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28杯目『ミント・ジュレップ』

 その日、『Etoileエトワール』にはモンエゴが姿を現していた。冒険者のような装いをしているが、その裏の顔は貴族や悪徳商人を相手に盗みを働く、いわば盗賊。だが、彼の正体を知る者はいまだ誰一人いない。


 そんな彼が店に入るなり、まるで世界の全てに見放されたかのようにカウンターへと体を預けた。その顔を突っ伏すように伏せ、肩を震わせるような仕草には、深い悲嘆が滲み出ている。その日たまたま隣に居合わせた商人のトネリーもその様子が気になるようであった。


「モンエゴ。お前さんどうかしたのか? 店に来るなり突っ伏してるんじゃ、マスターもサクライナ嬢も困るだろう」


 静かに顔を上げたモンエゴ。その表情には、生気が感じられない。まるで世界の重さを一人で背負っているかのような、どこか諦めに似た影が漂っている。


「へい、旦那……。そうでやすね……」


 掠れた声で答える彼の口調からは、彼らしさと呼べるものがどこか遠ざかっているようにも思えた。


「元気ありませんね……。何かあったのですか、モンエゴさん?」


 その時、カウンター越しにサクラが柔らかな声で話しかけた。彼女は手にしていた温かい布おしぼりを差し出しながら、その表情に優しい気遣いを浮かべた。


「すいやせん……。実は……ちょっと賭け事で大金をスっちまいやして……」


 温かい布おしぼりを受け取りながら、モンエゴはしょぼくれた声で呟いた。その声には自分への失望と諦めが滲み出ている。つまり、ギャンブルで財産を失ったらしい。

 それを聞いたトネリーは、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。その仕草にはわずかに呆れたような雰囲気が漂う。


「なんだ、賭け事か。心配して損したわい。ほどほどにしとかないと身を滅ぼすぞ」

「へい……いい勉強になりやしたよ……」


 モンエゴはさらに肩を落とし、声を小さくした。その姿はまるで、全ての活力を吸い取られてしまったかのようだ。その態度からは、彼が余程の大金を失ったことが伺える。


「賭け事って何をやられたのですか?」


 サクラがいつもの好奇心を隠し切れず、モンエゴに問いかける。モンエゴはそんなサクラの態度に困惑したように一つ大きくため息をついた。


「へい……賭け馬でさあ」


 モンエゴはしぶしぶ話し始めた。彼の肩はさらに落ち込み、声には自嘲のような響きがあった。


「ここから南に行ったとこに、大きな街がありやすでしょう? あそこでこの時期になると毎年でかい賭け馬の大会が開かれるんでさあ」

「ああ、賭け馬ですか」


 サクラは軽く頷いた。どうやら賭け馬については知識があるらしい。その反応を見るに、特に興味を引かれた様子はなく、彼女の好奇心が薄れるのが感じられた。


 一方、カウンターの向こうで静かにグラスを拭いていたバーテンダーは、この『賭け馬』という言葉に少し首を傾げた。ニュアンス的に競馬のようなものだろうと察してはいたが、具体的にどのような違いがあるのかまでは見当もつかない。


「賭け馬……とはどういったものなのでしょうか?」


 珍しく好奇心に負けたバーテンダーが、モンエゴに向かって静かに問いかけた。


「おや、マスターは知らないのか?」


 トネリーは驚いたように顔を上げ、バーテンダーを見つめた。


「賭け馬ってのは、馬の所有者が自分の馬を走らせて、どの馬が一番速いかを競う競技だ。その一番速い馬がどれかを当てる賭け事だな。そう言えば、ドーバー伯爵家も所有の馬を出場させてるんじゃないのかい?」

「はい、お父様が何頭か出しているはずです」


 サクラがさらりと応じた。彼女の声には落ち着いた調子があり、特に興味を引かれている様子はない。


「私は興味がないので、詳しいことはよく知らないのですけれども」


 その言葉に、バーテンダーは改めて感心せざるを得なかった。やはりサクラも貴族のお嬢様……それも、競走馬を所有するような貴族の娘なのだ。


 ともかく、モンエゴの話を聞いたおかげで、賭け馬というものが大まかに競馬と同じようなものであることは理解できた。では、今のモンエゴの状態に最もふさわしいカクテルは何だろう? バーテンダーは静かに思案を巡らせる。考えられる候補は二つ。そのどちらが今の彼に必要なものであろうか。


