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第三十三幕 血染めの刃、命の代償

「な、なんで……なんで……?」


くぐもった声で弥助が呟き、崩れ落ちるようにその場にうずくまった。

押さえた腹の指の間から、どくどくと生温かい血が溢れ出し、闇色の土を濡らしていくのが、松明の光にぼんやりと照らし出されて見える。

その光景を目の当たりにした胡蝶は、時が凍り付いたかのように、身動き一つできなかった。


「──」


声にならない声が、喉の奥でつかえる。

思考が白く染まり、全身の震えが、もはや意志の力ではどうにも抑えられなくなっていた。

だが、胡蝶のそんな内面の激動など意にも介さぬように、三人の武士たちは、道端の石でも蹴飛ばしたかのように、淡々と言葉を交わし始めた。


「おい、もう少し話を聞いてからでもよかったのではないか。何か知っていたかもしれんぞ」


一人が、弥助を刺した男に咎めるでもなく言った。

刺した男は、短刀の血を弥助の衣服で無造作に拭いながら、鼻で笑った。


「何も知らぬと白々しく抜かしおったではないか。それに、どのみち、この郷の者は根切り──一人残らず殺せとのお達しだ。手間が省けたわ」


もう一人が、腕を組みながら嘆息した。


「ふむ……しかし、この分では、海野の一族の行方を知る者は、この郷にはもうおらんかもしれんな。骨折り損か」


その無慈悲な言葉の断片は、木の陰に隠れる胡蝶たちの耳にもはっきりと届き、彼らを戦慄させるには十分過ぎた。


郷の者を、皆殺し──

狙いは海野の一族──


それが、どのような冷酷な判断の末に下された命令なのかは知る由もない。

だが、一つだけ確かなことは、目の前の武士たちは、自分たちを逃がす気など毛頭ないということだった。


「や……弥助……」


胡蝶の唇から、か細い声が漏れた。

その視線は、冷酷な武士たちから離れ、地面にうずくまり、浅い息を繰り返す弥助の姿を捉えていた。もう、動くこともままならないようだ。


あの、いつも朴訥で、気のいい弥助が。

ただ、我らを助けたい一心で飛び出していったあの男が。

ああも、たやすく、そして理不尽に、命を奪われようとしている。


「おのれ──」


その事実が、じわじわと、胡蝶の心の奥底で凍り付いていた何かを溶かし、代わりに熱く、焼け付くような激情を呼び覚まそうとしていた。

それは胡蝶の全身から、まるで陽炎のようにゆらりと立ち昇る、尋常ならざる気配。凍てつくような、それでいて燃え盛るような殺気であった。

権太と吉兵衛は、その恐ろしいまでの気にいち早く気づき、顔色を変えた。


「こ、胡蝶さま……!いけやせん!どうか、ここは…ここは弥助の覚悟を無駄になさらないでくだせえ──!」


権太が悲鳴に近い声で制止しようと手を伸ばすが、時すでに遅かった。

胡蝶の脳裏には、かつて畑仕事の合間に見せた、弥助の朴訥だが心優しい笑顔が鮮明に浮かび上がっていた。

そしてそれは、今……血溜まりの中で苦悶の表情を浮かべ、絶望的な目で虚空を見つめる哀れな姿と、あまりにもかけ離れていて……。


(──おのれ。おのれ、おのれっ!武器を持たぬ者を、抵抗する意志さえ示さぬ民草を、虫けらのように、無残に殺すとは!)


