らせていた。


(この真田の郷にまで敵の武者が公然と出入りしているとなると……事態は俺が思う以上に早く動いている。山中にも、斥候や落ち武者狩りの徒歩兵が潜んでいると考えるべきか……)


もはや、この地は安寧の場所ではない。完全に敵の勢力圏と化しているのだ。

その冷厳な事実に、胡蝶の背筋をぞくりと冷たいものが伝った。

しかし、母にわずかでも動揺を悟られてはならぬと、努めて穏やかな、余裕のある素振りで口を開いた。


「さあ、母上。この胡蝶めが先導いたしますゆえ、どうぞお手を……」


そう言って、母に手を差し伸べようとした、まさにその時であった。


──!


ガサガサッ、と間近の茂みが激しく揺れ、何者かが潜んでいる気配。


(──敵かっ!)


胡蝶の全身から、一瞬にして柔和な空気が消え失せた。次の瞬間、彼は流れるような、しかし常人には到底目で追えぬほどの速さで腰の刀に手をかけ、抜き放っていた。

月光を浴びて光る刃先は、寸分の狂いもなく、音のした茂みへと正確無比に向けられている。


「……!」


抜き身の切っ先が捉えたのは、闇に蠢く複数の影だった。

だが、茂みから恐怖に顔を引きつらせながら飛び出してきたのは、屈強な武者ではなかった。


「ひっ…!」

「こ、胡蝶さま……!お、お待ちくだせえ!あっしらでございます……!」


息を切らし、情けない声をあげながら現れたのは、見慣れた顔──この郷の者である、弥助、そして権太と吉兵衛の三人であった。


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