バーテンダーとサクラは困り果てていた。原因は連日通ってくるお客、クリスピンという名の青年。彼が抱える問題が、店の空気を日ごとに重くしていた。
「お客様、何度も申し上げておりますが、他のお客様に関する個人情報などはお教えすることができません。大変申し訳ございませんが、ご理解の程よろしくお願い致します」
バーテンダーは落ち着いた声でそう告げたが、それでもクリスピンは引き下がろうとはしなかった。
「どうしてですか! 何も仲介してほしいと言ってるわけじゃない! 名前と住んでる場所だけ教えてくれればいいんです! あとは自分でやりますから!」
必死さと焦燥感が滲む声がカウンターを越えて店内に響いた。その様子にサクラは心配そうな視線をバーテンダーに投げかける。
「お客様、さすがに自分の知らないところで個人情報が漏らされていたとしたら、どう思われますか? 不安にならないでしょうか。私たちもお店の信頼を守る立場ですし、何より漏らされた相手が善人とは限りません。最悪の場合、犯罪に使われる恐れだってあるのです」
「僕が彼女に害を加えるとでも言うんですか!」
クリスピンはカウンターを強く叩きながら声を荒げた。その勢いに、サクラはびくっと震え、思わず一歩後ずさる。
「……お客様、大きな声はお控えください。他のお客様もいらっしゃいます」
バーテンダーは冷静さを保ちつつ、少し厳しい調子で促す。しかし、頭を抱えて掻きむしるクリスピンには、その言葉が届いていないようだった。もはやこれ以上話を続けることは不毛だと判断し、退店を促すべきか、そう考え始めたその時だった。
「……あの、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
サクラが、怯えた様子を押し殺して意を決したように声を掛けた。その声は柔らかく、それでもどこか緊張を含んでいた。
「……あの、なんでそんなにヴィ……彼女のことを知りたいんですか?」
サクラの唐突な質問に、バーテンダーはキリっとサクラを睨みつけた。その視線には「余計なことを言うな」という無言の意思が込められていたが、当のサクラはまるで気に留める様子もなく、クリスピンの方をじっと見つめていた。
「……僕は画家なんです」
沈黙を破るように、クリスピンが顔を上げ、サクラとバーテンダーを見つめた。その目には、熱意と焦燥が入り混じる。
「最近、何を描いても思うように描けないんです。どんなに描いても、嘘偽りを塗り固めているように感じてしまって……どうしようもないんです! でも、彼女を見たとき、心に強烈な衝撃が走ったんです。あの美しさを、あの存在感を絵に残したい! 彼女を描けば、また情熱を取り戻せる気がするんです! だから、お願いです。彼女に絵のモデルになってほしいだけなんです!」
クリスピンの言葉は純粋で真摯なものだった。しかし、その強すぎる情熱が彼の視界を狭め、自分の思いだけで周囲のことを全く顧みられていないことに彼は気付いていなかった。バーテンダーは、その一途さがもはや危険な執着に転じているのではないかと警戒し始めていた。だが、そんな空気を読まず、サクラはクリスピンに頷きかける。
「そうなんですね……マスター。教えてあげてもいいんじゃ……」
「ダメです」
サクラの提案が最後まで口に出る前に、バーテンダーの冷静な声がそれを遮った。その一言は鋭く、場の緊張感をさらに高めた。サクラは少し気まずそうな顔をしたが、それでもクリスピンの切実な表情から目を逸らせないでいた。
「……サクラさん。バーテンダーは、どのお客様にとっても親友のような存在であるべきなのです。親友だからこそ、思いの内を打ち明けることができるし、相談にも親身に乗ることができます。でも……もしその親友が、自分の悩みを他の人にペラペラと話しているところを見たらどう思いますか? 悲しいでしょう?」
バーテンダーの静かな問いかけに、サクラは一瞬動きを止め、考え込むように目を伏せた。その後、唇を軽く噛みながら、何も言わず押し黙る。
「……ですが、繰り返しますが、バーテンダーはどのお客様にとっても親友であるべき存在です。それは、絵が思うように描けないと苦しむお客様に対しても同じことなのです」
そう語りながら、バーテンダーは背後の棚から一本の酒瓶を手に取った。
