胡蝶たち一行は、薄暗い山道を進んでいた。
だが、その列に弥助の姿はない。権太と吉兵衛は俯きがちに、そして琴は息子の背中を案じながら、皆、重い沈黙を抱えたまま、ただ黙々と山中を歩いていた。
木々の葉を揺らす風の音さえも、今は悲しげに響く。
「……」
先頭を行く胡蝶は、しっかりと琴の手を引いていた。その歩みは、先ほどまでと変わらず確かなものに見えたが、その横顔には一切の表情がなく、瞳は虚空を見つめている。
時折、木の根に足を取られそうになるのは、琴ではなく胡蝶の方であった。明らかに、心ここにあらずといった様子で、ただ漫然と足を前に進めているだけのように見受けられた。
そんな息子の様子を、琴は痛いほどの切なさと共に見守っていた。
(やはりこの子は……)
琴の胸に、以前から幾度となく感じてきた確信が、再び重くのしかかる。
──この子は、あまりにも優しすぎる。
武士として生きるには、その心が清らかすぎるのだ……。
今、この子の胸中を渦巻いているのは、先ほど目の前で息絶えた弥助のこと、そして、その仇を討つために、自らの手で斬り捨てた二人の武士たちのことであろう。
(信じていた者を目の前で無残に殺され、抑えきれぬ激情に駆られて、初めて人の命を奪ってしまった。その行為を深く後悔し、同時に、かけがえのない仲間を失った悲しみに打ちひしがれている……)
琴は、そっと息子の手に力を込めた。言葉はなくとも、母としての想いが少しでも伝わればと願いながら。
(やはり……この子は、武士には向いていないのかもしれない)
それは、弥助が最期に遺した言葉とも、奇しくも重なるものであった。
そうして、一行が重い足取りで山道を進んでいた時だった。
どれほど歩いただろうか。張り詰めた沈黙に耐えきれなかったのか、不意に、権太が意を決したように口を開いた。
それは、おそらく先頭を歩く胡蝶を気遣っての言葉だったのだろう。
「あの……胡蝶さま……その…弥助のことは、もう、お気になさらないでくだせえ。あいつも、きっと……」
権太の言葉が終わるか終わらないかのうちに、胡蝶はぴたりと足を止めた。そして、ゆっくりと、首だけが別の存在のように、権太の方を振り返った。
「!」
その顔を見た瞬間、権太は背筋が凍りつくのを感じた。
それは、決して鬼のような形相というわけではない。むしろ、人形師が精魂込めて作り上げたかのように整い過ぎた、白磁のような美しい顔。
だが、その顔には一切の表情が浮かんでおらず、ただ、深淵を思わせる黒い瞳だけが、じっと権太を見据えていたのだ。
そのあまりにも異質で、人間離れした美しさと、そこに込められた激しい感情の奔流に、権太だけでなく、隣にいた吉兵衛、そして琴もまた、わなわなと震えが止まらなくなった。
胡蝶の薄い唇が、わずかに動いた。その声は、静かではあったが、腹の底から絞り出すような、確かな感情が込められていた。
「気にするな、だと」
胡蝶は、再びゆっくりと前に向き直り、歩きながら言葉を紡ぐ。
「我らの為に、その命を投げ出してくれた男が、あのように無残に、犬死に同然に殺されて。どうして、気にしないでいられるのだ?」
その言葉と共に、胡蝶の眉間には深い皺が刻まれ、整った顔は苦痛に歪んでいた。
しばらくして、胡蝶が、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、ポツリ、ポツリと呟き始めた。
「弥助はな」
胡蝶は、前を見据えたまま、言葉を続ける。
「まだ元服もしておらぬ、こんな若輩の俺を……いつも一人前の武士として、敬意をもって扱ってくれた」
胡蝶の脳裏に、弥助との些細な、しかし温かい記憶が甦ってくる。
畑仕事を手伝った時のこと、共に食事をした時のこと、他愛もない話で笑い合った時のこと。
「畑で、見事な野菜が採れた時など、決まって、照れくさそうに笑いながら、こう言っていたものだ……」
琴は、息子の手が微かに震えているのを感じ取っていた。
その震えは、怒りからくるものではなく、もっと深い、心の奥底からの慟哭。
「『弟に……もし、あいつが生きてりゃあ、この野菜を腹いっぱい食わせてやりたかったんだがなぁ』……とな」
胡蝶は、力なく歩き続ける。その瞳は、今は亡き弥助の面影を追っているかのように彷徨っている。
「弥助は幼い頃、戦火の中で、たった一人の弟御を亡くしたのだそうだ。それからずっと、ずっと、その弟のことを、片時も忘れずに想い続けていたのだ……」
その言葉と共に、胡蝶は、引いていた琴の手を、無意識にか、あるいは何かを確かめるように、ぎゅっと強く握りしめた。その手は、やはり小刻みに震えていた。
「野盗などに身をやつしていたのも。全ては、故郷の村が侍どもの戦さで焼け落ち、食うものも住むところも失い、そうするより他に、生きる術がなかったから」
胡蝶の声は、次第に怒りよりも深い悲しみと、そしてどうしようもない無力感に染まっていく……。
(何故、弥助のような善人が、あのように無惨に死なねばならなかったのだ。何故、あの侍どもは、何の躊躇いもなく、弥助の命を奪うことができた?)
