「マ、ママママ、マスター! た、大変です!」
バーの扉が勢いよく開け放たれ、サクラが転がり込むように店内へ飛び込んできた。
開店準備中のバーテンダーはその騒々しい様子に驚きながらも、静かにサクラの方へ視線を向けた。
「どうかされましたか、サクラさん?」
息を切らして肩を上下させているサクラは、慌てた様子で深呼吸を繰り返した。そして息を整えたあと、重みのある一言を放った。
「戦争です!」
◇
「いやー、大変なことになったねぇ」
バーの扉が開くなり、女戦士のマネアが軽やかにバーテンダーに話しかけた。どうやら件の話はすでに街中に広まり、噂が絶えないようだ。
「隣国との戦争が近いとか……。街中、その噂で持ち切りですよ」
女エルフの弓使いレティリカが肩をすくめながら話す。その口調には心配と呆れが混ざり合っていた。
「んで、その話は本当なのかい、サクラ?」
マネアがカウンターにいたサクラへ視線を向けて尋ねる。伯爵家の娘である彼女なら、王家からの連絡が領主に届いているかどうかを知っている可能性が高かった。領地を治める領主は戦争ともなれば領民や兵をまとめ、出兵の準備をしなくてはならないからだ。
「はい。王家の方からお父様に戦に備えるよう通達があったと聞いています」
サクラが少し慎重な調子で答える。その声は噂が真実であることを伝えるに十分だった。
「なので、噂は本当かと……」
その言葉を聞いたマネアとレティリカは、顔を見合わせて黙り込んだ。どちらの表情にも難しい空気が漂い、その場に沈黙が広がった。戦争の現実が二人の胸に重くのしかかっているようだった。
「戦争ですか……」
バーテンダーがぽつりと呟いた。その言葉は静かな店内に染み渡るように響く。平和な日本で生きてきた彼にとって、戦争というのは縁遠い存在だった。戦いや暴力とは無縁の生活を送ってきたからこそ、この異世界で直面する現実が否応なく彼に迫ってくる。
「マネアさんや、レティリカさんも戦われるのですか?」
いつも穏やかに微笑むバーテンダーの表情には、悲しみが滲んでいた。その瞳はどこか憂いを帯びている。
「いやー、あたしらは参戦しないよ。だってあたしら単なる冒険者だし」
女戦士のマネアが軽く肩をすくめながら答える。その声音にはどこか気楽な響きがあった。
「そうですね、傭兵ではなく冒険者ですので、国同士の諍いには基本的に中立です」
レティリカも静かに続けた。その冷静な言葉が、バーテンダーに少しの安堵を与える。彼女らの言葉に、バーテンダーは胸が少しだけ軽くなったような気がした。知り合いが戦場に立つ姿は見たくない……その想いがふと頭をよぎる。そして、静かな祈りのような気持ちと共に、彼は再びカウンターに目を落とした。
「そう、あたしらはいいんだよ。問題は……」
マネアはちらりとカウンターの先に視線を移した。そこでは若き衛兵ウィルストンが頭を抱えている。この前結婚したばかりの新婚ほやほやの彼は、目に見えて沈み込んだ様子だった。
「ウィルストンさんは……この街の兵士です。つまり、お父様の領地の兵士ですので……」
サクラは悲しげな表情を浮かべながら話し始めた。その目元にはわずかに涙が滲んでいる。
「その……召集される可能性が……」
その言葉に反応するように、ウィルストンが顔を上げた。彼の目はバーテンダーへと向けられている。そこには悲壮感を通り越した、深い絶望が滲んでいた。
「僕は……どうすればいいですかね……?」
彼の声はかすかに震えており、頼るような響きが含まれていた。その場の空気が重くなり、誰もが一瞬言葉を失う。戦争という現実が押し寄せる中、それぞれの心が静かに揺れていた。
「逃げる……わけにはいきませんよね……」
レティリカが静かに呟いた。その一言には、彼女が抱えている迷いや葛藤が滲んでいる。
「そうだねぇ……いやー……さすがに新妻残して戦地に赴くのは……ねぇ?」
マネアが続けた。その声には軽さがあるようでいて、実際には複雑な心情が隠されている。
二人の言葉は重く、その場にいる全員がウィルストンを思う気持ちで静まり返る。確かに心情的には、彼には戦争に参加してほしくないと思っている。だが、現実はそれを許してはくれない。兵士という立場が彼の運命を縛り付けている。
「マスター……どうにかなりませんか?」
サクラがバーテンダーを見つめ、いつもより少し力を込めた声で頼るように問いかけた。その瞳には、わずかな希望を込めた期待が見えていた。
しかし、バーテンダーはサクラの視線から目を背けた。背けるしかなかった。一介のバーテンダーに戦争をどうにかできる力などあるはずもない。外交や政治の問題は彼の手に負えるものではないからだ。彼ができることと言えば、美味い酒を作ること、そして悩み事に耳を傾けること。それ以上は、何もできるはずがない。
バーテンダーはサクラの問いには何も返さず、
出来上がったのは、淡いオレンジがかった黄色のカクテル。その透明感と輝きが、カウンター越しの光に優しく反射する。バーテンダーはグラスをそっとウィルストンの前に差し出した。
「……『チャーチル』でございます」
バーテンダーの声は静かだが、どこか重みを持って響いた。
「私にはカクテルを作ることしかできません。ですので、今お客様に必要な一杯を……お客様へと向けた言葉を乗せてお作りすることしかできません」
差し出されたカクテルを、ウィルストンはじっと見つめた。その瞳には、複雑な感情が映り込んでいる。この一杯にも意味がある。バーテンダーが彼に向けた言葉が、確かにその中に込められているのだ。
