真夜中の音楽室。
当然、この時間に人はいないので、しーんと静まり返っている。
静寂で耳の奥が痛いくらいだ。
これで、暗闇で何も見えない状態なら、さすがに怖くなって叫びたくなってくるだろう。
だけど、この音楽室は他の学校とは違うところがある。
それは――窓があるところだ。
普通であれば音楽室というと防音のため、窓は付けない。
だが、この学校の音楽室には大きな窓がある。
なんでも、最新型の防音ガラスで、ほとんど音が漏れないというのだ。
時々、うるさいと他の教室から苦情が来るみたいだけど。
……意味ないよな、絶対。
まあ、とにかく音楽教師が密閉空間は嫌だと駄々をこねたので、こうなったのだとか。
なんとも懐が深すぎる学校なのである。
とにかく、窓があるおかげで音楽室内は月明りが入ってきて、歩くには不自由ないくらいだ。
「佐藤くん。電気を付けなさい」
外にいたときよりも、青白い顔をして、僕の腕に絡みつくようにして体を寄せている。
「……いや、それはどうなんだ? ベートーベンの目が光るのを見に来たのに、電気を付けたら台無しじゃないか?」
「佐藤くん、怖いわよね?」
「へ? 別に……痛でで!」
「怖いと言いなさい」
布姫が僕のほっぺたをつねりながら、睨んでくる。しかも、結構、力が強い。万力につねられているみたいだ。……万力なんて見たことすらないけど。
「わかった! わかった! 怖い、怖いです! だから、離してくれ!」
「そう。怖いのね。暗がりが怖いなんて本当に子供よね、佐藤くんって」
布姫がパッと手を放す。
「一体、お前は何がしたいんだ……?」
布姫が手を繋いできた。しかも、指と指を絡ませる、いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
さらに僕の腕をピッタリと布姫の体にくっつけている。
街や電車の中でそんな光景を見たら、『リア充、爆ぜろ!』と呪いの言葉を発したくなるあれだ。
「安心しなさい。布姫お姉さんが、ついていてあげるわ」
微笑み……ではなく、不適に笑うといった感じで僕を見てくる。
月明りが布姫を照らし、神秘的なほど綺麗に見えた。
「あ、ああ……。さんきゅー……」
突っ込むことすら忘れ、気の抜けた返事をしてしまった。
そんな僕を見て、噴き出すようにして笑う布姫。
うわ……。ちょっと、可愛い。
「そっか、そっか。怖いのかー。それなら仕方ないよね」
逆隣りにいる水麗が、布姫と同じように手を繋いでくる。
水麗は一瞬、むくれたように頬を膨らませていたが、直ぐに笑顔になって僕の腕に顔をこすりつけてきた。
まるで猫のようだ。これはこれで可愛い。
……というか、なんだろうか、この状況。昔から月は人を惑わせるというが、暗闇は人の思考能力を狂わせるのだろうか。
うーん。毎日、学校に泊まってもいいくらいだ。
「さ、早く、ベートーベンを見に行くわよ」
布姫が引っ張るようにして突き進んでいく。
音楽家の肖像画。
大体の学校には置いてあるものだと思う。だが、その肖像画を斜めに立て掛けるようにして飾っているのは、この学校くらいなものだろう。
理由としては教壇から一望できるようにしたいから、らしい。
どんだけ、うちの学校の音楽教師は我儘なんだ。それに対して怒らない校長も、どうかと思うが。
とにかく、教壇まで行けば音楽家の肖像画を一望できるだ。
三人で並んで、教壇に立つ。
ベートーベンの肖像画は窓側の一番奥にある。
「……」
「ふむふむ」
「……まあ、七不思議なんてそんなものよ」
布姫が肩をすくめる。
そう。当然のようにベートーベンの肖像画の目は光っていない。
「で? どうするのかしら?」
「……そうだな。仕方ないから、もう光ってたというテイで書くことにするよ」
「ふふ。佐藤くんも、結局、こちら側に来たわね」
「うう……。そう言われると、ものすごい背徳感がする」
「よーし、じゃあ、証拠写真ゲットだー!」
水麗がベートーベンの肖像画にカメラを向けて、シャッターを切る。
「待て! それは僕が偽造したことの証拠になっちまう!」
「ん? あれ?」
水麗がファインダー越しに肖像画を見ていたが、カメラから顔を離して直に見始める。
「どうかしたのか?」
「……光ってる」
水麗が指差す方向に視線を向ける。
……すると、本当にベートーベンの目の部分が光っていた。
厳密に言うと、眼の部分だけではないし、光っているといってもかなり微弱な明るさだ。
電気をつけていたら、完全にわからなかっただろう。
よーく、眼を凝らして見てみると、どうやら裏側から懐中電灯のようなものを当てられているような感じに光っている。
「外から差し込んできているわね」
布姫が指を窓の方へ差す。
確かに、円柱型のような、懐中電灯のような光が窓の外から、丁度、ベートーベンの裏側に差し込んできていた。
「あっ! 動いたっ!」
水麗が興奮気味にカメラでシャッターを切っている。
差し込んで来た光はゆらゆらと、ゆっくりと隣のモーツアルトの肖像画の方へと移動していった。
「とにかく、外を見てみようぜ」
誘蛾灯に群がる蛾のごとく、窓に向かう。
光は下から……ちょうど、さっきまで僕たちがいたビニールハウスの方から差し込んできていた。
「……誰か、いるわね」
ビニールハウスは透明なので、上からでも中が見える。
奥の方のナスが植えてあったところに、小さい人影が見えた。
そして、差し込む光もその人影の方から出てきている。
誰かがビニールハウスから懐中電灯で、音楽室を照らしているのだろうか?
……一体、何のために?
「人影にしては小さいわね。……子供かしら?」
布姫の言葉で、僕は足跡のことを思い出した。
水麗が足跡の大きさと、歩幅を見る限り子供だろうと言っていたことを。
僕は身を乗り出し、眼を凝らす。
今はちょうど植物の苗に邪魔されて、姿がよく見えない。
黙って見ていること、三分。
人影が動き始めた。
ビニールハウス内を移動し始め、出口へと向かっている。
そして、ビニールハウスから出た。そこで、僕たちはその姿の全貌を見ることになる。
「――河童?」
そう。まさしく、というか模範的な、まるで絵からそのまま出てきたんじゃないかというほどのベタベタな河童だった。
緑色で、短い口ばしと手と足には水かきが付いている。
……決定的な頭頂部にある皿。
月の光が、その鏡のような皿に反射して、音楽室に差し込んでいたのである。
「ベートーベンの目が光る、ね。まあ、そんなオチだと思ったわ。大体、肖像画が光るなんて非現実的ですもの」
「河童の方が非現実的だ!」
「へー、河童って、本当にいたんだね」
「あれ? そんな程度の驚き? ちょっと、二人ともあまりのことで意識が追いついてないんじゃねーの? 河童だぞ、河童!」
「きっと、あれは体を緑に塗った子供よ」
「見なかったことにするなよ」
「捕まえたら、二千万円もらえるんじゃなかったっけ? うおおお! 妖怪ボールで、妖怪ゲットだぜ!」
テンションが上がり切った水麗が物凄い勢いで音楽室を出ていったのだった。