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第三十二幕 無情の刃、散りゆく忠義

月明かりも届かぬ鬱蒼とした木立の中、一行は互いの息遣いだけを頼りに、険しい山道を進んでいた。

先頭を行く胡蝶が時折小枝を払い、足場の悪い箇所では後続に注意を促す。そのすぐ後ろを、琴が弥助たちに気遣われながら続く。

皆、口数は少なく、ただ黙々と足を運んでいた。夜鳥の鳴き声と、風が木々を揺らす音だけが、一行の周りに満ちている。


しばらく歩いた後、前を行く胡蝶が独り言のように、しかし後ろの者たちにも聞こえるように呟いた。


「それにしても」


一拍置いて、胡蝶は弥助たち三人に静かに問いかけた。


「お前たち、何故もっと早くに逃げなんだ。これほどの危難だ、とうに上野国へと逃げ延びたとばかり思っていたが」


胡蝶の言葉に、弥助たちは互いに顔を見合わせ、気まずそうに口ごもった。その目には、何かを隠しているような動揺の色が浮かんでいる。

やがて、弥助がおずおずと口を開いた。


「そ、その……お恥ずかしながら、やっぱりあっしら百姓だけでは、どうにも心細くて…道中何があるか分かりやせんし」


その言葉を皮切りに、権太も慌てて付け加えた。


「そ、そうでさあ! 俺たち三人ぽっちじゃ、イノシシにでも出くわしたら一巻の終わりで……!それに、道もよく分からんですし」


吉兵衛もまた、どもりながら、「こ、胡蝶さまと、琴さまがご一緒ならば何となく、何とかなるような気がいたしましてなぁ。へへ……」と力なく笑った。

三者三様の言い訳は、しかしどこか歯切れが悪く、視線も定まらない。

彼らの言葉を聞き終えると、胡蝶はふっと目を伏せ、何も言わなかった。

その表情は夜陰に隠れて窺い知れなかったが、長く細い睫毛がわずかに震えているように見えた。


「……」


胡蝶には、痛いほど分かっていた。彼らの言葉は、ただの取り繕いに過ぎない。

恐怖や心細さが皆無とは言わぬ。だが、それ以上に、彼らは──この胡蝶と、母である琴とを、あの危険な郷で、ただひたすらに待ち続けていたのだ。

主家を見捨てず、最後まで付き従おうと……。

その愚直なまでの忠義が、胡蝶の胸を締め付けた。ありがたいと思うと同時に、彼らを更なる危険に巻き込んでしまったことへの申し訳なさも込み上げてくる。


そして、胡蝶の後ろを歩む琴もまた、息子の沈黙の意味を、そして弥助たちの言葉の裏にある真心を、静かに感じ取っていた。


「貴方たちにも、このような辛い思いをさせてしまい、本当に申し訳なく思っています。私のために、余計な苦労を掛けてしまいますね……」


その声には、心からの労りが滲んでいた。

しかし、三人は慌てて首を横に振り、琴に気弱な言葉を言わせまいとするかのように口々に励ましの言葉を続けた。


「な、何をおっしゃいやっすか、琴さま!あっしらが勝手にお供すると決めたんでやす。それに、琴さまと胡蝶さまがおられれば、あっしらは百人力だと思ってやすんで!」


弥助が、いつもの朴訥な口調で、しかし力強く言う。


「そうですとも! 琴さまは、どっしり構えていてくだされば! あっしら、胡蝶さまの指図通り、しっかりお守りしますんで!」

「そうそう!だから、俺たちを導いてくだせぇ……!」


他の二人も、ややぎこちないながらも、必死に励ますように言った。

彼らの言葉は、どこか空元気のようにも聞こえたが、そこには琴を心から案じ、元気づけようとする温かい心が込められていた。

そのやり取りを、先頭を歩きながら背中で聞いていた胡蝶は、再び複雑な想いに包まれていた。


(この者たちは、初めて出会った頃は、落ち武者狩りを生業とする野盗……)


それが今や、主家のために命を投げ出すことも厭わぬかのような忠義を見せ、弱っている母を必死に励まそうとしている。


(こうも、人は変わるものなのか。──いや、違う)


胡蝶は思考を巡らせる。


(元々、彼らは根っからの悪人などではなかった。むしろ、世間一般で言うならば『お人よし』の類に入るのだろう。ただ、この戦国の世が、彼らから穏やかな暮らしを奪い、生きるために、他者を傷つけ、奪う道を選ばざるを得ないほどに、追い詰めてしまったのだ……)


──何故だ?

何故、このような、本来ならば誰かを傷つけることなど望まぬであろう、気のいい者たちが、野盗などという行為に手を染めねばならなかったのだろうか。

何が、彼らをそうさせたのだろうか?


胡蝶の心に、重く、そして答えの出ない問いが渦巻く。人の善性とは何か。悪とは何か。それは生まれ持ったものなのか、それとも環境がそうさせるのか。

険しい山道を踏みしめながら、胡蝶は深く、深く思い悩んだ。

そして、ふと顔を上げた彼の瞳に、ある種の諦念にも似た、しかし確かな光が宿った。


(……そうだ。悪いのは、人ではない。悪いのは、このどうしようもなく歪んでしまった『世』そのものなのだ。この、力なき者がただ生きるためだけに、獣のように牙を剥かねばならぬこの乱世こそが、全ての元凶なのだ……)


胡蝶が、乱世の不条理に静かな怒りと新たな決意を胸に刻みつけた、まさにその時であった。

不意に、前方の木々の間から、ゆらりと揺れる松明の赤い光がいくつも見えた。それは、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


「──!」


一行は息を呑み、その場に凍り付いた。

松明の光に照らし出されたのは、紛れもなく武装した兵士たちの姿だった。それも、一人ではない……三人。

おそらくは、先ほど郷で見かけた騎兵の仲間であろう。その腰には刀が差され、手には槍や薙刀のような長柄の武器を持っている者もいる。


(敵兵……!?)


