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27杯目『ジャック・ター』

 その男は、以前に訪れていた馴染みの客だった。色黒でがっしりとした身体つき。見るからに鍛えられた腕と風にさらされた肌には、これまで歩んできた船乗りとしての年月が刻まれている。今日も彼は、お気に入りの『ソルティ・ドッグ』をグラスに揺らしながら、静かにバーテンダーへと語りかけた。


「実はな……今日はお別れを言いに来たんだ」


 彼はグラスの中の液体を見つめながら、一瞬言葉を切った。そして、少し視線を上げ、いつものような穏やかな声で続けた。


「故郷のほうで船乗りを募集してるらしくてな。この機会に里帰りも含めて、挑戦して来ようと思ってるんだ」


 バーテンダーはその言葉を静かに受け止めた。


「それは素晴らしい機会でございますね」


 そう言ってバーテンダーは、恭しく頭を下げた。


「私共と致しましては、お客様のお顔を拝見できなくなるのは少々寂しく感じますが、お客様のその情熱が実を結ぶよう心よりお祈り申し上げております」


 その丁寧な言葉に、男は一瞬きまりが悪そうに笑いながらグラスを手に取った。


「もしかしたらまた戻ってくることになるかもしれないがな。それでも挑戦は続けていこうと思う。俺はまだ『負けてはいない』んだからな」


 男はそう言うと、少しだけ力強い笑みを浮かべた。そして、その笑顔のまま、穏やかな声で続けた。


「これも、あんたのおかげだよ」


 その言葉にバーテンダーは一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに柔らかな表情へと戻った。店内のほんのりとした照明が、彼の落ち着いた横顔を映し出す。


「ありがとうございます。では、本日は当店から応援や激励の意味を込めまして、一杯サービスさせていただきたく思います」


 その申し出に、男はにこやかに笑いながら「ありがとう」と小さく頷いた。その顔には、どこか照れくさそうな表情が浮かんでいる。


 バーテンダーは静かに後ろの酒棚バックバーへ手を伸ばし、慣れた手つきで酒を選び出した。一本目は甘蔗蒸留酒ラム。なかでもアルコール度数を表す『プルーフ』という表記において151プルーフ(アルコール度数75.5%)あるとても強い甘蔗蒸留酒ラム。二本目はフルーツフレーバーリキュールサザン・カンフォート。そして三本目は緑の皮の果実飲料ライム・ジュース。これもただの緑の皮の果実飲料ライム・ジュースではなく、ライム風味のシロップと糖分を加えて作られた人工的な味コーディアル。生の果汁を絞った新鮮フレッシュなものではいけない。このカクテルを特徴づける一つのポイントである。


 バーテンダーは三本の酒を慎重に計りながら、氷を入れた銀色の筒シェーカーへとそっと注ぎ入れた。そして両手で持ち上げると、手首の動きで滑らかに振り混ぜるシェーク。そのリズムは何年もかけて磨かれた技術の証であり、まるで音楽のような流れる調子でカウンター越しに響いた。


 背の低い大きめのグラスオールド・ファッションド・グラスには、細かく砕かれた氷クラッシュド・アイスが詰め込まれる。その上からカクテルが注ぎ込まれ、最後に緑の皮の柑橘系果実カット・ライムが添えられることで、美しく彩られた一杯が完成した。差し出されたグラスの中身は黄色味がかった色合いで、その淡い輝きはまるでライムの色を思わせるものだった。


「お待たせ致しました。『ジャック・ター』でございます」

「『ジャック・ター』とは聞き慣れない言葉だな。どんな意味があるんだ?」


 男はグラスを持ち上げ、じっくりとその色合いや香りを観察しながら尋ねた。その声には、好奇心と興味が滲んでいた。


「はい。『ジャック・ター』とは、船乗りや水兵、船員を意味する言葉でございます」


 バーテンダーは落ち着いた声で答えながら、グラスに込められた意味を丁寧に紡いでいく。


「お客様のご職業そのものを表すカクテルでございます。長い航海を経て、幾つもの困難を乗り越えられる船乗りの精神を称えるもの。そして、これから挑戦される航海での成功を祈りまして、このカクテルを作らせていただきました」


 男はその言葉に静かに耳を傾けながら、そっとグラスを傾け、口元へと運んでいった。


 口当たりは非常に滑らかで、フルーティーな爽やかさが際立つ一杯。しかしその背後に潜むアルコールの強さがガツンと襲いかかる。飲みやすさ故、ついすいすいと飲んでしまいそうになるが、そのパンチ力には注意が必要だ。実に危険な味わいだった。


「おっと、こいつは美味いが強いな! 急いで飲むと悪酔いしちまいそうだ」


 男は笑いながらグラスを置き、少し額に手をやる仕草を見せた。


「ええ、かなりアルコールは強い方ですので、どうぞゆっくりとお召し上がりください」


 バーテンダーは穏やかに返事をしながら、グラスを拭き始めた。グラスの表面を丁寧に磨きながら、彼は静かに語り始めた。


「この『ジャック・ター』というカクテルは、『ウィンドジャマー』というお店で考案されたカクテルなのです。そして、『ウィンドジャマー』というのは鋼鉄でできた帆船のことです。見渡す限りの水平線、大海原を航海する帆船。夢や希望を乗せて、まるで果てない未来へと旅立つように。その船に乗る船員……それこそが『ジャック・ター』という存在なのでしょうね」


