トラヴァスがフリッツへの忠誠を誓うと、フリッツはまず、トラヴァスとヒルデのことをどうにかしようと考え始めた。
自分のことを横に置いて、真っ先にトラヴァスを気遣うその姿に、少なからずトラヴァスは感銘を受ける。
豪奢な椅子に二人は腰掛け、テーブルを挟んで向かい合って話す中で、フリッツはこんなことを言い出した。
「僕が王族の特権を使ってトラヴァスの身を保護した上で、お母様の行いを公にするのはどうかな」
王族には特権がいくつかあり、罪人の保護も可能である。
この場合は不義密通を行ったトラヴァスを、王族の特権により罪科なしにするということだ。
「お気持ちはありがたくいただきます。しかし罪人保護の特権を使うのは、周囲への心象が悪くなる。本気で王になるつもりなら、少しの瑕疵も許されません。あなたは国民にとって、義であるべきなのです」
「だけど、それじゃあいつまでたってもトラヴァスが……」
ぐ、と胃液が逆流しそうになるのを、トラヴァスは耐えた。
誰よりもトラヴァスが、ヒルデから解き放たれたいのだ。
脅されて言いなりになるしかない苦痛と、いつ誰にバレて首が飛ぶかもしれないという恐怖と戦い続け、心は思った以上にすり減っている。
(フリッツ様が罪人保護のために特権を使うのは得策ではない……しかし、確かに現状はそれ以外にないのも確かだ)
特権を使うということは、少なくとも上層部の人間にトラヴァスとヒルデの関係を明るみに出すということでもある。
人に知られたくないという感情がないわけではなかったが、現状を続けるよりは余程マシなため、トラヴァスに深い抵抗はない。
「トラヴァス、限界なんじゃないのかい? やっぱり僕が特権を……」
「いえ。フリッツ王子殿下以外に特権を行使できる方がおられます」
特権を行使できるのは、バルフォアの血を引き、バルフォアの名を名乗っているレイナルド王、ルトガー王子、シウリス王子、フリッツ王子、ルナリア王女の五名のみだ。
フリッツは血を引いていないが、そのことを周囲に知られていないので問題はない。
しかし、フリッツに王家の血が流れていないとバレた時のことを考えると、トラヴァスとしてはフリッツ以外の王族から保護を受けた方が安心であった。
「……難しいね。誰に行使させるにも、トラヴァスの現状を先に話さなければならない。ルトガー兄様はお母様を庇うだろうから、絶対にお母様の不貞を公表なんてしないだろう」
「そうですね。シウリス王子は喜んで公表すれども、私の身の安全を保障してくれるとは思えない」
「ルナリアは特権を行使しようとすると、保護者であるシウリス兄様に相談しなければならない立場にある。秘密裏に進められるかもしれないが、ルナリアはトラヴァスのためにそこまでするほどの関係性を築いていない」
フリッツの言葉にトラヴァスは頷いた。罪人の保護は周りの反感を買うことが必至のため、王族は進んでこの特権を行使したりはしない。
「フリッツ様、私のことをお気にかけていただきありがたく思います。しかしバレぬよう細心の注意を払い、私が耐えればそれで済むこと。これ以上はお気になさらず」
トラヴァスが告げると、ふと銀灰色の瞳から光が消えた。
暖炉がパキンと音を立てたにも関わらず、ほんの少し気温が下がったように感じる。
「トラヴァス」
「は」
「君にはもう、解決策が浮かんでるんじゃないのかい」
突き刺すような視線を受けて、トラヴァスもまたアイスブルーの瞳を送る。
「……なぜそう思われるのです」
「軍学校では首席、歴代の中でもトップクラスに優秀だと聞いているよ。これくらいのことを解決できないようであれば、僕の部下にはいらない」
フリッツの冷たい瞳を見て、試されているなと即座にトラヴァスは見抜いた。
王位継承者の中でフリッツは最も幼く、力もない。さらにはバルフォアの血を引かないフリッツである。
王家は歴代から蓄積された神官からの〝加護〟があり、少々の魔法ならば弾き返してしまうレジストの高さがあるのだが、フリッツにはそれもほとんどないだろう。
そんな中でようやく引き入れた
しかし、どれだけの優秀な働きができるのかを見極めておきたいというのも人情である。
(確かに、策はあるが……)
一瞬だけ躊躇したものの、トラヴァスはそれを告げることにした。
(試されているのなら、応えるだけだ。そして俺も、フリッツ様を試させていただく)
この王子がどこまで本気か。どこまで許容できるのかを。
トラヴァスは探るために、その作戦をフリッツに伝えるのだった。
***
トラヴァスはその日、筆頭大将アリシアに用事を作らせ、中庭を通らせる手配を完了させていた。
王宮の中庭にいるのは、逢引しているフリッツとルナリアである。
「ルナリア、今日はなにをして遊ぶ?」
「フリッツお兄様、私、この間のカードゲームがしたいです!」
「カードか、今日は持ち出すのを忘れたんだ。ごめんね」
こうして見ている分には、仲のいい兄妹であるが、互いに特別な感情を抱いているのだ。
二人の関係を聞くと、フリッツはまだキスまでだと答えていて、トラヴァスは少しほっとしていた。
(この関係性は好ましくない。若すぎるのもあるし、対外的にはお二人は血の繋がった兄妹なのだから)
よってトラヴァスは今回の作戦に、二つのことを盛り込んでいた。
見つからないように陰からそっと様子を見守っていると、廊下の向こう側からアリシアがやって来るのが見えた。
物陰から手だけでフリッツに合図を送ると、彼は妹を抱き寄せる。
「ルナリア、好きだよ」