「『チャーチル』とは、ある国の宰相の名前です。『サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル』。歴史的背景には詳しく触れませんが、当時、その国は領土を拡大し続ける侵略国家と対峙していました。勢いを増す敵を前に、『チャーチル』の国は選択を迫られます。徹底抗戦か、不利な条件の和平交渉か。『チャーチル』は交渉ではなく、戦う道を選びました」
バーテンダーは静かに話を続けた。その声にはいつもと変わらない穏やかさがあったが、どこか声に静けさと冷たさが宿っているようにも思えた。
「その選択が功を奏し、他の国々と団結して侵略を食い止めたそうです。後の歴史家たちは、『チャーチル』があの場で戦いを選ばなければ、もっと酷い状況になっていただろうと語っています」
ウィルストンは黙ったまま、バーテンダーの話に耳を傾けていた。その手が伸び、前に置かれたカクテルをゆっくりと持ち上げる。そして、深い沈黙の中で一口含むと、静かに口を開いた。
「もっと酷い状況になるのを防ぐために……戦えって言いたいんですか……?」
その問いかけに対して、バーテンダーの表情は微動だにしなかった。そこには、笑みも悲しみもない。ただ静かな虚無が漂っていた。
「勝利の立役者にあやかる……そういう意味として捉えていただいても結構です」
彼はカウンター越しにウィルストンを見つめ、少しだけ間を置いた。
「ですが、一つ言えることは、『チャーチル』は未来を守る選択をしたということです。彼の決断によって、多くの命が失われたことでしょう。それでも、奴隷国家になる未来を避けるため、彼は少しでも未来を作る道を選んだのです」
ウィルストンは何も言わず、グラスを握りしめたまま顔を俯け続けていた。
◇
すべての客が帰り、サクラも帰宅したバー『
彼の視線はカウンターへと固定されている。まるでそこに何かが刻まれているかのように、じっと見つめている。その心の奥底では、慙愧に耐えない後悔が静かに渦巻き続けていた。
それは形のない影のような感情であり、いつまでも拭い去ることのできないものだ。自分は愚かな選択をしてしまった。その思いが胸を締め付ける。その瞬間が、彼の内面にしこりとして残り続けている。悔やんでも悔やみきれない後悔。それが繰り返し繰り返し彼の心に降り積もる。
ウィルストンは確かに兵士だ。その職分を全うすることに何の問題もない。だが、それでも彼は悩んでいた。戦場に立てば、命を落とす可能性もある。生きて帰る保証などどこにもない。それが現実だ。だからこそ、彼はわずかな望みを胸に、自分に救いを求めていた。できることなら、戦場に赴かずに済む方法を……その一筋の希望を。
だが、自分はそれを裏切った。彼が求めていたのは救いだったというのに、自分がしたことは逆だ。ウィルストンを戦場へと放り投げたのだ。カクテルの逸話をまるで偉そうに高説し、彼に戦う道を選ばせた。その行為が正しかったのかどうかなどわからない。ただ、一つ確信していることがある。もしウィルストンが戦場で命を落とすようなことがあれば、それは間違いなく自分の責任だ。
何がバーテンダーか!
何が客の心を救うだ!
誰一人として救えた試しなどないではないか!
自分など、ただ酒を作っているだけの無能な男だ。酒の逸話を偉そうに語り、まるで救った気になっている愚か者だ。それ以外の何者でもない。そんな人間に一体誰を救うことができるというのか。
心の底に淀み続ける泥は永遠に消えることはない。その重さが胸を締め付け、答えの出ない問答が終わらない。
何が最善の選択だったのか。何をどうすれば救えたのか。自分には一体何ができたのか。幾重にも絡みつくこれらの問いは深い闇の中に浮かび上がり、すぐさまかき消えていく。残るのは、ただその暗い残響のみ。
◇
「マ、ママママ、マスター! た、大変です!」
バーの扉が勢いよく開け放たれ、サクラが転がり込むように店内へ飛び込んできた。
開店準備中だったバーテンダーはその騒々しい様子に気怠そうに反応し、ゆっくりとサクラの方へ視線を向けた。
「何か……ありましたか?」
息を切らして肩を上下させているサクラは、慌てた様子で深呼吸を繰り返した。そして息を整えたあと、顔を輝かせながら一言告げた。
「外交交渉が成立したんです! 戦争はしなくてよくなりました!」
その言葉には、どれほどの喜びが込められていただろう。サクラの瞳は輝き、声には安堵が滲んでいた。
しかし、その隣で、バーテンダーの視線は冷めたままだった。気持ちは一向に晴れない。サクラの朗報を聞いても、胸に押し寄せていた後悔と自己嫌悪が消えることはなかった。
人は誰しも自分の役目から逃げることはできません。ただできることは精一杯後悔しないようにすることぐらい……。迷っても失意の中にいても。願わくば一杯のカクテルがその救いになりますように……。
ここは異世界のバー『
◇
『チャーチル』
スコッチ・ウイスキー 30ml
スイート・ベルモット 10ml
ホワイト・キュラソー 10ml
レモン・ジュース 10ml
シェーカーにウイスキー。ベルモット、キュラソー、
レモン・ジュースと氷を入れシェークし、グラスに注ぐ。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