 バーテンダーの声は静かでありながら、その言葉には力強い信念が込められていた。その一言一言を噛みしめるように、男はグラスを呷り、喉を鳴らした。彼の視線はカクテルの黄色味がかった色へと落ち、その内に広がる水平線を思い描いているかのようだった。


「そうだな……」


 男はひとつ息を吐き、懐かしむ様な語り口で続けた。


「きっと気さくで、人当たりのいい船員なんだろうよ。昼から酒を飲んで馬鹿騒ぎするような奴さ。喧嘩っ早い荒くれ者だが、芯はしっかりしていて、勇気があり、やる時はやる。船の上では頼りになる……そんな船乗りなんだろうよ」


 その言葉に、バーテンダーは微笑みを浮かべながら頷いた。


「そうですね。どんな船でも船員が命懸けで舵を取り、針路を決める。そうしなければ立ちどころに船は沈んでしまいます。嵐が来ようとも、大波が襲おうとも、必死で船を守り続ける船員たち。その姿は、人生の航海にも通じるものがありますね。彼らのように人生の航海も必死に戦い続けろ……そんなことを教えてくれるようなカクテルだと思います」


 店内には静かな時間が流れていた。そのわずかな沈黙の中に、お互いが紡ぐ言葉の重みが息づいているようだった。男は再びグラスを手に取り、ゆっくりとその液体を喉へ流し込む。そして、ふっと遠くを見つめながら語った。


「その通りだ。俺も船員として、これからの航海をしっかりと乗り越えてみせるよ。嵐が来ても、大波が来ても、な」


 その言葉に、バーテンダーは再び静かに微笑んだ。カウンター越しに交わされる視線が、次なる航海への決意を確かなものへと導いているかのようだった。


 静寂が辺りを包み込む。男もバーテンダーもサクラですら、言葉を発さずただその場に佇んでいた。店内に響くのはグラスの中で氷が静かに形を変える音だけ。その音はまるで、時の流れを感じさせるかのようだった。


 時に、人生というのは航海に例えられる。世間とは果てしない大海原。その上を進む一隻の帆船が自分自身だ。穏やかな海が続く日もあれば、激しい強風が渦巻き、高い波が押し寄せることもある。辛いことや悲しいこと、苦しいことが次々と襲いかかる中、それでも航海を続けた先には……水平線の彼方から顔を出す、美しい朝焼けが待っている。あたたかな希望の光。その景色を見るために、私たちは航海をするのだ、と。


「ありがとうよ、マスターさんよ」


 男はグラスをそっと置き、深く息をついた。


「何から何まで世話になっちまったな。あんたのおかげで俺の進むべき針路は決まったよ」


 帰り際、男はバーテンダーへと力強い言葉で礼を言った。その声には、これからの旅路への決意が滲み出ていた。


「こちらこそありがとうございます。しかし、お客様の羅針盤の針を動かしたのは、私ではありません。それは、お客様自身が決めたことなのです。私は……そうですね、たまに見かける海鳥のようなものでしょうか」


 バーテンダーの穏やかな言葉に、男は一瞬驚いたように目を丸くしたが、その後すぐに笑みを浮かべた。


「海鳥か! そいつはいいな! 海鳥がいるってことはおかが近いってことだぜ。帰ってくる場所を教えてくれる幸運の女神様だ! ……おっと、あんたは男だったか!」


 バーテンダーも小さく微笑みを返すと、少しだけ肩をすくめた。


「でしたら、うちのサクラが幸運の女神なのでしょう。一度拝んでおいても罰は当たりませんよ?」


 不意に話を振られたサクラは驚き、慌てたように顔を赤くした。


「ふえ?」


 困惑する彼女の姿に、男は楽しげな表情を見せながら両手を組み、静かに頭を下げた。


「また帰ってこれるように、幸運を頼むぜ、お嬢さんよ!」

「え……と、は、はい!」


 サクラは戸惑いながらも、なんとか返事を絞り出す。その姿を見届けたバーテンダーは、静かに目を閉じ、心の中で祈りを捧げた。この男が、無事に航海を終え、またこの店に戻ってくることを願いながら。




 波に飲まれて大変な思いをしても、強風に煽られて大変な思いをしても、バーは常にその扉を開いてございます。人生に疲れた身体と心に一杯のカクテルはいかがですか?



 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『ジャック・ター』

151プルーフ・ラム 30ml

サザン・カンフォート 25ml

コーディアル・ライム・ジュース 25ml

カット・ライム 1個


材料を氷と一緒にシェークして、

クラッシュド・アイスを詰めたオールドファッションド・グラスに注ぎ、

カット・ライムを飾る。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋


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