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第三十五幕 渦巻く策謀、村上の牙



それは、真田の郷に、魔の手が迫る以前の話であった。




信濃国、小県郡。

かつて海野氏がその栄華を誇った屋敷は、今、新たな主を迎えていた。海野平の戦で勝利を収めた村上氏が、この地を接収したのである。


「おい、そこの門をもっと固く閉ざせ!海野の残党が、いつ鼠のように忍び込んでくるか分からんぞ!」


屋敷の門には、昨日まで掲げられていたであろう海野氏の紋は無残にも引き剥がされ、代わりに、丸に上の字を染め抜いた村上氏の旗指物が、風を受けて猛々しくはためいている。

屋敷の中を行き交うのは、雅な装束の海野の者たちではない。泥と汗に汚れ、武骨な甲冑に身を固めた村上氏の兵士たちだ。


「へっ、海野の奴らも、まさか自分たちの城で、俺たちがこうして踏ん反り返る日が来るとは思うまいよ」


彼らの荒々しい声、武具の擦れる音、そして馬のいななきが、かつては静謐であったはずの屋敷に、絶えず響き渡っている。

掃き清められていたはずの庭には武具が無造作に置かれ、磨き上げられていたはずの廊下は、土足で歩き回る兵士たちの足跡で汚れていた。

兵士たちの顔には、海野氏を打ち破った勝利の高揚感が浮かんでいる。

しかし同時に、その瞳の奥には、まだ完全に支配しきれていないこの土地への警戒心と、隣国の武田や諏訪といった、油断ならぬ勢力への猜疑心が、深い影を落としていた。


「これで小県も、晴れて我らのものよ!」

「だが油断はするな。武田も諏訪も、この地を狙っておるかもしれん……」


昨日までの主が、今日の敗者となる。戦国の世の無常さを、この屋敷の様相は雄弁に物語っていた。

勝利の歓喜と、次なる戦いへの予感。その二つが入り混じった、張り詰めた空気が、屋敷全体を重く支配している。


そして、その屋敷の一画──最も広く、かつては海野氏が祝宴や重要な儀式を執り行ったであろう広間は、今や村上氏の軍議の場と化していた。


上座には、どっしりとした床几が置かれ、重臣たちが厳しい表情で居並んでいる。彼らの顔には、幾多の戦場を駆け抜けてきた証である深い皺や傷跡が刻まれ、その眼光は、獲物を狙う鷹のように鋭い。

彼らがただそこに座しているだけで、部屋全体にピリピリとした緊張感が漲り、歴戦の強者だけが持つ独特の威圧感が、空気を重くしていた。


「御屋形様のおなりぃ!」


やがて、広間の奥の襖が静かに開かれ、一人の男が悠然と姿を現した。

その男こそ、この北信濃にその名を轟かせる、村上義清である。


齢は四十ほど。過酷な戦乱の世を生き抜いてきた者特有の精悍さを持ちながら、その体躯は今まさに壮年の充実期を迎え、脂が乗り切っている。

日に焼けた肌、鋭く光る眼光、そして、額や頬に走る幾筋かの古い刀傷は、彼が決して安穏と城に座しているだけの当主ではなく、自ら先陣を切って敵陣に切り込む勇将であることを物語っていた。


彼は、ただの猛将ではない。この混沌とした信濃において、自らの知略と武勇をもって勢力を拡大し続ける、一大勢力の長なのである。


義清が上座の床几に腰を下ろすと、それまで微かにざわついていた広間は、水を打ったように静まり返った。

家臣たちは皆、一斉に頭を垂れ、主君の次の言葉を固唾を飲んで待っている。義清は、その鋭い眼光で、居並ぶ家臣たちの顔を一人一人、ゆっくりと見渡した。


しばしの静寂の後、義清は重々しく口を開いた。


「此度の海野攻め、まこと大儀であった。皆の働き、見事であったと褒めてつかわす」


労いの言葉。しかし、その声には勝利の昂揚感よりも、むしろ次なる戦いへの警戒感が滲んでいる。

家臣たちは、一様に深々と頭を下げ、主君の言葉を拝聴した。


「されど、戦はまだ終わってはおらぬ。海野の首魁・棟綱は上野へと逃れ、小県の地も、まだ完全に我が手にあるとは言えぬ。この場所をいかに固め、そして次の一手をどう打つか、皆の知恵を聞きたい」


義清の言葉を皮切りに、広間は再び緊張の糸で張り詰めた。重臣の一人が、おずおずと口を開く。


「御屋形様。小県を完全に掌握するためには、やはり海野の残党狩りを徹底する必要がございましょう」

「うむ。その件については後ほど詰める。だが、それよりも厄介なのは……我らが『客人』のことよな」


義清は「客人」という言葉に、あからさまな皮肉を込めた。その目が、値踏みするように家臣たちを見渡す。


「……武田と諏訪、でございますか」


別の武将が、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。


「左様」


義清は短く応じる。


「奴らとは海野を討つために、一時的に手を結んだに過ぎぬ。武田の小倅……晴信とか言ったか。あの若造の眼、ただの田舎侍のものではない。いずれ必ず、牙を剥いてこよう」

「されど御屋形様、武田もまた、甲斐の統一を成し遂げ後も戦続き……今すぐに、我らに手を出す余裕など…」

「甘い!」


義清は一喝した。


「奴らが餌を食い尽くした時、次なる餌が我らにならぬと、誰が言い切れようか。奴らは元々、我らとは相容れぬ存在。手を組んだとて、それは互いの利のため。味方などと思うては、足元を掬われるぞ」


