初めて足を踏み入れる
グレイとトラヴァスは、コテージが並ぶ住居と、道を行き交う
初めて見る獣人の耳は、ウサギのように細長い。ピンと立っているものや、途中で折れて垂れている者もいる。
スボンに穴を開けてふわっと丸い尻尾が見えている者もいれば、服の中に隠して見えない者もいた。耳を隠せば、見た目は人間そのものだ。
露店が各所にあって、売る方にも買う方にも人間の姿が見られる。
「意外に人間もいるのだな」
「この
そんな話をしながら、集落を見て回る。
宿屋は数軒しかなく、このうちのどこかにティナが泊まっていることは予測できた。
「グレイ。あそこを見ろ」
トラヴァスの視線の先をグレイは追う。
そこにはローグパンツを履いたダークブラウンの髪の女が、楽しそうに
「あっさり見つかったな」
「ずいぶん獣人と馴染んでいるようだが……相手は子どもばかりか」
「少し様子を見るぞ、トラヴァス」
「わかった」
すぐに接触するのは避けて、近くの露店で品物を見るふりをしながら注意する。
ここは観光客向けの露店は、お土産からその場で食べられる物まで、様々だ。
店を営んでいるのは
小さな集落だが、カジナルシティから遊びに来ている者も多くいるので、活気があった。
「なぁティナねえちゃん! 昨日のやってくれよー!」
白くて長い耳をピンと立てた子どもが、広場の泉前にいるティナに頼んでいる。
グレイとトラヴァスは、目だけでそちらを確認した。
ティナはニッと笑って、キラキラと輝くジャンビア系の短剣を取り出す。
「おっけー! じゃ、一回だけね!」
昼下がりの広場。
喧騒の中、ローグパンツを履いたトレジャーハンター風の女が一人、短剣を手に中央へと立つ。その佇まいは、獲物を捉える前の豹のように静かで、鋭い。
そのティナが足を踏み出した瞬間、空気が変わった。
短剣を翻し、刃をしなやかに回転させる。
銀色の軌跡が陽光を反射し、鋭い輝きを放った。
ティナの体は風に乗るように流れ、鋭さとしなやかさを兼ね備えた動きで舞う。
ひとつ、弧を描く斬撃。
腰を落とし、低い姿勢からしなやかに跳ね上がると、短剣が一瞬の閃光となる。
片足で回転しながら、手首のスナップを利かせた一閃。空を切る刃が軽やかな音を奏で、人々の目を釘付けにした。
右足を踏み込み、鋭く体をひねると、短剣と左手が交差して宙を裂く。肩まであるティナの髪がふわりと舞い、視線を奪う刃の軌跡とともに美しい曲線を描いた。
さらに、流れるような動きで短剣を投げ上げる。観衆の息を呑む音。
刃は光を浴びて鋭く煌めきを放つ。ティナはその瞬間に宙返りし、着地と同時に地を蹴って跳び上がった。
空中で鮮やかに刃を掴み直したティナは、片膝をついて地に降り立つ。
鮮やかな剣舞。
凝視するつもりのなかったグレイとトラヴァスですら、目を奪われていた。
いや、そこにいた全員が、だ。
まるで時間が止まったかのような静寂の後、わぁあっと歓声が弾けた。
ティナは立ち上がり、短剣をカシャンと腰の鞘へと戻す。そしてテヘッと笑い、ぺこりと雑に礼をした。
さっきまでの細やかな動きはどうしたと問いたくなるくらいの変容に、グレイたちは呆気に取られる。
「ティナおねえちゃん、すごぉおおおい!!」
「かぁっこいーー!!」
「やるな、あの剣舞。相当短剣に慣れ親しんでなけりゃ、できない芸当だぞ」
「素早さも跳躍もかなりのものだ。力押しで行けば勝てるだろうが、捉えるのに一苦労しそうだな」
トラヴァスの考察にグレイは頷き、そして一歩踏み出した。
「行こう、今なら目標は人々に囲まれている。俺たちが近づいても不自然じゃないぞ」
「そうだな。接触できるこの機会を逃す手はあるまい」
「笑顔を忘れるなよ、トラヴァス」
「お前がな、グレイ」
無愛想と無表情が、目的の人物へと近づいていく。
人々に囲まれて照れ笑いしているティナは、グレイが近づいた瞬間、ハッと顔を上げた。
唐突に目が合うグレイとティナ。
もうなにかバレたのかと不安になるも、グレイは冷静に呼吸を保った。
「どうしたのー、ティナおねえちゃん」
「え、あ、うん。ちょっと……ルウ、ラビト、また今度ね」
そう言ってティナは人混みを掻き分けた。やってきたのはもちろん、グレイの目の前。
(ジャンが言ってたのはこれか……確かに冷や汗を掻くな。ブラジェイとユーリアスがこの場にいないのが救いだが)
「お嬢さん。私たちになにかご用でしょうか」
柔和な声を出したのは、トラヴァスである。
いつもの無表情とは違い柔らかな笑顔で、グレイはぎょっとした。
