――時は、ボクとカナが恋仲になる前に遡る。
「やわらかかったな……」
これは、最近のボクの口癖である。ふとした瞬間に、自然に漏れ出てしまう。
今こうして冒険者ギルドへ向かって町中を歩いていても、街並みや人々の様子がただの背景と化すほど、今のボクは上の空になっている。まあ……元々仲良くしている知り合いなんて居ないから、この真っ昼間でも誰もボクに声をかけてこないんだけどね。雲一つない青空に浮かぶ太陽が、ボクの事を呆れた目で見ているように感じる。
「……ふふ」
1か月前の運命的な出来事を思い出しながら、自分の唇を触ってみる。
1か月前の出会い――それは、衝撃的で、運命的で、官能的だった。
事故のようなものだったとはいえ、あの時交わしたキスの感触、そして味は今でも忘れられない。
一人で顔や耳を熱くしながら悶絶してしまう。
また触れたい。また自分のこの唇で、彼女の唇の感触を確かめ、味わいたい……。
「いや、いけない。今日もちゃんとダンジョンで稼がないと」
ボクは頭を振って正気を取り戻した。そして、冒険者ギルドの前に到着したボクは、扉に手をかけた。
この大きな木製の扉は、ダンジョンとこの国――レガリア国との境界を守る大切な扉だ。幾重にも木材が重なり、強固な造りとなっている。
「……よいしょっと」
声が出てしまうほど踏ん張って押し、ようやく扉を開くことができた。
中に入ると、正面はダンジョンへと続く大穴が姿を現した。そして、その穴のすぐ右側は冒険者ギルド受付とクエストボードが備え付けられている。冒険者達は受付へと向かう列を作ったり、クエストボードと睨めっこをしている。中には、クエストボードに張られた「クエスト依頼書」の奪い合いをしている冒険者も居る。
全く……ボクはこういう品が無い人達を軽蔑する。
また、穴の左側は食堂になっており、沢山の冒険者達が食事をしたり酒を呷っている。この食堂は冒険者にとっての社交場だ。ここで情報交換がされたり、パーティーを組む相談が頻繁に行われる。もちろん、品が無く、モラルの欠けた連中が多いから、殴り合いの喧嘩もよく勃発している。
このように、この冒険者ギルドの建物はダンジョンの穴を塞ぐように設置されている。床は土で、周囲を木造の壁や天井で覆っている。照明は等間隔に室内に設置された松明を使用しており、室内を暖色の灯りで照らしている。
「いつもの採取クエスト、あるかな?」
ボクはクエストボードの方へ進み、自分のレベルに合ったクエスト依頼書が無いか探し始めた。
しかし、ボクは面倒くさそうな奴らがこちらに近づいてくるのを感じた。
「なあ、そこのドブネズミ」
「……」
「おい、無視するなよ」
「……何ですか?」
ボクは立ち止まり、声をかけてきた連中の方へ振り返る。しかし、目線は合わせず、俯きがちに。ボクは深々と被ったローブのフードで顔を隠しているから、その分視界が狭まって相手の腰から上が見えない。ろくに手入れのされてない、サビ塗れの鎧を着けた足が6本見えるから、恐らく女冒険者3人組の荒くれ者だろう。丁度いいや。憎たらしい顔を見ずに済む。
「うわ……臭っ! なんだい? そのボロボロのローブ……洗ってねえだろ。汚え茶色の生地、もしかしてウ〇コでも付いてんのかい?」
「……付いているけど、何か?」
ボクの返事にドン引きする女達。
「うわぁ……キモ!」
「マジのドブネズミじゃん」
「こんなウ〇コ臭えクソガキはさっさとダンジョンのモンスター共の餌にしちまったほうがいいんじゃない?」
3人のクソ野郎どもはボクを指差し、下品に笑っている。
そして、それに釣られて周囲にいた冒険者達もボクに侮蔑の眼差しを向けてくる。
「それじゃ」
「おい、話は終わってねえよ」
ボクがその場から立ち去ろうとすると、3人組のうちの一人が道を塞いできた。
「この『ズーレ様』を無視するたあ、良い度胸じゃないか」
「……」
ズーレと名乗った女冒険者。彼女とその周りの取り巻き達の悪い噂はよく聞く。
「なあ、ちょっとあたし達さ……大事なクエスト控えていてよぉ。ちょっと金貸してくれないかなぁ?」