その思考は、やがて、血に濡れた己の手へと収束していく。
そして、脳裏に鮮明に甦るのは、自分が斬り捨てた二人の武士の、断末魔と、恐怖に怯えた顔……。
「……弥助には、確かな人生があった。弟を想い、野菜を育て、我らに忠義を尽くしてくれた……彼の、彼だけの人生が」
胡蝶の声は、絞り出すようにか細かった。
「だが、それは……俺が斬ったあの武士たちも、同じだったのかもしれぬ……。あの者たちにも、帰りを待つ家族がいたのかもしれない……武士たちが弥助の人生を奪ったように、この俺もまた、彼らの人生を、奪い去って……」
後悔と、どうしようもない苦痛が、鋭い棘のように胡蝶の胸を刺した。
その痛々しいまでの胡蝶の言葉を、聞いていられなかったのだろう。権太が、その先を言わせまいとするかのように、焦ったように声を張り上げた。
「胡蝶さまっ!何を仰せられますか!あいつらは、弥助の仇!そればかりか、あっしら全員を殺そうと襲いかかってきた刺客!」
吉兵衛もまた、必死の形相で胡蝶に訴えかける。
「そうでさぁ!自分を殺しに来た奴らを斬って、それが何の罪になるってんです!あのままじゃ、胡蝶さまも琴さまも、あっしらも、皆殺しにされてたんでさ!それを慮るだなんて、そんな……!」
彼らの言葉は、心の底から胡蝶を慰め、その苦しみを取り除こうとしてのものかもしれなかった。
あるいは、この戦国の世を生き抜くための、彼らなりの素朴で、そして揺るぎない『価値観』の違いが、そう言わせているのかもしれなかった。
だが、その言葉は、胡蝶の心を軽くするどころか、むしろ新たな重石となってのしかかるのだった。
(この世界では、驚くほどに、人の命の価値が軽い……)
それが、胡蝶を絶えず悩ませる苦悩の源の一つであった。
(何故だ?皆、何故そうまでして、人の命を、そして己の命さえも、こうも容易く奪い、捨て去ることができるのだ。それは、この乱世だからという一言で片付けてしまって良いものなのか? )
胡蝶は、答えの出ない問いに心を蝕まれながら、それでもただ一歩一歩、山道を踏みしめていた。その思考は、堂々巡りを繰り返し、出口の見えない暗闇を彷徨っているかのようだった。
その時、ふと、繋いでいた母の手が、小刻みに、しかしはっきりと震えているのを感じ取った。それは、寒さからくるものではない。明らかに、恐怖に由来する震えであった。
ハッとして、胡蝶は母の顔を見た。琴は、必死に平静を装ってはいたが、その瞳の奥には隠しきれない怯えの色が浮かんでいた。先ほどの武士たちの襲撃、弥助の死、そして今も続くこの逃避行……母が恐怖を感じるのは当然であった。
(俺は、何をこんなにも気弱になっているのだ──)
胡蝶の心に、強い自己叱咤の念が湧き上がった。
目の前には、守らねばならぬ唯一人の人がいる。この母上がいるのだ。この母が、今、怯えている。
その事実が、胡蝶の胸の内に燻っていた迷いや葛藤を、一瞬にして吹き飛ばした。
胡蝶の瞳に、先ほどまでの苦悩の色は消え、代わりに、氷のように冷たく、鋼のように強い光が宿った。
しかし、胡蝶がその絶対的な決意を固めた、まさにその時だった。
「──!」
息を呑んだ。
前方の、木々が途切れた闇の向こうに、無数の赤い光が、踊り狂う鬼火のように、ゆらゆらと揺らめきながら現れたのが彼の鋭敏な視界に飛び込んできた。
それは、一つや二つではない。数えきれぬほどの、おびただしい数の火の群れであった。
「あ、あれは……」
そして、その一つ一つの光が、松明を掲げた兵士たちの手に握られているのだと認識した瞬間、胡蝶の表情から血の気が引いた。
それは、先ほど遭遇した数騎の武者など比較にならぬほどの、大規模な、武装した兵の群れであったのだ。