「わ、ごめんなさい! なんだろ……あなたが、気になって」
背の低いティナが、大柄なグレイを見上げる。
もちろん、二人は初対面だ。
「ティナおねえちゃん、男の人ををナンパしてるぅ」
「ブラジェイにーちゃんに言いつけてやろーぜ!」
「え、ちょ、違うってば! 本当にもう〜〜っ!」
ぷくっと頬を膨らまして怒る姿は、とても二十四歳には見えないなとグレイは彼女を見下ろす。
「えっと、あなた、私と会ったこと……ない、よね? あ、本当にナンパみたいになっちゃってる!」
「悪いが、俺には婚約者がいるぞ」
「違うんだって、もう〜っ」
グレイの言葉に困った顔を見せたティナは、とても愛らしいものだった。
「なんかあなたからは、安心するっていうか……なんだろ、不思議な香り……私にしっくりくるっていうか……」
ティナは一定の距離を保っているというのに、鼻をひくつかせることもなくそう言った。
不思議な香りと言われると、グレイも気になってくる。自分の体臭は自分でわからないというし、ジャンが『風呂には入ったんだけど』と言い訳していた気持ちがわかったグレイだ。
「……そんなに匂うか?」
「あ、違うの! 私の鼻がいいだけだから、気にしないでね! そんなんじゃないんだ。私もこんな感覚初めてで、どう言っていいのか……」
うーんうーんとティナは自分の顎に手を当て、どういうことか一生懸命に分析する。
「多分、移り香、かな……婚約者さん……? ラベンダー……」
「な……っ」
ラベンダーの言葉に反応したグレイを見て、ティナはにっこりと笑う。
「あ、当たった? ラベンダーが好きな婚約者さんなんだ」
「……ああ。どうしてわかった?」
「匂いだよ。私もラベンダーが好きなんだ。でもなんか懐かしい感じもするんだよね。なんでだろ」
言い当ててもまだティナは納得いかない顔で頭を悩ませる。
(ここまでとはな……ジャンがゾッとしたというのもわかる)
ラベンダーは基本的に、アンナの部屋に置いているのだ。グレイがアンナの部屋に入ることはほとんどない。
つまりティナは、アンナに移ったラベンダーの香りを、よく一緒にいるグレイから嗅ぎ取っているということになる。
「すごい嗅覚ですが、それはなにかの書を習得しているからでしょうか」
トラヴァスが情報を聞き出そうと、笑顔でティナに話しかけた。
「ううん、生まれつきなんだよね。この鼻は」
「先ほどの剣舞も見事なものでした。どこかで習ったのですか?」
「これも習ったものじゃないんだ。自己流かな」
この調子でどんどん聞き出したいトラヴァスだが、いきなり突っ込んだ話ができるはずもない。しかし、せっかくの機会を手放すのはもったいなすぎた。
「もしお昼がまだなら一緒にいかがでしょう。先ほど素晴らしい剣舞を見せてくれたお礼です、奢りますよ」
「んー、知らない人に着いて行くなって、ブラジェイに言われてるんだよね……どうしよっかな」
子どもに言い聞かせるような言葉でティナを縛っているのかと、グレイは呆れ顔を見せる。
「あんた、チビだが大人だろ? えらく過保護なやつもいるもんだな」
「心配されてるんじゃなくて、バカにされてるだけなんだけどねー」
むうーっと唇を突き出して、ティナは不服顔だ。
ともかく今はこのチャンスを無駄に終わらせないようにと、トラヴァスは自己紹介を始めた。
「もしよければ、お名前だけでも。私はトラヴァスと申します」
「俺はグレイだ」
「私はティナだよ!」
ティナは目の上でピースを決めて、ばちんっとウインクする。二人の周りにはいないタイプの人間である。
「俺たちはしばらく観光でここに滞在するんだ。また会ったらよろしくな」
「うん! 私も用事があってしばらくここにいるから、また会うかもね。じゃ!」
ティナはサヨナラの挨拶だとばかりにしゅぴっと人差し指と中指の二本を立てて振り、軽やかに舞うように広場を駆け抜けていった。
その姿が見えなくなると、グレイはトラヴァスを見る。
「……つけるのはまずいだろうな」
「すぐバレるだろう。とりあえずはまだこの
「しかしトラヴァス、お前はあんな笑顔もできたんだな」
「グレイが無愛想過ぎるのだ。あれでは警戒されるぞ。少しは笑ってみせろ」
「こうか?」
グレイが無愛想な顔に無理やり笑みを載せる。
ギギギッと音が出そうなほどに引き攣った笑顔。その酷い表情に、トラヴァスは愕然とした。
「お前の演技は壊滅的過ぎるぞ」
「さすがにそれは傷つくんだが」
「グレイはいつも通りでいろ。私が場を和らげる」
「悪いな」
目的の女ととりあえずの接触できた二人は、その日は