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26杯目『パラダイス』

 画家であるクリスピンは、絵のモデルに女優のヴィヴィアを採用したかった。しかし、何度頼んでもヴィヴィアは承諾しなかった。その理由は至極簡単だ。クリスピンには知名度がなかったからだ。つまり、彼は売れない画家。そして対するヴィヴィアは舞台で人気の大女優。二人の立場はあまりにも釣り合っていなかった。


 ヴィヴィアが意地悪で承諾しなかったわけではない。知名度というものは信用の証である。それだけ周囲から信頼されているからこそ、安心して関わることができる。特に、絵のモデルという仕事は狭い空間で二人きりになるものだ。信用がなければ、見ず知らずの男女が何時間も同室することなどあり得ない。これは貞操観念というよりも、常識の範疇だ。誰が聞いても納得できる話だった。


 しかしながら、クリスピンもおいそれと引き下がるわけにはいかなかった。何しろ彼は今スランプに陥っている。このまま絵が描けない状態が続けば、人生そのものが……いや、今を生きていくことすら難しくなるだろう。そのスランプを脱するインスピレーションが生まれたのは、ヴィヴィアを見た瞬間だった。彼にとって、ヴィヴィアを描くことは是が非でも成し遂げなければならない使命だった。


 これにはバーテンダーもどうしようもなかった。どちらか一方に肩入れをするわけにもいかない。お互いの事情が事情だけに、どちらかを立てればどちらかが沈む。まさにシーソーゲーム。関与しないという選択肢が、彼にとって最適解であった。


 だが、そんなことをお構いなしなのがサクラだった。彼女は単なる好奇心でお客の事情に首を突っ込んでいる……バーテンダーはそう思っていた。だが、どうやらそれだけではないらしい。彼女の根底には『自分が救われたから誰かを救いたい』という慈愛の精神がある。それが体現されているかのように、彼女は『Etoileエトワール』に来るお客すべてを救おうとしているようだった。

 確かに、気持ちよくお酒を楽しんでもらいたいというのは、バーテンダーとしても同感だ。しかし、実際問題としてどうしようもないこともある。すべての責任を負えない以上、中途半端に深入りするのはよくない……それが彼の考えだった。



    ◇



 この日もクリスピンとヴィヴィアは顔を合わせていた。ヴィヴィアはクリスピンを避けるために時間帯をずらして訪れていたが、それでもクリスピンは彼女を待ち伏せていた。何度断られても一向に諦める気配がない。その執拗さに、ヴィヴィアは辟易としていた。


 バーテンダーとしても、なるべく二人が隣り合わないように席の配置を工夫したりと配慮をしていた。しかし、それも徒労に終わることが多かった。クリスピンはヴィヴィアを見つけるとすぐに横の席へと移動してしまう。注意をしても、その行動をやめる様子はない。

 最早、バーテンダーにとっても悩みの種だった。このままではいよいよクリスピンを出禁にするしかないと考えざるを得なかった。


 しかし、この日ばかりは少しいつもとは違った。クリスピンがヴィヴィアの横の席に移動したのはいつもの強引さからではなく、今回はサクラの勧めによるものだった。


「私に考えがあります! 今日だけは私の好きにさせてくれませんか?」


 サクラは開店前にそうバーテンダーへと言い切った。何か策があるようだが、その内容については明かされなかった。


 ヴィヴィアは怪訝そうな顔を浮かべながらグラスを傾けていた。一方で、クリスピンはそわそわと落ち着かない様子で、ちらちらとヴィヴィアを気にしながらグラスをあおっていた。その微妙な空気が漂う中、サクラは二人の前に立つと、にこやかな笑顔で語りかけた。