「こちらは
バーテンダーがそう語りながら
「その画家は、若い頃に最も信頼していた親友を自殺で失ったそうです。その出来事は彼にとって深い悲しみと衝撃をもたらし、それ以来、彼の作品は青を基調とした孤独や不安、そして社会への鬱屈を描いたものとなりました。親友の死が、彼の心に消えることのない影を落としていたのです」
「自殺まで考えたと言われています。ですが、そんな彼を救ったのが、この
最後にグラスが軽く
「お待たせ致しました。『スーズ・トニック』でございます。奇しくも
バーテンダーはカウンター越しにグラスを差し出したが、クリスピンはすぐには手をつけようとしなかった。その瞳には、苛立ちと疑念が混ざり合った色が浮かんでいる。
「……何が言いたいんだ! 僕がその有名な画家と同じだとでも? それとも、この酒を飲めば彼女のことを教えてくれるっていうのか!」
クリスピンの声はカウンターに反響し、店内に重い空気を漂わせた。しかし、バーテンダーは冷静さを崩さず、落ち着いた声で応じる。
「いいえ、先程も申し上げた通り、個人情報をお教えすることはできません。ですが、一杯のカクテルを飲む余裕さえない方が果たして、絵のモデルをお願いするにあたってその誠意を伝えられるでしょうか? もしかしたら、心の余裕のなさがお客様の筆を鈍らせているのかもしれません」
その言葉にクリスピンの胸には反発が芽生えた。彼は怒りを覚えずにはいられなかったが、反面、それが事実として否定できないものであることも理解していた。絵が思うように描けなくなっているのは紛れもない現実。だが、その原因が何なのか、彼自身もわかりきっていない。そして、心の奥底を見透かされたような気がして、それがひどく気に食わなかった。
苛立ちを振り払うように、クリスピンは目の前のグラスを手に取り、一気に飲み干した。
その瞬間、口の中に広がったのは驚くほど爽快な味わいだった。
「美味しい……」
クリスピンの口から思わず漏れた言葉。それは、カクテルの味わいだけでなく、何か心のつっかえがふと取れたような感覚が伴っていた。その変化に彼自身も驚きながら、静かにグラスを眺めていた。
「いかがでしょうか? 落ち着かれましたか?」
「え? あ、ああ……」
毒気を抜かれたように、クリスピンはゆっくりと答えた。その声には、これまでの苛立ちが少し和らいだ気配があった。
「お気持ちはわかります。ただ、一度落ち着いてみるのも良いのではないでしょうか。その情熱自体は素晴らしいものですが、相手のことを考えた上で行動された方が、きっとより良い結果が得られるかと思いますよ」
「そう……だね……。描けなくて、何か焦っていたのかもしれない……。悪かったよ……」
クリスピンが深く息を吐きながら呟いた。その姿を見て、バーテンダーはにこりと柔らかい微笑みを浮かべると、静かに語りかけた。
「そういう時もあると思いますよ。先程お話しした画家も、目まぐるしく作風が大きく変わり、その表現に苦労されたことが多かったのではないかと思います。私には絵のことは詳しくわかりませんが、きっと心の揺れや葛藤がそのまま表現に現れるのでしょうね」
「ああ、そうかもしれないね……。僕の心が揺れていては、いい絵なんて描けるわけがない。ありがとう。おかげで冷静になれた気がするよ」
クリスピンが表情を緩めて答えたその瞬間、静かなバーのドアが音もなく開いた。冷たい夜風と共に、深紅のドレスを纏った一人の女性が姿を現す。
彼の視線は、その女性に釘付けとなった。ドア口に立つのは間違いない……件の話に上ったヴィヴィアだった。その存在感は、再び彼の胸に鋭い衝撃を与えた。
そして、彼の中で新たな物語が始まろうとしていた。
人生に苦しんだ時、是非バーへとお立ち寄りください。焦ってはいけません。焦りは何も生みません。一杯のカクテルを飲む時間でいいのです。その時間こそが自分を見つめなおす大切な時間なのですから……。
ここは異世界のバー『
◇
『スーズ・トニック』
スーズ 45ml
トニック・ウォーター 適量
氷を入れたタンブラーにスーズを注ぎ入れ、
冷えたトニック・ウォーターでこれを満たし、
バー・スプーンで軽くステアする。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