「はぁ……馬の目利きには、あっしはそれなりに自信があったんですけどもねぇ……」


 モンエゴは肩を落としながら呟いた。その言葉には、彼自身の悔しさと無力感が滲み出ている。


「運がなかったんですかねぇ……」

「なあに、そういう時もあるさ」


 隣のトネリーが軽く肩をすくめて返す。その声には慰めの響きがありながらも、どこか現実的な諦めも感じられる。


「こういう時はうまい酒を飲んで忘れるに限る。マスター! 何かカクテルを頼む」

「……承りました。では、競……賭け馬にちなんだカクテルをお作り致しましょう」


 バーテンダーは後ろの酒棚バックバーへと手を伸ばし、酒を取り出す。取り出したのは穀物蒸留酒ウイスキー。中でもアメリカ合衆国ケンタッキー州で作られる穀物蒸留酒バーボン・ウイスキーだった。彼の手元にはすでに背が高く口径の小さいグラスコリンズ・グラスが用意されている。

 そのグラスの底には数枚の薄荷ミントの葉が置かれた。次いで液体甘味料シュガー・シロップ炭酸水ソーダが注ぎ込まれる。その組み合わせが心地よい香りを漂わせる中、バーテンダーは磨り潰し棒ペストルを手に取った。

 磨り潰し棒ペストルをそっとグラスに挿し入れると、丁寧に薄荷ミントを潰し始める。その動作は滑らかで、薄荷ミントから爽やかな香りが徐々に立ち昇る。香りが十分に広がったところで、彼は細かく砕かれた氷クラッシュド・アイスをたっぷりとグラスに詰め込む。

 次いで、穀物蒸留酒バーボン・ウイスキーが慎重に注がれ、その琥珀色が氷の間を縫うように広がる。最後にかき混ぜるステア。飾り用の薄荷ミントを添え、ストローを差し込む。


「お待たせ致しました。『ミント・ジュレップ』でございます。爽やかで甘い味わいを是非ご堪能ください」


 バーテンダーがカウンター越しに差し出したグラスは、琥珀色の液体が美しく輝いていた。その中に浮かぶ薄荷ミントの緑が鮮やかに映えて彩りを感じさせていた。


 トネリーとモンエゴはそれぞれのグラスを手に取り、ストローへと口を運ぶ。

 ストローから吸い上げられたカクテルは、なんとも心地よい甘さを感じさせた。穀物蒸留酒ウイスキー特有のほろ苦さを甘味と、薄荷ミントの爽やかさで柔らかく包み込んでいる。それどころか、後味に残る薄荷ミントの清涼感が穀物蒸留酒ウイスキーの深い風味を引き立てており、そのバランスの良さがさらに味わいを深めていた。氷の冷たさも相まって涼しげな心地よさを加えている。


「こりゃいいですね! もっと暑くなった時に飲んだら爽やかでいいですぜ。ああ、ちょうど賭け馬の試合を見る時にでもあったら最高でやんすね!」


 モンエゴは目を大きく見開き、満足げに声を上げた。その言葉には驚きと喜びが混じっている。


 それを見たバーテンダーはにこりと微笑んだ。


「はい、実はその通りでして、こちらのカクテルは有名な賭け馬の試合での公式カクテルとなっています。なんと、その試合の期間中だけでも一〇万杯も飲まれるそうですよ。さらに、優勝セレモニーの乾杯にはこのカクテルが必ず使用されるのが伝統となっております。優勝者の幸運にあやかるのも良いかもしれませんね」

「ほう、それはいいな。ワシには何万杯も売れているところから商売繁盛の意味を込めて。モンエゴには優勝者にあやかって賭け事に勝てるようにと。そういうことだな?」


 その言葉にモンエゴもつられるように頷いた。彼の表情には、どこか落ち込んでいた影が少しだけ薄れ、ほんのりと明るさが戻ってきたようだった。


 そんな二人を見つめながら、バーテンダーは言葉を挟むことなく穏やかな笑みを浮かべながら、ただ静かに手元のグラスを磨いているだけであった。



    ◇



 二人が『ミント・ジュレップ』を楽しんでいると、突然バーの扉が勢いよく開け放たれた。その音は静かな店内を突如として切り裂き、全ての視線がその方向へと吸い寄せられた。


 そこに立っていたのは、銀色の甲冑をまとった重装備の女騎士。長い黒髪と黒い瞳が、芯の通った凛々しい表情に引き立てられている。その堂々たる姿と力強いオーラは、一瞬で店内の空気を一変させた。