「フリッツお兄様、私も」
フリッツはルナリアの唇を奪い取り、子どもとは思えないようなキスを始める。
一瞬だけ確認し、トラヴァスはそれを咎めることはなく視線を外した。
(おそらく、これが最後のキスとなるだろう。よくぞ、決断してくれた)
廊下側でアリシアが頭を抱えて首を振っている様子が窺えた。ちゃんとこの光景を確認したようでほっとする。
(アリシア筆頭は、見て見ぬふりのできぬ方だ)
トラヴァスの予想通り、アリシアは二人の兄妹の元へと歩き始めた。気配に気づいたルナリアが振り返り、フリッツもアリシアを見上げる。
「アリシア……!!」
「み、見たの!?」
「見ました。お二方とも、わかっていますね?」
青ざめて震えながら、ルナリアが愛らしい瞳を潤ませる。
「お願い、アリシア! 誰にも言わないで!!」
「そうして差し上げたいのは山々なのですが、立場上、報告しないわけには参りませんので」
その懇願をバッサリと切り捨てるアリシアに、フリッツは銀灰色の目を向けた。
「僕たちを見逃してくれたら、トラヴァスを救ってあげるよ」
フリッツの言葉を、トラヴァスは微動だにせず聞く。
これこそが、策略である。
アリシアの顔がほんの一瞬だけ、ぴくりと動いた。
(やはり、筆頭は
実はトラヴァスは、アリシアに何度か声を掛けられていた。
なにか不都合があれば言いなさいと、親身になって。
もちろんトラヴァスはヒルデとのことなど言えるはずもなく、無表情のまま躱していた。しかしあの時一緒にいたアリシアは、トラヴァスがなにをさせられているか勘づいていたのだ。それを、トラヴァスは利用することにした。
「なんの話でしょうか?」
惚けるアリシアに、フリッツが説明を始める。
「知らないなら教えてあげる。母上は、いつもトラヴァスに自分を抱かせているんだ。これがバレたら、トラヴァスは斬首。わかるよね?」
いつも明るいアリシアが、わずかに威圧を放ちながらフリッツを見下ろした。
「フリッツ様のおっしゃることが本当だという証拠はあるのでしょうか。私はトラヴァスに何度か聞き取りをしていますが、そういった事実はないと聞いています。ヒルデ様にお聞きしても、同じではないでしょうか。それともフリッツ様はその情事を目の前でご覧になったのですか?」
「それは……」
「仮にそれらが事実だとしても、トラヴァスの命ではなんの交渉材料にもなりません。それを公表すれば、ヒルデ様が裁かれるのはもちろん、フリッツ様……そして兄上であらせられますルトガー様にも影響が出るのですよ?」
(色々とすごい方だ。さすがアンナの母親だな)
子ども相手に容赦なく畳み掛けるアリシアを見て、トラヴァスは心の中でだけ感嘆の息を吐いた。
どうすることが最良なのかを、この一瞬で汲み取り発言をしている。
トラヴァスの命を軽んじるように言ったのも、思惑を通すためで本心ではないだろう。
だが、それもこれもすべて。
トラヴァスの手のひらの上であった。
アリシアの言葉に絶望し、言葉を失う
「申し訳ありませんが、このことはレイナルド様にご報告いたします」
無情の言葉に、ルナリアがぽろぽろと涙を流し始めた。
ルナリアにはこうする
「フリッツお兄様とはもう、こうして会えなくなるの……?」
「ルナリア……ッ」
最後に抱擁をするフリッツの顔も、また苦しみに溢れていて。
(フリッツ様のは演技……では、ないか……)
二人が愛し合っているというフリッツの言葉は本当だったのだろうと、トラヴァスは氷の瞳で見ていた。
まだ年若いからという理由で。
今後フリッツが王になる上で必要のない関係だからという理由で。
トラヴァスは、二人に別れを強いたのだ。
アリシアが去ると、トラヴァスもまた、最後に二人だけの時間を過ごさせてあげようとその場を去ったのだった。
***
「あれでよかったんだね?」
少し顔色の悪いフリッツが、彼の部屋でトラヴァスに問いかけていた。
あの後、フリッツとルナリアの関係はレイナルド王の耳へと入り、引き裂かれた。
トラヴァスは、フリッツを試したのだ。
この国のために、愛する人と別れる選択ができるのか。
そしてそれは同時に、罪人保護の特権を使わせる策でもあったのである。
「はい、あれが最善です。フリッツ様のお覚悟、しかと心に刻みました」
「……僕も、ルナリアと結ばれると思ってたわけじゃない。いつかはこうなるとわかってはいた……」
フリッツは俯き、ぐっと奥歯を噛み締めた。
王になるには、バルフォアの血族であるふりをし続けなければならない。しかしそうすれば、ルナリアとの結婚は絶望的だったのだ。
遅かれ早かれ、別れは覚悟していたのだろうと、喉の奥で涙を飲み込むフリッツをトラヴァスは見ていた。
しばらくすると、ようやくフリッツが頭を上げて唇を開く。
「トラヴァスの言った通りに、トラヴァスとお母様のことをアリシアに伝えて、王族の特権の話を出した。これで上手くいくのかい」
「八割がた上手くいくと思っております。アリシア筆頭はお人がよい。私が望まぬことをさせられていると知って、放っておくような人情のない方ではありませんから」
亡くなった第一王妃のマーディアとアリシアは交流があったと、アンナから聞いてトラヴァスは知っていた。
そしてシウリスの剣の師はアリシアである、とも。
アリシアならば、どうにかしてシウリスに特権を使わせることができると踏んだからこその、提案であった。
しかし、それでも目算は八割である。
策が成るまで、トラヴァスはまた耐える日々が続くのだった。