「申し訳ないけど、ボクは金を持ち合わせていない」
「嘘ついてんじゃねえよコノヤロー!」
「……!」
ズーレの要求を断ったボクは、突然顔を殴られた。
「お前がコソコソ稼いでいるのは知ってんだよ! ダンジョンに長時間籠り、鉱石や植物取ったり、装備の落とし物拾ってんだろ? そしてお前はそれを換金し、薄汚く稼いでいる」
「……」
「先輩冒険者としてよぉ……ちゃんとした『冒険者の稼ぎ方』ってものを教えてやるよ。ほら、授業料よこせ」
本っ当にボクはこういう奴らが大嫌い! 弱い者から搾取し、みっともなく稼ごうとしている。冒険者ギルドも国の衛兵も、些末な個人間の争いには関与しない。だから、ボクみたいな弱者は悔しい思いをしなくてはならない。
このモンスターのフンを塗り込んだローブで身を守ろうとしても、それでも意に介さずに襲い掛かってくる馬鹿共も居る。モンスターよりも質が悪い。
「……これでよろしいですか?」
ボクは銅貨が入った小包を差し出した。
「うわ! なんだこの小包は。気持ち悪いな……吸血グモの身体を繰り抜いて作ってんのかよ。おい、お前が受け取れ。キモくて触りたくねえ」
「姉御……ウチだって嫌ですわ。おい、お前がやれ」
「いや、アタイだって……嫌です!」
吸血グモの、黒と赤の気色が悪い模様が入った外殻を見た3人組の荒くれ共は、仲間同士で揉めだした。しかし、すぐに怒りの矛先をこちらに向けてきた。
「そもそもお前がこんな気持ち悪ぃもん出すから悪いんだよ!」
ズーレが、再びボクに殴りかかって来た。
ああ……最悪だ。カツアゲされそうになっても、この気持ち悪い小包を差し出せばだいたいの人間は諦め、ボクに近寄らなかった。だけど、こいつらは違ったようだ。
迫り来る拳に目を瞑り、身体をこわばらせた。
――しかし、その拳はボクに届くことは無かった。
「私の連れに何をしているのかな?」
「ッチ! お前は、『握力ゴリラ令嬢』か」
「その不敬な仇名も忘れて差し上げますから、さっさと立ち去るのです」
金髪の長髪を揺らした美しい女性によって、ズーレの拳は受け止められていた。
その金髪の女性は白を貴重とした、機動性を重視したスリムな鎧を身に纏っていた。そして、蝶をイメージしたようなフリフリのスカートが彼女の美しさを際立たせている。
「……調子に乗るなよ、ハズレスキル持ちの無能冒険者さん。でも、その美しさはそそるねぇ……あたしはお前みたいな美しい女が大好きなんだよ。どうだい? 冒険者なんかやめて、このズーレと官能的で甘美な世界にってイテテテテテテテテテテ!」
「あれ? この私の力は、貴方の言う『ハズレスキル』ですよ。【握力強化】という、握る力を強くするだけの、モンスターとの戦闘で使い物にならないスキル。でも、貴方には効くんですね?」
「放せ! ……分かった。でも覚えておけよ。伯爵家だからと言っていい気になっていると、そのうち痛い目を見るからな」
3人組の荒くれ共は悪態をつきながら去って行った。
「さて……大丈夫ですか?」
「う……うん」
「やっと会え――」
「待って、近づかないで!」
「どうしてですか?」
ボクはフードを深く被り、顔を隠した。
「臭いから近寄らない方がいい」
「相手が貴女であれば気にしませんわ。『ポルカ』」
「気づいていたんだね……カナ」
ボクの言葉を聞くなり、カナはボクの手を繋いだ。
「取りあえず、私の屋敷に来て下さい。もう……言いたいこと色々あるんですからね! 今夜は返さないですから!」
「……お手柔らかに頼むよ」
ボクはカナに力強く手を引っ張られながら、彼女の屋敷に一緒に向かった。
でも、その力強さにボクは安心した。
――カナは一か月前、生死に関わる程の大怪我を負ったのだ。
危うくボクの手の中で、その命を散らすところであった。
しかし、カナは無事に回復し、こうやって輝くような笑顔をボクに向けている。
このどんな宝石にも代えがたい笑顔が失われることが無くて本当に良かった。
ボクはカナに手を引かれるまま、彼女の屋敷へと向かった。