もはや、権太と吉兵衛の必死の制止の声は、胡蝶の耳には届いていない。背後で息を詰めて震える母、琴の存在すらも、今の彼にとっては遠い世界の出来事のようだった。

ただただ、身を焦がすほどの激しい激情が、彼の全てを支配していた。


「──許さぬ!この鬼畜どもめ!」


獣のような咆哮と共に、胡蝶は腰の刀を抜き放つと同時に、隠れていた大木の陰から、疾風の如く飛び出した。


「!?」

「て、敵か……!?どこからだ!」


突然、虚空から舞い降りるように現れた胡蝶の姿に、油断しきっていた三人の武士たちは、一瞬、何が起きたのか理解できず、ただ驚愕の声を上げるしかなかった。

胡蝶の怒りの咆哮と、それに続く凄まじい気配に、三人の武士たちは即座に反応した。

一人は槍を、もう一人は刀を構え直し、弥助を刺した男は血濡れた短刀を捨て、腰の太刀を引き抜く。


「囲め!」

「小癪な!」


三者三様の怒声と共に、彼らは胡蝶を迎え撃つべく陣形を組もうとした。

だが、彼らの動きはあまりにも遅すぎた。胡蝶は、重さなど存在しないかのように、月光を背にふわりと宙を舞うと、槍を構えた武士の頭上を軽々と飛び越え、その背後に音もなく着地する。


「しまっ……!?」


武士が驚愕と共に振り返ろうとした瞬間、胡蝶の刀が一閃。赤い飛沫が闇に舞い、武士は声もなく崩れ落ちた。

薙刀を構えた武士が、仲間を斬られた怒りと恐怖に顔を引きつらせ、刀を横薙ぎに振るう。しかし、胡蝶の姿はすでにそこにはなく、刀は虚しく空を切るのみ。


「が……はっ!?」


次の瞬間、その武士の背後から、再び冷たい刃が閃いた。胡蝶は、木の葉が舞うように、予測不可能な軌道で動き、相手の攻撃をことごとく見切り、的確に急所を切り裂いていく。

二人目の武士もまた、短い呻き声を上げて地に伏した。その間、ほんの数瞬の出来事であった。


「ひっ……!?」


目の前で、屈強な仲間たちが赤子のように瞬く間に斬り伏せられる様を目の当たりにした最後の武士──弥助を刺した男は、完全に戦意を喪失していた。


「こ、此奴……物の怪か……!?人間の動きじゃ……!」


顔面蒼白となり、腰が抜けそうになるのを必死に堪え、男は武器を投げ出すと、なりふり構わず背を向けて闇雲に逃げ出した。


「逃がすかっ──!」


憤怒に燃える胡蝶は、残る一人を仕留めんと、凄まじい速さで追撃を開始する。だが、怒りに我を忘れていたせいか、あるいは足元に転がる亡骸に気づかなかったのか。

逃げる武士を追う胡蝶の足が、先ほど斬り捨てた武士の死体に無残にもつまずいた。


「くっ……!」


一瞬、大きく体勢を崩した胡蝶。その僅かな隙に、恐怖に駆られた武士は、闇の中へと姿を消してしまった。


しん、と辺りは静まり返る。


先ほどまでの怒号も、刃と刃が交わる音も、今はもうどこにもない。

ただ、風が木々の葉を揺らす音と、胡蝶の荒い息遣い、そして、生々しい血の匂いだけが、その場に残された二人の武士の亡骸と共に、夜の闇に満ちていた。

そして、恐る恐る、といった様子で木の陰から権太と吉兵衛、そして彼らに支えられるようにして琴が姿を現した。


彼らは、生々しい血の匂いが漂う惨状と、その中心で血染めの刀を握り締め、荒い息を繰り返す胡蝶の姿を、ただ呆然と見つめていた。

胡蝶は、母である琴の、恐怖と不安に引きつった顔を見て、ようやく燃え盛るような激情が急速に冷めていくのを感じた。

はっとして、自分が何をしたのかを徐々に認識し始める。


「……」


──俺はなんてことをしてしまったのだ……。

弥助は、自らの命を賭して、我らを逃がすための時を稼ごうとしてくれた。その覚悟を一時の怒りに任せて台無しにしてしまった。


(二人の武士を斬り捨て……そして、あろうことか、最後の一人を逃してしまった……!)