「ヴィヴィアさん、クリスピンさん。お二人には夢はありますか?」


 突然の質問に、二人は思わず困惑した表情を浮かべる。


「そうね……前にも言ったけれど、将来については少し不安を感じているの。夢……と言っていいのかわからないけれども、いつまでも女優を続けられたら嬉しいわ」


 ヴィヴィアは少し迷いながらも、率直な言葉を口にした。


「僕は……やっぱり絵が売れるようになりたいです。……いえ、売れなくてもいいんです。自分が思い描いた絵が描ける生活であれば、それで十分です!」


 クリスピンは目を伏せながら、内に秘めた思いを静かに語った。


 二人の言葉を聞いたサクラは、その場の空気が和らぐような微笑を浮かべ、静かに語り始めた。


「お二人とも素敵な夢を持っていると思います。だからこそ、そんなお二人にぜひ飲んでいただきたいカクテルがあるんです」


 サクラがちらりとバーテンダーを見る。バーテンダーは目を伏せ、まるで『我関せず』とでも言いたげな態度を取っていた。その様子を承諾と受け取ったサクラは、後ろの酒棚バックバーから香味蒸留酒ドライ・ジン杏蒸留酒アプリコット・ブランデーを取り出した。それらを氷で満たした銀色の筒シェーカーへと注ぎ入れ、最後に黄色い果実飲料オレンジ・ジュースを加える。そして銀色の筒シェーカーを肩口より少し上で構え、静かに振り混ぜシェークを始めた。


シャ…シャカ…シャカシャカシャカ……


 まだ慣れていないぎこちない動作と緊張があるのだろう。銀色の筒シェーカーから発せられるその音は、バーテンダーのそれとは比べ物にならなかった。それでもサクラは一所懸命、一心不乱に銀色の筒シェーカーを振り続けた。その姿には、彼女なりの真剣さと覚悟が感じられた。

 逆三角形のグラスカクテル・グラスが用意され、そこに鮮やかな黄色のカクテルが静かに注がれる。


「お待たせしました。こちら『パラダイス』になります」


 サクラが差し出したその黄色いカクテルは『パラダイス』。その名前が意味するのは『楽園』。ヴィヴィアもクリスピンもただじっとそれを見つめ、静かにグラスに目を向けていた。


「これにも何か意味があるのかしら?」


 ヴィヴィアがグラスを手に取ると、好奇心を滲ませながら尋ねた。


「はい。『パラダイス』の意味は『楽園』だそうです。みんなが楽しく暮らせる理想の場所……でも、現実ってそううまくいかないことが多いですよね。だからなのかもしれませんけど、この『パラダイス』のカクテル言葉は『夢の途中』なんです」


 サクラは優しい口調で語りながら、言葉を一つ一つ丁寧に紡いだ。


「『楽園』を夢見た人たちが、その途中で飲むカクテル……それが『パラダイス』なんです」


 クリスピンはその言葉を聞いてから、そっとひと口カクテルに口をつけた。


「とても甘くて果実の風味が効いているね。本当に『楽園』のように甘い……」


 彼の顔には満足感が浮かび、その甘さに少しだけ癒された様子が見て取れる。


「はい。でも、甘いからってそこで止まっちゃいけないんですよ。このカクテルはまだ『夢の途中』なんです。だから、お二人も『夢の途中』なのですから、どうか頑張ってください!」


 サクラは明るい声で語りかけ、二人を励ますような表情を見せた。


 ヴィヴィアはグラスを優雅に傾けながら、微笑みを浮かべて応じた。


「そうね、確かにまだ『夢の途中』ね。……でも、それとこれとは話が違うのではなくて? 彼の絵のモデルになるかは、私の夢には関係ないと思うけど?」

「あ、あれ? え、えと……そうです……ね?」


 サクラは何かやり切ったような空気を漂わせていたが、まさかの切り返しにたじろいだ様子を見せた。どうやらそこまで深く考えていなかったらしく、次第にしどろもどろになってしまった。


 その様子を見ていたバーテンダーは、静かに深いため息を一つつくと、サクラの隣へと立った。彼は穏やかな声で語り始めた。


「では、こう考えてはいかがでしょうか。『楽園』とは、その人の願いが叶う場所を意味します。理想が実現された理想郷。しかし、それはただ待っているだけで訪れるものでしょうか。『夢』を叶えるためには、受け身でいるだけで十分なのでしょうか」


