オルト軍学校の上空は、朝から曇り空だった。
冬の厳しい風が吹き荒び、剣を持つ手は冷たく凍える。
今年最後の全体演習を終えたアンナたちは、ほうっと息を漏らした。
「今日は一段と寒かったわね。カールは明日帰るの?」
今日はいつもより上がりが早く、まだ日も落ちていない。片付けを終わらせて、食堂への移動中のいつもの三人組である。
アンナの問いかけに、グレイはカールへと視線を動かした。カールは「おう」と頷き、そのまままっすぐ前を向いている。
「明日はアシニアースだかんな。帰るぜ」
「彼女とは過ごさないのか?」
グレイの言葉に、カールはこの男には珍しく、少し悲しく笑う。
「彼女がよ、ジンクス気にしてんだよ」
「ジンクス?」
「知らねぇか。アシニアースのパーティに家族以外の者を入れると、幸せになれねぇってジンクスがあんだよ」
「そうなの?」
アンナが目を瞬かせると、カールは首肯する。
「俺は家に家庭教師の男がいつもいるし、気にしたことねぇんだけどな。気にするやつは気にするよなぁ……俺とは家族にならねぇって言われてるみたいで、悲しいぜ」
「カール……」
アンナが同情の目を向けたことに気づいたカールは、ハッとしていつものようにニカッと笑った。
「おっと悪ぃ! お前らは一緒にアシニアースを過ごすんだろ?」
「ええ」
「ジンクスなんて気にすんなよ! お前らはもう家族みたいなもんだしな!」
カカカッと揶揄うように笑って、カールは食堂に入りトレーを持つと、奥にいる調理員に声を張り上げる。
「おばちゃーん、今日はアシニアースイブだぜ! でっけー肉焼いてくれ!」
「カール! あんたにだけ特別なんてできないよ! 黙って並べてあるもの取ってきな!」
「うお! チキンが山ほどあるじゃねーか!」
「どれだけ焼いたと思ってんだい、この成長期どもめ! いっぱい食べて強くなるんだよ!!」
「よっしゃ!! 全部食い尽くしてやるよ!!」
「取ったものは残さず食べるんだよ!!」
「わぁってるって!! いつもサンキュー、おばちゃん! いいアシニアースをな!」
「そんなこと言ってくれるの、あんたくらいさ」
そんなカールと調理員のやり取りを聞いた生徒たちは互いに顔を見合わせると、次々に調理員へと日頃の感謝を述べ始めた。
毎日料理をありがとう、美味しいよ、素敵なアシニアースになりますように、と。
全員が一斉に言うものだから、食堂は今までにない大騒ぎだ。
調理員が驚き、みんな出てきて涙ぐんでいるというのに、当のカールは山盛りに載せたチキンを我関せずで食べ始めている。
「お前はこうして周りを巻き込むのが得意だよな」
同じくチキンを山盛りにしたグレイがカタンとトレーを置き、カールの前に座る。
「べっつに、巻き込もうとしてやったんじゃねぇよ。みんなも日頃の礼を言いたかっただけだろ。うめーな、このチキン」
平常運転のカールに、アンナとカールは顔を見合わせて笑った。
「それにしても二人とも、お肉に対して野菜が少なすぎよ」
「まぁ今日くらいいいだろ。アシニアースイブだぞ」
「明日が本番よ。お腹壊さないでしょうね」
「俺の胃腸は丈夫だから心配するな」
「本当かしら」
アンナは自分だけバランスよく載せたトレーを見て食べ始める。すると横からひとつチキンを載せられた。
「やる」
「ちょっとグレイ。食べられないほど取っちゃったの?」
「いいや、余裕で食えるが。俺たちが山ほど取るから、アンナは遠慮したんだろ?」
言い当てられたアンナは、気づいてくれたことに少し驚きながらも、こくんと頷いた。
「まったく。取りすぎだぞ、カール」
「おいグレイ! お前も同じくらい取ってんじゃねーか!」
「はははっ」
「ったく。俺も彼女と食うかな。明日はもう帰っちまうし、今年最後だ」
「ああ、そうしてやれ」
カールは立ち上がるときょろきょろと恋人を探し、彼女と目が合うとニカッと笑う。
「じゃあな、お前ら。また来年な!」
「ああ」
「よいお年を、カール」
カールは彼女の元へと行き、笑いながら話しかけている。