その事実が冷水のように胡蝶の頭に降りかかり、全身から血の気が引くのを感じた。


(そうだ!逃がしてしまった……!これで、我らの存在、そしてこの山に逃げ込んでいることが、確実に敵方に伝わってしまう…!)


先ほどまでの怒りはどこへやら、今度は別の種類の、肌を刺すような戦慄が胡蝶を襲った。これでは、弥助の犠牲が全くの無駄になってしまう。

その時、胡蝶はふと、自らの右手が小刻みに震えていることに気がついた。刀を握るその手が、まるで自分の意志とは無関係に、カタカタと震えている。


「……」


この震えは……敵を逃したことへの悔しさから来るものではない。ましてや、先ほどの戦いの興奮の残り香でもない……。

それは、これまで感じたことのない、腹の底から這い上がってくるような、冷たく、そして重い何かだった。


──人の命を、この手で、二つも断ち切ってしまったという、紛れもない事実。


生々しい感触、断末魔の苦悶の表情、流れ出るおびただしい血。それらが、経験したことのない種類の恐怖となって、胡蝶のまだ若い心を容赦なく締め付け始めていた。

根源的な、生命を奪ったことへの畏れと罪の意識。これまで書物の上でしか知らなかった「死」という現実が、己の行為として、重くのしかかってきていた。


──そんな胡蝶の底知れぬ恐れを断ち切ったのは、弱々しく、しかし確かに届いた声であった。


「胡蝶……さま……」

「!」


生きている!まだ、弥助は……。

胡蝶は、弾かれたように振り返り、血の海に沈む弥助の元へと慌てて駆け寄った。その傍らに膝をつくと、弥助は虫の息で、胡蝶を見上げていた。

だが、その腹から流れ出る鮮血は、もはや止まる気配を見せない。


「!」


一目見て、胡蝶は残酷な現実を悟った。

しかし、そんな絶望をおくびにも出さず、必死に笑顔を作ろうとしながら弥助に呼びかけた。


「弥助!しっかりするのだ!大丈夫だ、今すぐに手当を……傷口を押さえて……!」


だが、弥助は力なく、ゆっくりと首を横に振った。


「へへ……胡蝶さまは…やっぱり、武士には……む、向いてない…かもしれやせんねぇ……」


掠れた声で、弥助はそう言って力なく笑った。その口の端からも、赤いものがわずかに滲んでいる。

胡蝶は、その言葉の意味を掴みかねて、困惑したように首を傾げた。

そんな胡蝶の表情を読み取ったのか、弥助はかすかに息を継ぎながら続けた。


「あっしのような…ただの土くれみてえな村人のために……そうやって、本気で怒って……敵を討って……おまけに、涙まで流してくださるなんて……そんなお優しいお侍さまは手どこにもいやしねえから……」

「なにを……なにを言っている、弥助……。武士も農民も、命の重さに違いなどあろうはずがない。そんなことより、傷を……早く傷を見せろ!」


胡蝶は叫ぶように言った。


「胡蝶さま……いいんです……もう、あっしは……駄目でさぁ……」


弥助の瞳から、急速に光が失われていくのが分かった。


「そ、それよりも……どうか琴さまを……お守りくだせえ。それが、あっしの……最後のお願……」


言い終わるか終わらないかのうちに、弥助の言葉は途切れ、だらりと胡蝶の腕の中に力が抜けた。

その目は、うっすらと開かれたまま、もう何も映してはいなかった。


「弥助……?おい、弥助……寝るな、ここで寝たら、敵が……おい……弥助……頼むから……」


胡蝶は必死にその肩を揺すり、名を呼び続けた。

しかし、弥助が再びその朴訥な声で応えることは、もう二度となかった。胡蝶の腕の中で、弥助の身体はゆっくりと冷たくなっていく。


「……」


……しん、と、再び山中の静寂が一行を包み込んだ。

ただ、胡蝶の嗚咽にも似た呼びかけだけが、虚しく夜の闇に吸い込まれていった。


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