 その言葉に、クリスピンが真剣な表情でうなずきながら答えた。


「いいえ、『夢』を叶えるためには努力が必要です。僕も絵を描くために、血の滲むような努力をしてきました。」


 続いて、ヴィヴィアもグラスを手に取りながら静かに口を開いた。


「……私も、舞台で主役になるために努力を重ねてきたわ」


 二人の様子を見たバーテンダーは満足げににこりと微笑んだ。その微笑には、二人の中にある『夢への覚悟』を見届けた者としての温かさが込められているようだった。


「『夢』とは、『楽園』へ至るために、弛まない努力が必要だと私は思います。それは、誰かに師事したり、誰かを頼ったり、誰かに手伝ってもらうことを含みます。そうやって『夢』を少しずつ叶えていくのです。まだまだ『夢の途中』なのですから、誰かに頼ることを躊躇する必要はありません。そして、頼られたならばそれに応えることもまた大切でしょう。それは、誰かが『夢』のために懸命に頑張っている証でもあるのです。自分と同じように、『楽園』へと向かう『夢の途中』なのですから」


 その言葉に、ヴィヴィアは静かに俯いた。彼女自身もこれまで多くの人々に助けられて、今の場所まで辿り着いたことを思い出していた。もし、そんな彼女が、誰かの『夢』のために少しの手伝いさえもしないとなれば……それは、自分を助けてくれた人たちに対する不義理なのではないだろうか。

 ヴィヴィアの胸には静かに葛藤が芽生えていた。その思考の中で、彼女は少しずつ、自分の中にある答えを模索し始めていた。


「なんだか、言葉巧みに説得されたような気がするわ」


 ヴィヴィアは微笑を浮かべながら、少し照れくさそうに言葉を漏らした。


「ご不快に感じたのであれば、大変申し訳ございません」


 バーテンダーは柔らかな口調で応じ、丁寧に頭を下げた。


「いいえ。むしろ、私もお世話になった人たちのことを思い出す、いいきっかけになったわ」


 ヴィヴィアは、少し遠くを見つめるような眼差しで答えた。やがて彼女はクリスピンのほうへ顔を向ける。その目をしっかりと見つめて話したのは、これが初めてのことかもしれなかった。


「は、はい」


 クリスピンは突然の注目に戸惑いながらも、ヴィヴィアの言葉を待った。


「私に務まるのであれば、絵のモデルを引き受けてもいいわよ」

「ほ、本当ですか! ありがとうございます、ヴィヴィアさん!」


 その言葉にクリスピンは驚きと喜びの感情が溢れ出し、勢いよく席から飛び上がった。そして、感謝の気持ちを伝えるため、何度も何度もヴィヴィアに頭を下げたのだった。



    ◇



「私はまだまだですね……結局何を言いたかったのかわからなくなっちゃいました」


 サクラが静かに独り言ちる。その言葉を聞いていたバーテンダーが、優しい声で呟いた。


「そうですね、自分の中でまだまとまっていなかったのでしょう。……ですが、私はそれでもサクラさんらしくていいと思いますよ。私にはできなかったことです。」


 サクラはその言葉に少し驚き、バーテンダーの方を静かに見つめた。


「私はあの時、クリスピンさんを出禁にすることしか思いつきませんでした。あのままではヴィヴィアさんは救えても、クリスピンさんの気持ちは救って差し上げられなかったでしょう。ですが、サクラさんはお二人を救う方法を模索していた。……それは、私にはできなかったことです」


 サクラは目を大きくし、慌てたように顔を横に振った。


「で、でも結局はマスターのおかげでお二人とも救われました。私なんて何にもできませんでした……」


 そう言いながら、彼女は肩を落とし、俯いてしまった。しかし、その様子を見ていたバーテンダーの心中には温かな思いが芽生えていた。


(あなたは、いいバーテンダーになりますよ。誰かのことを本気で考えられる、優しい人なのですから……)




 『夢』というのはひとりで見るものじゃありません。独りよがりでは叶えることはできません。誰かがきっとあなたのその『夢』を支えてくれています。そして、少し疲れたらカクテルで一服してみませんか。



 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『パラダイス』

ドライ・ジン 30ml

アプリコット・ブランデー 15ml

オレンジ・ジュース 15ml

マラスキーノ・チェリー 1個


シェーカーにマラスキーノ・チェリー以外の材料と氷を入れてシェークし、

グラスに注ぎ入れ、

グラスの底にマラスキーノ・チェリーを沈める。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋


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