珍しくいつものメンバーから離れたカールの周りには、すぐに人だかりができていた。
「本当にカールは人気者だよな」
「羨ましいの?」
「いや、大変そうだから俺はいい」
「カールは大変だなんてちっとも思ってないわよ、きっと」
「そこがあいつのすごいところだよな」
遠目にカールを見ながら、アンナはグレイのトレーに野菜を載せる。
それに気づいたグレイは一瞬だけ笑みを見せると、口に放り込んでむしゃむしゃ食べるのだった。
その日は寮に泊まり、二人は買い出しをしてからアンナの自宅へと戻ってきた。
今日はアシニアースだ。
去年のように家の掃除をざっと終わらせてから、夕食を準備して二人きりの時間を過ごす。
家の中で靴を履かないという習慣は、去年の冬と今年の夏をこの家で過ごしたことによって、グレイも慣れていた。
「なんか、〝帰ってきた〟って感じするな。まだ三回目だってのに」
「本当? グレイにそう思ってもらえたなら、うれしいわ」
「アンナがここにいることが大きい。あんたがいるから……安心する」
「グレイ……」
二人は唇を寄せ合うと、そっと重ね合わせた。
もう何度しているかわからないほどの口づけも、家でするとその先まで想像して、とろりとアンナはグレイを見上げる。
「……渡したいものがあるんだ。夕食の後にしようかと思ってたんだが、そんな顔をされると、今渡したくなった」
「なに?」
「今年の誕生日には間に合わなかったやつだ」
そう言って、グレイはポケットに手を入れた。
今年のアンナの十七歳の誕生日に、結局グレイは大したことができていなかったのである。
小さなケースを取り出したグレイは、無造作にそれをアンナに渡した。
「これって……開けていい?」
「ああ」
アンナが優しくケースを開くと、そこには銀色に輝くリングが鎮座していた。
もしかしてと思いながら開けたものの、実際に目にすると、思った以上に心臓が音を立てる。
「指輪……これって……」
「婚約指輪だ。誕生日には間に合わなくてな」
「ってことは、結構な値段したんじゃないの?」
「いや、一般的な婚約指輪と比べたら、数段劣る。もっといい物を贈りたかったんだが……」
「ううん、十分よ」
アンナはよく見ようと指輪をリングケースから取り出した瞬間、裏側に宝石があるのに気がついた。
「え? シークレットストーン? まさかこれって……」
「ああ、サファイアだ。アンナの誕生石だろ」
「……ありがとう、グレイ……っ」
指輪を握りしめたまま、アンナはグレイに抱きついた。グレイの大きな手が、アンナの頭を往復する。
「俺たちは戦闘班だからな。宝石は邪魔にならないように、裏につけてもらったんだが……よかったか?」
「ええ。私とグレイだけが知っている、秘密の石だわ。嬉しい……っ」
喜ぶアンナを見て、グレイは目を細めた。
そんな顔をするグレイは珍しく、アンナの胸の鼓動はますます早くなる。
(私は一体、どれだけグレイのことを好きになっちゃうのかしら)
好きという気持ちが、毎日ピークを更新していく。
このままだと、気持ちが昂りすぎて気を失ってしまいそうなほどに。
「あんたは美人だからな。これからどんどん男が言い寄ってくる」
「そんなことないわよ。軍学校では告白されたことなんて、一度もないわよ?」
それは俺が睨みを利かせているからだ……とはグレイは言わずに、優しい目をアンナに向けた。
「まぁ男除けの意味でも、つけていてくれると嬉しいんだがな」
「もちろんよ! その……つけてくれる?」
グレイは首肯し、アンナの持つ指輪を受け取る。
そしてその指輪を、アンナの左手の薬指へとゆっくりと通した。
「よかった、ぴったりだな」
「すごい。どうして私の指輪のサイズがわかったの?」
「実は、カールに目利きしてもらった。アンナの指ならこのサイズだろうってな」
「ふふっ、それでぴったりなのね。納得したわ」
二人は笑い、視線を交差させると口づけ合って。
そしてまた、抱きしめ合った。
アンナの指につけられた銀色の指輪が、優しい光を放っていた。