その言葉に、広間は不穏な沈黙に包まれた。海野平で共闘したとはいえ、武田も諏訪も、信濃の覇権を争う不倶戴天の敵。

そもそもの話、村上と武田は直前まで熾烈な争いを繰り広げていたのだ。だからこそ、この場にいる誰もが武田を味方だとは思っていなかった。


「諏訪も、虎視眈々とこの小県を狙っておるはず。それに、武田の言いなりにならぬとも限らぬ」

「武田が動けば、諏訪も呼応する。そうなれば、我らは挟み撃ちに……」

「海野の次は武田と諏訪か。我らはいつまで戦い続けねばならぬのだ」


家臣たちから、次々と不安や怒りの声が上がる。

議論は紛糾し、戦には勝ったものの、村上氏もまた多くの兵糧と兵力を消耗し、決して余裕があるわけではないことが、その言葉の端々から滲み出ていた。


そうして議論が紛紛と荒れ、ややもすれば収拾がつかなくなりかけた、その時である。

義清が、片手を挙げて荒れ狂う議論を制した。広間は再び水を打ったように静まり返る。


「武田と諏訪の件は、ひとまず置いておこう。──それよりも、だ」


義清は忌々しげに舌打ちした。


「此度の戦、確かに海野の主力は叩き潰した。だが、肝心の棟綱を取り逃がした。これは大きな失態ぞ」


その言葉に、家臣たちの間に緊張が走る。

戦に勝ったとはいえ、敵の総大将を逃してしまったことの重大さを、彼らは痛いほど理解していた。


「棟綱が生きておる限り、奴は必ずや残党をかき集め、再びこの小県の地を取り戻しに参ろう。厄介なこと、この上ない」


義清の苦々しい声が、静まり返った広間に響く。

今や村上は、信濃においては一大勢力。しかし、海野棟綱が逃げ延びた先──関東全域にその威光を轟かせる山内上杉家に、単独で挑むのは自殺行為に等しい。

そのことは、ここにいる誰もが承知していた。上杉が本気で棟綱を支援すれば、この小県郡の支配も、たちまち揺らぎかねない。


「御屋形様」


重臣の一人が、何かを言いかけた時、別の、やや年の若い、しかし眼光鋭い武将が進み出た。


「確かに、上杉の庇護下にある棟綱自身に手を出すのは困難。ならば、別の策を」

「ほう、申してみよ」


義清が促す。


「はっ。海野の血縁者を捕らえ、こちらの手中に収めれば、棟綱を誘き出す餌となりましょう。上杉への牽制ともなり得ます。取るべきは、まず『内』に潜む根を絶つことかと存じます」


その進言に、広間は再びざわめいた。それは、いかにも戦国の世らしい、非情なれど効果的な策であった。

義清は、目を細め、しばし腕を組んで黙考していたが、やがて、その口元に、冷酷な笑みを浮かべた。


「……面白い。確かに、それが一番効果的よ」


義清は床几からゆっくりと立ち上がり、広間にいる全ての家臣たちを見渡した。

その瞳には、獲物を見つけた獣のような、ギラリとした光が宿っている。


「全軍に伝えよ!」


義清の声が、雷鳴のように広間に轟いた。


「小県郡に残る海野の血縁者を、一人残らず洗い出せ! 女子供であろうと容赦は無用!抵抗するならば少々の乱暴は構わぬ!生きてさえいれば、良い!棟綱の、そして上杉の動きを見極める、良き手駒となろうぞ!」


その号令は、絶対者のそれであった。家臣たちは、一斉に「ははっ!」と力強く応え、広間は再び、戦の前の興奮と殺伐とした気に包まれた。

地鳴りのような応諾の声と共に、家臣たちは一斉に立ち上がり、主君の命を遂行すべく、殺気にも似た高揚感をみなぎらせながら、足早に広間を退出していく。


瞬く間に伝令の兵たちが、義清の命令を携え、馬に鞭打って各所へと散っていく。

武器庫では、鈍い金属音と共に、槍や弓、鉄砲などの武具が次々と兵士たちに手渡され、厩舎では、馬の荒々しいいななきと、兵士たちの怒声が飛び交う。


「潜伏する海野の残党を炙り出せとの御命令だ!」

「女子供とて見逃すな!根切りにせよとのお達しぞ!」

「棟綱の血縁は必ずや捕らえよ!」


既に小県の各地に展開し、占領地の安定化にあたっていた部隊長たちのもとへも、この新たな、命令が届けられた。

彼らは、その命令書を一読するや、表情を引き締め、直ちに配下の兵たちに新たな指示を飛ばす。


「怪しい者は片っ端から捕らえよ!家屋に隠れておれば、焼き払ってでも引きずり出せ!」


蜘蛛の巣がじわじわと張られるように。狩人が静かに獲物へと忍び寄るように。

村上義清の放った無慈悲な猟犬たちは、その牙を剥き、静かな山間の郷へと、その歩みを向け始めた。


夕闇が迫り、茜色に染まっていた西の空は、いつしか深い藍色に変わり、一番星が冷たく輝き始めている。

星の光は、血塗られた運命を、ただ静かに見下ろすように、煌めいていた。


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