胡蝶の身体が反射的に動いた。腰の刀に手をかけ、抜き放とうとしたその刹那、傍らにいた弥助が、震える手で必死に胡蝶の腕を押さえた。


「こ、胡蝶さま……!お待ちくだせえ!ここは……ここはあっしにお任せを……!」


弥助の声は恐怖に上ずっていたが、その目には必死の色が浮かんでいた。


「いくら胡蝶さまでも、この暗がりで、武装した三人相手は……あまりにも無謀でございまさぁ……!」


胡蝶は眉をひそめ、弥助を見つめた。


「では、どうするというのだ、弥助。このままではいずれ見つかるぞ」


その声には、抑えきれない焦燥が滲む。

弥助はごくりと唾を飲み込み、意を決したように言った。


「あっしが……あっしがあの者たちの前に出ます。ただの逃げ遅れた百姓だと、命ばかりはお助けくだされ、持っている銭も何もかも差し出しますから、どうかこの場は見逃してくれ、と。そう言って、何とか奴らの気を引きます。その隙に、この先の脇道からお逃げくだせえ!」

「お、お前……!」


胡蝶は、そのあまりにも無謀で、自己犠牲的な提案に驚愕し、言葉を失った。

そんなことをすれば、弥助自身がどうなるか、知れたものではない。

しかし、弥助は、もはや胡蝶の返事を待つつもりはなかった。彼はぐっと唇を噛み締めると、琴と胡蝶に一度だけ深く頭を下げ、「どうか、ご無事で……!」という悲痛な囁きを残し、制止する間もなく、松明の光が揺れる方へと飛び出していった。


「お、お侍様方!お待ちくだせえ!どうか、お待ちを!」


弥助の必死な声が、夜の静寂を破って響き渡った。

前方の松明の光がぴたりと止まり、武装した兵士たちが、茂みから飛び出した弥助の姿を怪訝な顔で捉えたのが分かった。

松明の光の中で、三人の侍たちはじろりと弥助に鋭い視線を向けた。一人が柄に手を掛けたまま、低く威圧的な声で問う。


「何者だ。こんな夜更けに、山中で何をうろついている」

「へ、へぇっ!あっしは、麓の村のしがない百姓の弥助と申すもんで……その、村が物騒になりやしたもんで、命からがら逃げてきたところでございまして」


弥助は腰を折り曲げ、震える声で必死に訴えた。顔は恐怖で引きつっている。

木の陰で、胡蝶たちは息を殺し、そのやり取りを固唾を飲んで見守っていた。心臓が早鐘のように打ち、冷たい汗が背中を伝う。


(弥助が……弥助が、命懸けで時を稼いでくれている……。この隙に逃げねば、彼の覚悟が無駄になる……!)


頭ではそう理解しているのに、胡蝶の足は地面に縫い付けられたように動かなかった。弥助をこの場に一人残していくことなど、できるはずもない。

琴もまた、青ざめた顔で胡蝶の袖を強く掴み、不安げに弥助と侍たちを交互に見ている。権太と吉兵衛も、顔面蒼白で身を固くし、祈るように弥助の背中を見つめていた。


「ほう、逃げてきた、とな。ならば、真田の一族の者どもが、どの方角へ落ち延びたか、知っておろうな?正直に申せ。見逃してやらんこともないぞ」


その言葉に、胡蝶と琴の心臓が、同時に大きく跳ね上がった。弥助がどう答えるか、生きた心地がしなかった。

弥助は一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐにどもりながらも、必死の形相で答えた。


「さあ……?真田の……御方でございますか…?あっしらのようなただの土百姓には、武士の方々のお考えなど、皆目……あ、もしかしたら、あっしらとは別の……もっと大きな山道から、とっくにこの辺りはお逃げなさったんじゃねえですかい……?あっしらが見たのは、それはもう、ずっと前のことで……」


弥助の言葉が終わると、辺りには再び重苦しい静寂が支配した。

風の音と、松明がパチパチと爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。


張り詰めた空気の中、胡蝶の額から、一筋の冷や汗がこめかみを伝って流れ落ちた。

その雫が地面に落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂だった。弥助の言葉を吟味するかのように、侍たちは黙り込んでいる。


やがて、顔を見合わせていた侍の一人が、納得したかのように、あるいは何事かを諦めたかのように、ぽつりと呟いた。


「そうか」


その呟きが聞こえたかと思うと、次の瞬間、弥助の腹に、月の光を吸い込んだような黒い影──短刀が、音もなく、しかし深々と突き刺さっていた。

先ほどまで弥助に質問していた侍が、いつの間にか抜き放っていた短刀を、無表情のまま、躊躇いもなくねじ込んだのだ。


「え──?」


それは、琴の声か、胡蝶の声か、あるいは権太や吉兵衛の誰かの声だったのか。

ただ、信じられないものを見た人間の、虚ろな呟きだけが、闇夜の山中に空しく響き渡った。


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