「失礼。ここにモンエゴという男はいるか」


 女騎士の透き通る声が店内全体に響き渡る。その声には威厳があり、穏やかさの中に鋭い緊張感が潜んでいた。


 モンエゴはその声を聞くや否や、一瞬固まったように見えた。カクテルを楽しんでいた彼は、予期せぬ事態に心の準備が追いつかなかったのだろうか。恐る恐る顔を上げると、しぼんだような声で答えた。


「……へ、へい? あっしがモンエゴでございますが?」


 その声にはどこか怯えと戸惑いが混ざり、彼の普段の振る舞いからは想像もできない弱々しさが滲んでいた。店内の空気は一瞬の静寂に包まれ、女騎士が何を目的としているのか、その場にいる全員が固唾を飲んで見守っていた。


 それを聞くや否や、女騎士はズカズカと店内に入り込み、勢いよくモンエゴの前のカウンターに麻袋置いた。人の頭ほどもある大きな麻袋。それをドスンと置いた瞬間、金属が複数擦れるような重い音が響き渡り、店内の視線が一斉に集まる。


「……へ? 騎士様? これは一体なんでごぜえましょう?」


 突然の事態にモンエゴは目を白黒させ、混乱した様子で問いかけた。声には明らかな戸惑いが滲んでいる。しかし、女騎士はその問いに応えることなく、凛々しい表情を崩さないまま言葉を放つ。


「貴様、数日前に南の街で賭け馬をしていたであろう」


 静かな声が店内に響き渡り、その威圧感に誰もが息を飲む。


「へ? へい。確かにあっしは賭け馬をしていましたが……?」


 モンエゴは恐る恐る答えた。突然の指摘に彼の肩は縮こまり、その普段の生意気さは見る影もない。


「そこの胴元を巻き込んだ不正が発覚した。簡単に言えば八百長だな。騎士団が調査を行い、件の馬たちはすべて没収。その胴元は捕縛された。そのため掛け金は賭けた者すべてに返却をしている。それは貴様の賭けた金だ。受け取れ」


 凛然とした態度でそう言い放つと、女騎士はわずかに顎を引き、モンエゴを見据えた。その眼差しはどこか冷たく、他者に有無を言わせぬ厳しさが含まれているように感じられた。


 モンエゴは目を瞬かせながら麻袋へ視線を移した。その重さを感じさせる音と存在感が、まるで自身が犯していない罪を責め立てられているように思わせた。店内には静けさが戻り、いいしれぬ緊張感だけが漂っていた。


 モンエゴは麻袋を手に取り、恐る恐る中身を確認した。目に飛び込んできたのは、大量の金貨の山。その金貨の輝きは店内の淡い光を反射し、煌めいていた。その価値は計り知れないが、バーテンダーが一瞥しただけでも相当な額が入っていると察することができた。


「あ、ありがとうごぜぇやす! 八百長があったとは……。おいらの目もまだまだでやんすね。不正を見抜けないようじゃ賭け事はなかなかに厳しいものでやんすからね」


 先ほどまでの意気消沈した様子は跡形もなく消え、モンエゴは戻ってきた金に目を輝かせて喜びを爆発させた。


「ふん……。確かに返したぞ」


 女騎士はその喜びに対して特に反応することもなく、冷静な声で一言そう告げた。そしてそのまま、来たときと同じように勢いよく扉へ向かい、出ていこうとした。だが、その足が一瞬止まり、鋭い視線をバーテンダーの方へ向けた。


 その気配に気付いたバーテンダーは、グラスを拭く手を止めて軽く会釈をした。


「何かありましたでしょうか?」

「……いや、何でもない。邪魔したな」


 女騎士はぶっきらぼうに答えると、その重い扉を音も立てずに開け、ゆっくりとその向こう側へと消えていった。




 賭け事は推奨しませんが、スポーツ観戦など屋外で試合を楽しむなんてことも時にはあるかもしれません。そんな時は冷たいビールもいいですが、ちょっとお洒落にカクテルをお供にしてもいいかもしれませんよ。



 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『ミント・ジュレップ』

バーボン・ウイスキー 60ml

ソーダ 少量

シュガー・シロップ 1tsp.

ミント・リーフ 適量


グラスにミント、ソーダ、シロップを入れペストルで潰し、

クラッシュド・アイスを詰め、ウイスキーを注いでよくステア。

ミントとストローを添える。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋


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